2010年11月25日

其の四十四 修学旅行B

 新制高校として1948(昭和23)年4月1日 群馬県立桐生高等学校発足。そして、遠足や旅行、関西方面への修学旅行も始まった。
 
 白石正男先生が、昭和29年12月の桐高新聞第31号に「雑感」を寄せている。
1.骨折り損のくたびれもうけ。
 法隆寺の金堂のバックに五十鈴川が流れていたり、渡月橋のたもとに清水の観音様が現れたり…二重写しのフィルムのように混乱して私の方寸のカメラに写っていた…これは遠い昔の私の頭の中にあった修学旅行直後の思い出のアルバムである。(注:白石正男は、昭和6年3月、桐中卒で4年に修学旅行に行っている)。
 昭和28年度春秋を通して新聞に報道された旅行中の事件だけでも枚挙にいとまがないのであるが、根本原因は、平常楽しく学校に通っている時の生徒の心理的な平衡状態を歪めてしまうまでに蓄積された旅行中の日々の疲労であると断ずることが出来るのである。
2.先達はあらまほしきことなり。
 頭になんの予備知識もなく、手に案内書も地図もなければ、或いは居眠りするより仕方ないかも知れない。これでは、誠に兼好法師にも笑われるプアーな旅行者と言わざるを得ない。
3.一生の記念。
 ある国宝建造物の柱にR・Sと、彫り跡が生々しい。その男が成人し新婚旅行で此処を訪れた時 新婦に自分がえぐった事を話すであろうか。老後の信心に数珠を掌に参拝に来た彼は、この文字を拭いさることの出来ないこの心の汚点を前にして、悔悟の涙を流さなければならない。
4.この気持ち分かるでしょうか。
 引率教師の心配は、
「おや!この宿は火事の時 非常口があるだろうか」
「衛生検査は保健所でやっておいてくれたであろうか」
「点呼の時生徒が一人便所に行っているというが、赤痢じゃないだろか」
「夜の自由外出で事故を起こさなければよいが」
「寝相の悪い奴ばかりで、風邪でも引かなければよいが、と懐中電灯つけて見回らなけりゃ」
 こうして、やっと教師は寝床にもぐる時がくる。先生方の話を聞くと
「十人中五人は、丸三日心配の為にウンコが出なくなってしまったとのこと」

 昭和6年3月 桐中卒、在学中は柔道部の猛者。22年6月〜49年3月桐中・桐高在職。その白石先生、40歳の頃の皮肉とユーモアを交えた「雑感」である。
まぁそれほど「修学旅行の引率」は気の休まる時がないのであろう。
酒 しかも急性アルコール中毒、タバコ 最も危険な寝タバコ、仲間うちの喧嘩、門限遅れで外から這い登って他校の部屋に珍入する者、他校生との喧嘩、危険なので奈良土産の「刃物」は一切纏めて学校送りにするなど、恐らく珍奇な事件、危うい事は、枚挙にいとまがないであろう。
 ただ、旅行中の生徒指導上の事柄は、すべて現地にて旅行団が処理し、学校に持ち帰るものではないという不文律が有ったと思われる。もちろん何十年間には、処理出来ず学校に持ち込まれ、顰蹙をかった学年団も有ったとは聞いているが、希有なことであろう。しかし、某女子校の如く、百人を越える飲酒事件で帰校後、その処理が大変で町に噂が立ったような事は、幸いにしてない。殆どの事は現地にて適切に「処理」「消去」されてきているのである。ただ、きわどい事件は、教師の記憶にしっかりと残っているのである。
 誠に教師にとってみれば「修学旅行」などというものは、出来たらやりたくないと思う教師もいる。
しかし、修学旅行の記録となれば、以下のように整理され、悪ガキの自慢話は出て来ない。

 昭和23年6月、「全校で希望別旅行 仙台 箱根・熱海 半月峠越え日光等」と90年史にあるが、出典確認出来ず。80年史では「23年春」。
 24年春、「仙台・松島方面が加えられた」(80年史)
 24年6月3日「全校遠足 赤城、浅間」(○○個人メモ)
24年11月2日〜三年生の修学旅行希望が強く
   伊豆・修善寺方面へ生徒50人前後
   京都・奈良方面へ生徒51人、
 1日に先発隊中澤教諭と生徒6人、2日本隊が金子教諭に引率され出発、車中2泊、旅館2泊し、11月6日に帰桐した。
 見学では、伊勢神宮には寄るが、御陵・聖地等の見学は無かった。
 新制高校の関西修学旅行実施は、多くは翌25年からであったが桐生女子高校がこの年10月18日から三泊四日で実施!しておりその事で桐高生の要望が強まったのかも知れない?
 25年10月6日〜11日 三年生修学旅行実施(26年3卒)
 26年 4月2日〜 7日 この年から3年の4月上旬出発となる。
   往復夜行で実施する。
 30年〜31年往路 朝出発 復路夜行
 32年 往復路 不明
 33年〜40年(34年3卒〜42年3卒) 往復東海道夜行列車
 「座席の下や通路に新聞紙や茣蓙らしき物を敷き、ダスターコートにくるまって寝たり、中には荷物棚に上った奴もいた」

「米持参 一人2升」そして「米を送る」
 米は、持参し旅館に着くたびに、靴下に分けて入れておいた米を出す。
 27年(28年卒)〜32年(33年卒)までは、資料未発見
 33年(34年卒)〜学校に持参に 前もって送る。いつまで行われたか確定出来ず。37年・38年卒までか?
二年生の秋 実施に移行する。
 昭和37年には、春三年生が実施、秋に二年生が実施した。
 太高は33年、前高は34年、高高は38年に、二年に移行した。
四国へ渡り、金比羅様参り
 昭和37年・38年の二カ年は、四国へ渡ったのだが、何故こうした企画が作られたのかは、不明である。
 なお、太高も37年のみ 四国へ渡っている。
新幹線利用
 昭和41年10月 復路 東海道新幹線利用。
 昭和45年5月  往復新幹線利用 大阪万博見学(47年卒)
        四泊(旅館)五日となる。
 往復新幹線利用 関西方面修学旅行は、1970年から1994(平成6)年まで、25年間続くこととなった。
一日自主見学の実施=昭和47年秋
 バスに乗っては降り、乗っては降りでの神社仏閣巡りでは、生徒の自主性や事前学習も進まない。そこで少しでも自由時間を定め、班別の自主見学を取り入れていった。昭和39年には、嵯峨野二時間半の自主見学実施、以降嵯峨野、奈良公園、西の京、京都市内などで大体半日単位で行われ、生徒が班別に朝旅館を出発し夕刻に戻って来るという京都一日自主見学は、昭和47年(49年卒)に遂に実現した。
 生徒は大喜びであったが、教師の方は、県下の高校では二、三の学校が実施しているだけで、マニュアルもなく、事前指導、当日の指導・チェック体制、危機管理等膨大な資料を県に提出すれども却下されたりしたのであった。
当日、見学を終了し3時頃に戻った班が一つ、途中喫茶店で時間を潰した班が一つ、時間に遅れタクシーで戻った班が一つであり、無事事故もなく終わった。
 この一日自主見学は、翌48年〜50年(50年卒〜52年卒)まで実施された。
一日自主見学中止
 1976(昭和51)年9月10日、県教委は各公立高等学校長に教育課長名で「修学旅行の改善について(内簡)」を通知した。
 宿泊を伴う修学旅行におけるグループ見学について基本的配慮事項、留意事項、指導例をあげ、指導の徹底を促した。その中で「見学時間は、一回につき半日以内とし、食事を含まぬこと」とされ、「一日自主見学」は中止となったのである。
 この県の内簡の背景には、自主見学、自由見学の際に若干の事故に遭遇する例があったこと、或いは、当時修学旅行に対してその効果は少ないとする無用論、経費の増大による保護者負担の問題等があったが、最も直接的な背景は、51年8月3日 高崎女子高校一年生2名が草津白根山で、硫化水素吸い込みにより死亡、6日後教諭1名が死亡された事件が起こった。高女万座山の家でのホームルーム研修の際の事故であり、これを契機に旅行や合宿等に県教委は厳しく対処したと思われる。

桐高に於いて京都一日班別自主見学が復活したのは、なんと1998(平成10)年の事である。
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2010年11月18日

其の四十三 修学旅行A

[旅行の目的は?]
 文化財としての神社仏閣等の見学というより、「お伊勢参り」「参宮旅行」の伝統を受けて、伊勢神宮や天皇陵の参拝に主眼が置かれたのは当然であった。
 原則的には、名古屋熱田神宮、伊勢神宮(外宮・内宮)、桃山御陵(明治天皇陵、乃木神社)、湊川神社(楠正成)等を参拝。国家の最高権威、絶対的権威である天皇、特に明治天皇を称揚し、また「臣民の道」を学ぶ旅行であったといえる。
 大正11年、生徒作成の旅行の栞では、桃山御陵について
明治中興の英霊を鎮め奉るに誠にふさわしい」 
 大正12年の旅行記では
「神武天皇以降の模範的君主明治天皇の英霊を奉安す。遙かに御須屋を礼拝する瞬間感慨無量思わず涙白砂を潤す。」
 昭和4年 旅行記
 「常に武等の幸福に御聖慮をなやまされ、我が国威を世界に御発揚なされた明治大帝の御聖業を偲べば新たに敬慕の生ずるを禁じ得ない。」
このように「明治大帝」へと表現も変化してくる。

 昭和初期以降、交通の整備、進展もあり、「建武の新政」という天皇親政の象徴である吉野山の後醍醐天皇陵参拝、「神武の創業」に還り「肇国の精神」が唱導される中、畝傍の橿原神宮・神武天皇陵参拝は欠くことの出来ない所となった。
 昭和10年〜12年には、桐生から夜半に直接東京へ向かい、未明に「宮城遙拝」が行われている。「真暗い中の二重橋前のザクザクと玉砂利をふむ足音…はっきりと耳そこに残っています」(昭和14年卒回想記)。
 昭和15年の天皇行幸、紀元2600年記念事業として橿原神宮整備にあたり、前年、14年の修学旅行団は、2〜3時間の勤労奉仕を行っている。
 昭和15年の旅行の諸注意には、旅行の目的が明確に書かれてある。
「皇紀二千六百年に当り、皇大神宮を始め神宮、御陵聖蹟…参拝し、皇祖皇宗を追慕し奉り、大いに国体観念を振起し、皇軍将士の武運長久を祈願し併せて、各地の人情、風俗…美術工芸の状況を観察し…健全なる中堅国民たるの教養に資せんとす」と。まさに太平洋戦争前夜であった。

 御陵・聖蹟の参拝以外では、現在でも馴染みのある寺社等を見学。
市電やバスの利用もあるが、多くは徒歩であった。幾つか注目したことを触れる。
1.法隆寺金堂の大壁12面→1949(昭和24)年、失火により焼失
  「…堂の四方の壁画が微かに光って見えます。剥げています。燻っています輪郭もわかりません。…一つ所をじっとみていると…だんだん其処が明るくなって…その大小12面の壁画のおぼろげな筆の跡を辿ってみるとその構図規模の大きさその色彩の華やかさが分かります。…最も滅びやすい絵画その中で奇跡的に残っているこの壁画…「薄き日は壁画に匂ふなつかしき 慈眼にすがり泣かまほしくも(佐々木信綱)」(昭和5年の旅行記)
本物を見た桐中生もいたのである。

2.金閣寺
  「10歳位の少年の案内で先ず第一層の説明を承ける…二層の仏像絵画をみて三層に登る。金の塗ってある所は此の三層だけで、それも今は所々削り取られて傷だらけである。」(昭和2年)
 「…池の中の島には小林が茂っていて、亀が平和の使いのように岩の上で遊んでいる 金閣寺はおもったより美しくない建物だ。…二三年前より二階以上は見学させぬことにしたのだそうだ」(昭和7年)
 「…白壁に鉛筆で無造作に落書きがしてある」(昭和8年)
足利尊氏(室町幕府)は、「逆賊」「人非人」という認識があるから、金閣寺はどうも人気が薄いようである。
 この金閣寺も1950(昭和25)年放火により焼失。再建されたのは昭和30年10月である。
 戦後最初の関西への修学旅行は、昭和24年10月、25年3月卒の約50人の希望者で、焼失前の金閣を見学する。
26年3月卒〜31年3卒までは、金閣寺には、当然行かなかったことになる。

3.薬師寺や唐招提寺は、ほとんど見学していない。最寄りの交通機関なし。
「薬師寺より二三町の間、壊れかかった土塀あり 蔓草茂り瓦かけ少しも見るべき所がない唐招提寺を出て奈良まで歩く」(昭和5年)

4. 大阪では、大坂城は勿論、大阪毎日新聞社又は朝日新聞社、そして造幣局が見学の定番コースであった。
京都では、寺社以外に日活撮影所を見学した年も一回ある。

5.夜間外出はいつの時代も楽しみ!
 「一日の疲れを浴槽に洗い流した僕達は外出許可を受けるやいなや籠から出た小鳥の様に夜の京都へ散って行った。…ふと気が付いて三条大橋の上に立って左手の方を眺めると大文字山の大の字が夜空にくっきりと浮かんでいた」
 「京都では京人形だ。…どの店にも綺麗な人形が棚に立ち並べられてあった。一つ二つ求め…宿に帰って来るものがみると、きっと幾つかの箱を抱えている」(昭和4年)
 「夕食後遂に街に浮かれだした。…享楽的気分に満ちた道頓堀を一廻りして
千日前の繁華に目を廻した。…人波に揉まれている内に…変に静かな裏町の方までまぐれ込んで西も東も分からなくなった。」(昭和3年)
「楽しき夕食の後、ひと風呂浴びて我らの若き心は夜の大阪。道頓堀へと繰り出したのである。ジャズが歌う…テナモンヤナイカナイカ道頓堀の…。おお浪速だ、道頓堀だ!人の泉、光の泉…いかに現代人のやるせない要求がこんな世界を作ったにせよ、これから後これがどういう風になって行くのか。ああ!ニヒリストの今日である」(昭和5年)

追補
 [修学旅行の中止]
昭和15年度 文部省より修学旅行制限の通牒あり、県議会でも質疑があった。
県は「中等学校生の伊勢参宮廃止は輸送力の関係から文部省が(鉄道省に)譲ったものである。また、時局柄見物の修学旅行はいけない、鍛錬的たるべし。それも二泊三日以上に亘ってはいけないとされている」と答弁している。
これに対して中等学校側からの強い働きがなされ、16年度は、厳しい条件をつけられたが多くの中学は実施したのであるが、桐生中学は、16年度から中止した。その理由や背景については不明であり、推測することも出来ない。

 16年7月14日 学務部長「県外にわたる教職員及び児童生徒の団体旅行は、特に文部省より指示せらるるものの外、当分の間之を中止又は延期すること」と通牒があり、9月25日 学務部長は公式に文書で指示した。
これは16年6月「独ソ戦」開始により、7月、日本は関東軍特別大演習=「関特演」実施。そのためには国内から40〜50万の兵力、物資等を輸送することとなったことが、直接的な背景の一つである。

こうして昭和13年入学生以降、関西方面への修学旅行は無くなった。
修学旅行の再開は、新制高校となり昭和24年の希望者による旅行から始まるのである。
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2010年11月07日

其の四十二 修学旅行@

1.六泊七日、七泊八日の関西方面修学旅行!と言っても「強行軍」だ!

  桐生駅午前1時8分出発、未明東京駅着、
「隊伍を整え宮城へ、」「大君います宮城の御前にぬかづき、聖寿の万歳を祈り奉り、皇室の弥栄をお祈り…日本国民と生まれた幸福をつくづく有難く思った。」
午前6時30分姫路行き乗車。
「列車は殆ど他団体、一般客に占領され、一つの車にクラスメーツのみ集って朗らかな中学生らしい旅行気分を味う自由も許されず皆意気消沈の態である。…大多数がスタンダップという訳だ。6、7時間同じ所で立ったまま、ダルマ式の修業を続けた者もある」
熱田神宮、名古屋城をみて、やっと宿泊地鳥羽へ向かう。
「宿に着くとすぐに食事。何しろ夜10時の夕食だ…床についたのは12時近く、皆穏やかに休むべくもない。瀬戸先生(配属将校)の一喝は、一時の沈黙から楽しい夢の国へと誘ってしまった」
 そして「朝5時半、一斉起床だ、7時港より遊覧船で島巡りに出発」といった強行軍である。

 朝6時桐生駅出発し上野まで4時間余り東京駅を正午頃出発し、京都駅着翌朝の午前4時 なんと16時間
 京都駅から東本願寺往復し、電車で伏見稲荷・桃山御陵礼拝し京都に戻る。
徒歩にて方廣寺〜三十三間堂〜清水寺〜円山公園知恩院〜平安神宮
 「…腹の虫も泣き出す、空腹を我慢して旅行するも一興と、関東男児、気旺盛なり。」インクラインから南禅寺へ。
 ようやく電車で北野天満宮〜金閣寺〜徒歩にて宿舎に到着。夜間外出といっても「今日の疲労に耐えかね9時前に帰りて寝に就く」有様である。
 貸し切りバスに乗車し、拝観場所の駐車場で降りて見学、またバスに乗ってといった「ところてん方式」の旅行ではない。ゲートル(巻脚絆)巻いて歩け歩けの旅行である。「京都七条から水田の様にごたごたしたぬかるみを進んでいく」「名古屋の道路は塵が多く、馬糞の山がある」大阪は「自動車や電車が右往左往に続けざま飛んでいる。人は皆そわそわとその間を急いで歩いている。迂闊に歩いていると突き飛ばされる様である」
 しかし、先生方も皆健脚であったなあ! 感服!

2.修学旅行は、1917(大正6)年の開校の年から全学年とも実施。
10月25日 「二日一泊」で「修学旅行を挙行」
 1・2年生が、足尾を経て日光中禅寺湖泊まり。日光を経て帰校。
これが最初の修学旅行である。
  * 全国では、1886(明治19)年、東京師範学校の銚子方面
「 長途旅行」が最初と言われる(教育学事典)。
全学年が揃った大正9年度は、
第一学年     唐沢山方面遠足    
第二学年     日光・足尾方面 泊        
第三・第四学年  水戸地方    泊           
第五学年     三重・京阪方面 (以上「県学事」)

「80年史」によると、大正11年に有志による関西旅行が実施され、五年生全員で実施したのは、大正12年であり、修学旅行が学校行事として行われるようになったと記載されているが、
最初の関西方面への修学旅行は、
大正9年5月17日〜23日の7日間。
 生徒25人、教師3人。この生徒は第一回卒業生28人の学年であるからほとんど参加したと言える。

 伊勢「参宮旅行」は、明治期に一高が伊勢参宮旅行を行ったのが最初と言われ、県下では
前中が明治45年、
太中が大正元年 
高中・沼中・藤中が大正2年に実施、
各学校積立を前もって行っていたと、ある。
桐中でも大正7年の教務日誌抄に「修学旅行貯金積立規程を制定す」とあるが、毎年、全員参加出来たかどうかは不明である。
大正11年の伊勢神宮前の写真には、生徒18人と教師2人が写っている。
12年3月の卒業生は、48人であるから、もし、この写真1枚が参加者全員の写真だとすると、参加者は大分少なかったと言える。
 この時の写真、旅行の栞などは「90年史」にある。
栞は生徒の手で作成されたと思われるが、発行所「桐中内 無資金出版社」、また「不許腹背」などと奥付に有り、桐中生のユーモアを垣間見ることが出来るではないか!

3.戦前の旧制中学時代の関西方面修学旅行データ
「80年史」「90年史」に詳細に記載されているが、一部補足、修正する。
また、「県学事」「桐中教務日誌抄」、個人「日記」等での食い違いもあるが一定の推定も含め、以下まとめた。
[旅行期間]
 1920(大正 9)年〜1923(大正12)年 7日間
 1924(大正13)年〜1937(昭和12)年 8日間
 1938(昭和13)年〜1940(昭和15)年 7日間
[実施学年]
 1920(大正 9)年〜1928(昭和3)年  5年生
 1929(昭和 4)年 3月(昭和3年度)
   3年・4年生で実施。この理由は、前年11月、「昭和天皇」の
   「即位大礼式」が京都御所にて挙行され、その大礼式跡を拝観する事が
   主たる理由であり、多くの学校が同様に実施している。
 1930(昭和 5)年〜1940(昭和15)年 
   4年生(3月では3年生だが)が、3〜4月に実施している。
   5年生は「受験」をひかえているという解説が多いが、それは今流の
   解釈であろう。各中学全員が進学でもない。
むしろ、最上級生の5年時には、教練や野外演習、兵営宿泊等の増加という背景があったのではなかろうか。

[関西までの往路交通経路の特徴]
 1920(大正 9)年〜1926(大正15)年
     大体は、早朝、桐生駅から上野・東京に向かう
 1927(昭和 2)年〜1928(昭和 3)年 
     桐生駅を午後出発し、長野〜金沢泊で京都に入る
 1929(昭和 4)年〜1933(昭和 8)年
     桐生駅午後出発し、篠ノ井経由で名古屋に入る
 1934(昭和 9)年〜1937(昭和12)年
     両毛線(臨時)又はバスで東京、そして名古屋へ。
 1938(昭和13)年〜1939(昭和39)年
     桐生を夜半臨時列車で出発し、横浜へ向かい
     横浜から「汽船」、船中泊で神戸へ向かう。
 1940(昭和15)年 最後の修学旅行は、
     往復夜行列車である。
  *昭和17年卒〜25年卒までは、関西への修学旅行なし。
   (25年卒は希望者で実施)

[関西からの復路交通経路の特徴]
 1920(大正 9)年〜 名古屋から興津に泊まり、最終日に
     東京で見学又は自由時間をとり、桐生に戻る
 1927(昭和 2)年〜1931(昭和6)年
     名古屋から夜行で藤沢乗換、江ノ島・鎌倉見学後 桐生へ
     *鎌倉に立ち寄らない年もある。
     *昭和6年は、詳細な記録なく、場合によっては異なる。
 1932(昭和 7)年〜1937(昭和12)
    神戸港より横浜港まで、「汽船」で船中泊
 1938(昭和13)年〜1939(昭和39)年
     往路汽船のため、復路は名古屋から夜行、
     東京経由で桐生へ
 1940(昭和15)年 復路も東海道線車中泊

[汽船の利用]
 なぜ「汽船」利用が始まったのかは分からないのだが、一般的には昭和4年からの世界恐慌で海運業界が不況となり利用が促され、「海無し県」群馬の生徒に体験させる良い機会と考えられたと言われる。
 県内では、高中が昭和5年に利用している。桐中は、昭和6年は不明だが
昭和7年から14年まで8年利用しており、恐らく県下中学校の中では最も多く利用したのではなかろうか。
 利用した船舶は、   ハワイ丸     9,000噸 
南米移民船である    リオデジャネイロ丸9,629噸、 
ブエノスアイリス丸9,600噸
太平洋航路等で活躍した豪華客船
            秩父丸 17,498噸 
龍田丸 16,955噸
太平洋の女王と言われた 浅間丸 16,975噸
 
「私どもの乗る巨船浅間丸は、真っ黒な船体からじょうじょうと水を吐いていた。真っ白なキャビン、黄色なマストは輝いていた。…大ビルディング同様である」 浅間丸は、長さ178m 巾22m、太平洋の女王といわれた豪華客船である。「三等(船室)といっても快いベッド、キャビン…甲板に飛び出した。
…空は青、海は緑、絵の如き船、沿岸の町、モーターボート、ジャンク船すべて私の心にひしひしと応えた。…スミトモバンク、ポストオフィス、床屋、売店…ホスピタルという表札まである」もちろん一等船客専用のプールもある。
 「(龍田丸)…売店に行ったり、艦首・船尾で大洋を乗り切る雄壮さを味ったり何度も廊下を往来した。…寝台に横たわる、だんだん動揺してきた。頭がすうっと下がる。地獄にでも落ちるような気持ちだ。…ドアが勢いよく開かれて先生方が我々を元気づける為にお出でになった。…しかし遂に方々で仁丹を求める声が起こった。嘔吐の用意に器を身近に置く者もいた。」
 戦後、高校時代に一時琵琶湖遊覧や四国に渡る場合に船が利用されたが、海難事故があり、船舶の利用が禁止されてしまった事を考えると、まさに逆の意味で隔世の感がある。
 なお、桐中生が乗船したこれら船舶は、太平洋戦争において陸・海軍に
「徴用」され、全て、まさに「戦没」したのであった。
(乗船しなかった船舶のうち「戦没」を免れた船舶では、
現、横浜にある「氷川丸」、そして舞鶴への引き揚げ船「興安丸」が有名である)。
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