2010年12月24日

其の五十 もう幾つ寝るとお正月

 2010(平成22)年の師走、世の中は迷走するかのようにして新年を迎えようとしている。これでは一年の計も立たないかもしれない。
 学校は冬季休業に入る。
冬季休業は、明治時代から12月25日から1月7日までというのが基本になっている。もちろん、学校の始業が4月から始まり、三学期制をとり始めたのも明治時代からである。
 1月1日は、当時、皇室行事の「四方拝」にちなみ「四方節」と呼ばれ、紀元節・天長節と合わせ三大節と呼ばれ、一月一日は「休日」ではなかったが学校で式典が挙行された。また1927(昭和2)年、明治節が制定され四大節となった。
1918(大正7)年1月1日 新年拝賀式挙行(教務日誌抄)、毎年元日には学校に登校した。
 式次第
  一 生徒職員順次入場
  一 校旗入場
  一 一同敬礼
  一 御真影開扉 最敬礼
  一 国歌合唱
  一 学校長以下御真影奉拝
  一 勅語奉読 前後最敬礼
  一 御真影閉扉
  一 学校長式辞
  一 一同敬礼
  一 校旗退場、職員生徒退場
  一 神宮参拝
     (館高五十年史)
   
「元日の朝、登校の途中、色々な事が頭に浮かんできた。先ず第一に此のお正月をどんな風に過ごそうかなどとつまらない考えが浮かんで来た…」(昭和4年「桐中校報」、二年井田勢猪蔵=  代桐高校長)。
「君が代、校長先生の訓話があって後、解散した。家に着いたのが昼頃であった。…夜はカルタ・双六等をして楽しく第一日を過ごした」(二年大澤秀寿)。
多くは学校に登校したが、地元の小学校や青年団と共に祝ったり、中には、実家・故郷へ戻ったり、スキー場で新年を迎える生徒もいた。上級生は?
「…既に陸士の試験は始まり海兵・高師の試験を目前に控えて死にもの狂いで奮闘する人々の事を思えば、如何に無神経な者といえども頑張らざるを得ない。…これからの三月がものを言うのだ。だから今の僕には歳末も正月もない、僕の正月は四月だ」(昭和11年「桐中校報」四年沢辺正治)
「あと僅か五十日程の勉強が運命を支配するのだ。…この冬も正月気分を味わずに奮闘した」(四年前沢実)

 1941(昭和16)年の四方拝拝賀式には、陸海軍諸学校の先輩、高専先輩等多数参列する。
「皇紀二千六百第一年の元旦にも多数の先輩が、軍靴の音も厳かに本校に臨席せられた」とあり、昭和15年元日も諸先輩が臨席したことが窺える。
「…軍装きらびやかに陸海軍諸学校在学中の諸先輩がわざわざ列席せられて、一段と光彩を発って下さることは、本校近年の微笑ましい恒例である」と。
この日参列した陸軍士官学校在学生三人の内、二人は後に散華した。

 昭和20年は?
4・5年生は、尾島工場に動員、3年生は市内工場に動員という中で、
19年12月30日 「正月に帰省出来ないという話がありがっかりしていたが、帰れるようになったので嬉しかった」
20年1月1日 「十時四方拝に参列するための登校、校長訓話あり」
   1月2日 「中番(早番・中番・遅番という三交代制のことか)なので九時四十九分発の電車で尾島に帰る」(四年、藤掛日記)
*この年末「正月休みに帰省なしの連絡を聞き、集団脱走を企画・実行した者があったが直ちに召集され、奉安殿の前に土下座させられ厳重注意を受けたと聞く」(四年藤沼博、「80年史」)。この件に関しては何人かの進路変更が迫られたという証言も聞いているが、詳細は不明。

21年は、太中の記録では「挙行、外套使用許可」とある。
前年の12月26日に、御真影奉還に関する通達に係わり、
「来る一月一日の式場には奉還すべき御真影は奉掲せざること」とあり、式は実施されたと思える。

22年・23年、新年拝賀式は、挙行されなかった。
また、両年とも紀元節・天長節も挙行されず休日となった。22年の明治節は、新憲法が発布され、学校では桐工との野球試合があったという。
明治節の式典、或いは憲法発布の式典が有ったかどうかは不明である。
23年7月、以前の「休日」に係わる勅令は廃止となり、新たに「祝日」に係わる法律が制定され、一月一日は「祝日」となったのである。

追加 
国の祝祭日で休暇日とされたのは、1973(明治6)年の太政官布告に始まり、改正が重ねられ昭和2年の勅令による「国の祝祭日」で「休暇日」は、
 元始祭    1月 3日 (学校は冬季休業中)
 新年宴会   1月 5日 (   〃    )
 紀元節    2月11日 学校、その他で式典等あり
                           →建国記念の日
 春季皇霊祭   春分の日 (学校は休日) →春分の日
 神武天皇祭  4月 3日 (学校は春季休業中)
 天長節    4月29日 学校にて式典あり→みどりの日
                           →昭和の日
 神嘗祭   10月17日 (学校は休日)
 明治節   11月 3日 学校、その他で式典・体育行事あり 
→文化の日
 新嘗祭   11月23日 (学校は休日) →勤労感謝の日
 大正天皇祭 12月25日 (学校は冬季休業中)

旧制中学時代に実質的に休日となったのは祝祭日の内、3日であり、開校記念日(創立記念日)は、主に休業日とした場合が多い。
現在は、祝日は15日、また土曜・日曜日が休みである。
*なお、旧制女学校などにあっては、更に「皇后陛下御誕辰日」が、「地久節」と呼ばれ、昭和前期では3月6日であり、休業日となっていた。
年間授業日数を挙げると
  昭和10年前後   255日 プラスα
  昭和30年代    244日 前後
    最近      200日 前後

***桐中・桐高外史を4月から9ヶ月、50本の記事を掲載させていただき有り難うございました。
同窓の皆様から何かと御批判、御感想をいただけると思っていたのですが殆ど無く、何か一方通行のようでもありました。
同窓会のホームページであり、100周年誌の下書きの様な面もあり余り情緒的に、或いは個人的感慨として触れることは、出来るだけ避けてきましたので、面白みに欠けたかも知れません。これが個人的ブログであれば、事実・史実に基づきながら、ハチャメチャな事を書くことが出来たのかもしれません。難しいことであります。
来年(2011年)からは、どうしたら良いものか、小生も
「一年の計」が立たないかも知れない。とりあえず

皆々さま、
皆々さまは、ぜひ良いお年をお迎えください。

           2010(平成22)年12月24日
            桐中・桐高外史担当 木本 富雄
                      (昭34年卒)
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2010年12月23日

其の四十九 先生の異動

 1922(大正11)年12月6日付で、藤倉喜代丸(五年生)が「校友会雑誌創刊号」で、勉強・旧友・自分の事など5年間を振り返る中で、
「…一般的には師の幾度もの更迭に遇いそれは生徒には全く不幸なものであった。学校に問題は起きる 対抗的の武道とか−随分煩雑生活になってきたのである。師の更迭は生徒に不幸です。先生が生徒を愛さないのではなく生徒が忠実でない事からであろう。……懐かしき情熱は、去りたまいし師を想い返し過ぎし日の追憶に耽るのである。…」と、書いている。
 背景には、具体的な出来事が有るようであるが、推測出来るような事実は見つからない。藤倉が5年生になった四月に教練教師が転出しただけである。
 ただ、桐中創設期の数年間、着任されながら、短い期間で離任されて行った先生が非常に多かったことは事実である。
嘱託と思われる教師を除いた「教諭」(学校長は除く)のみについて見ると
 大正6年4月〜11年4月までに着任した教諭は「28」人で、その内7人を除いた21人の桐中平均在職期間は二年半位である。当時の県内中学校については調べることが出来ないので、比較はできないが少しばかり短いように思える。藤倉が在学した5年間、一緒にあ過ごせた恩師は、一人もいない。
桐生町域生まれは、2人
群馬県内生まれは 6人
その他20人は県外から来た教師である。。
出身校では、東京帝大3人 広島高師3人 早大5人
        東京高師2人 東京外語1人 東京美術1人
その他各県の師範学校を経て検定合格者や中学教員認定者

戦前の中学校教諭の赴任地は「全国区」であり、一般的には本人の希望する所或いは求められた所に赴任出来た面もあり、と同時に学校長の権限も強かったと言われている。藤倉の言う「更迭」という事例は推測出来ないが、生徒の眼か見ると「異動」も「更迭」と思えたかも知れない。

藤倉の在学中の教師で、在職5年以上の教諭は、
下記の通りである。
大正 6年4月〜大正11年3月  5年    石井 定雄 地歴
大正10年7月〜昭和 2年1月  5年6ヶ月 小島 類吉 歴史
  11年4月〜   4年6月 7年2ヶ月  大多和一郎 教練
  10年2月〜   7年3月 11年1ヶ月 星野 辰雄 英語
   8年4月〜   8年3月 14年    篠崎与十郎 国漢
   9年4月〜   16年3月 21年    松島利一郎 体育
          (3年半の兵役あり。戦後15年間講師)
  11年12月〜24年3月 26年4ヶ月  小山 聡作 地理他

桐生町域で出生したのは、星野・小山
その他群馬県で出生したのは、石井・小島、その他金子近次・新井新・小峯佐吉・木村善平。
後々、桐生に永住(長く在住)したのは、星野・小山・松島・篠崎・萩原。
もちろん、この当時桐中出身の教師はいない。多くは県外から着任しそして、多くは他府県の中学へ次々と異動していったのである。

さて、以上で教諭の異動については触れたが、「学校長」については触れなかった。
初代校長 渡部たまき 大正6年3月30日〜8年3月31日 
             休職となり、10年3月退職
            (着任時44歳、東京帝大中退)
 二代  金森外見男   6年4月〜8年3月 教諭
             8年4月〜10年6月2日 学校長
            (学校長昇任時51歳、東京帝大中退)
             碓氷郡立実科女学校学校長に転任
 三代  斎藤 重保  10年6月2日(着任は11日)
             〜11年1月16日
            (着任時37歳 東京帝大卒)
             退職し、中国漢口東亜同文書院へ
 四代  田中伊藤次  11年3月7日
    (着任日は16日この間 校長事取り扱いは立石秀三)
             〜12年5月29日
            (年齢 確認出来ず。東京帝大卒)
このように 藤倉喜代丸が在籍した5年間に学校長は4人代わったのである。
旧制中学校の「学校長」と現代の高校の「校長」の地位、権限等を簡単に比較することは出来ないが、少なくとも大きな権限と管理・運営を通した統率力、指導力を持ち、多大な影響を与える存在であったことは間違いない。また、授業では、「修身」の授業も担当し、学校行事では先頭にたった姿が、卒業生の回想にしばしば登場するのである。
 藤倉回想記には、学校長と触れあった思い出が数々登場するのであるが、恩師の「更迭」の中心をなすのは、「学校長」の異動であったのかも知れない。
もし、そうだとすれば、「学校長」の異動は、これほど頻繁に行われるのが慣例であったのかどうか、一応見ておかなければならないだろう。
 群馬県下の各中学校について、下記に学校長の人数を記したが、桐中の学校長数が圧倒的に多く、如何に「異動」が頻繁に行われたかを示している。そのことが「学校つくり」にどのような影響をもたらすのか、また何故桐中の学校長は短期間で異動していったのか、これは、あらためて別稿で触れることにしよう。

 旧制中学校時代       
前中=51年間   15人     
高中=48年間   14人  
富中=48年間   12人   
太中=48年間    9人   
藤中=44年間   14人 (途中分校時代あり)  
沼中=36年間   10人   
渋中=28年間    7人   
館中=27年間    6人 
桐中=31年間   15人 

 桐中創立前後から旧中最後の頃まで
前中  大正 2年  〜   7人     
高中     5年9月〜   9人
富中     4年  〜   8人
太中     3年  〜   8人
藤中     3年  〜  13人
沼中     3年  〜  10人
渋中     9年  〜   7人
館中    10年  〜   6人
桐中   大正6年  〜  15人

*追補 藤倉喜代丸(先生)について
 明治35年2月11日 栃木県安蘇郡飛駒村入飛駒字今倉
            根本山神社神官家に生まれ、特に
            祖父若丸の訓育を受ける。
 大正 7年4月〜12年3月 桐生中学校卒業
   14年3月       皇典講究所神職養成部卒業
 昭和 3年3月       日大高等師範部国漢科卒業
    3年8月〜24年3月 桐中・桐高教諭
          (22年4月〜7月 校長事務取扱)
    24年4月〜     田沼町立入飛駒中学校校長兼
               小学校校長
    36年3月      退職
*43年3月 入飛駒村は桐生市と合併。入飛駒小学校・中学校
廃校となり、昭和58年には、桐生川ダムの湖底に沈む
   48年12月      藤倉先生 逝去(71歳)
 この間 根本山神社(その他関係神社)神官、13代目宮司
桐中出身者で、初めて母校の教壇にたち、恩師に可愛がられ、また戦中、戦後、桐中の中心的な教師となっていった。幾つかの「回想記」がある。
ニックネーム「かっぱ」「じけつ」「きよまる」。
*なお、大正14年3月 桐中卒の山口善三(後に、葉鹿町長、接骨院)が、その7月から半年余り、柔道の嘱託として勤めた。
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其の四十八 野球部を支えた人達

大貫貞三
 「…東北帝大出身で同君は学校の休みの時、私と仲良く後輩の指導に当たった好漢であった」(稲川の回想記)
 大貫は、桐生町安楽土の材木商大貫常吉の子で、大正6年4月桐中一学年に入学、稲川より一歳上である。11年3月卒業し、桐生高等工業学校(現、群大工学部)に進学し野球部の投手として活躍。その後東北帝大理学部に進学する。
 昭和7年1月、館林高等女学校教諭となり数学・地理を担当、庭球部の部長として神宮大会に出場。13年5月離任する。16年の同窓会名簿では、朝鮮総督府に在職していたと記されている。
 戦後は恐らく川崎市在住、30年前後にご逝去。

大澤次郎
 「…昭和2年(甲子園初出場)優勝当時は、故人大澤次郎氏が北関東、甲子園とベンチを務めた」
          (「群馬の高校野球」阿部精一の寄稿文)
 大澤次郎は、桐生市新宿の機業大澤徳次郎の子で、大正11年4月桐中に入学、稲川より4歳年下である。12年、桐中の関東大会初出場の時レギュラー。
13〜15年と関東大会に出場するも敗れ、昭和2年3月卒業。「部員を統御し運動家として模範的人物」であると評された。
2年、北関東大会で初優勝し、甲子園出場の時、ベンチコーチを務めたのは、大澤次郎であった。
 これ以降 群大工学部野球部70年史によると
この年、桐生高等工業と上田蚕糸との試合で投手として出場した記録あり。
大澤次郎は、桐高工へ進学したことになる。
  3年 大澤の記録なし
  4年 大澤次郎、森純一(桐中昭和2年卒)
     藍原和平    (桐中昭和3年卒)
     時田貞夫・静夫 (桐中昭和4年卒)ら新人を
     迎えるとある。
  4年秋、大澤・森・時田兄 兵役
  5年には、森・時田兄 除隊
  6年春  大澤 除隊
  6年4月〜8年秋まで、大澤は主戦投手を務める。
  9年には卒業と思われる。
 12年、桐高工の野球部に人絹で造ったユニフォーム寄贈
大澤は、昭和2年〜8年3月まで桐高工におり、途中兵役期間を差し引いても長い期間、在学したことになるので、その点は、現在説明できないでいる。
そして、桐中「校友会誌 第十五号」に野球部長萩原英雄の追悼文が掲載されている(13年2月4日記す)。
 13年 志賀高原笠岳にて遭難死(日時等未調査)29歳
「思えば、今から十六、七年前のこと…帽子を心持ち傾けてちょこんとかぶり、拝むような手つきから投げ込む直、曲球が快心のスピードとコントロールをもって打者を悩ましている少年投手を見て感嘆したものであった。その投手こそが私が始めて知った大澤君の姿であった。…昭和2年藤生君が主将となるや大澤君は監督として浦和における北関東大会…見事優勝の栄冠を握り甲子園球場初出場となったのである。…(桐高工卒業後も)陰に陽に本校野球部のために並々ならぬ世話を焼いてくれた…その次郎さんが忽然と逝ってしまった。私も片腕をもぎ取られたような心持ちがして、ただ夢のようだ…」と。
 *なお、森純一は、桐高工卒後陸士に入学、
  昭和17年陸鷲隊にて散華
  藍原和平は、昭和16年以前に逝去。

阿部一郎・精一兄弟
 阿部兄弟は、桐生町新宿村の染色業平一の子である。原籍は福島県喜多方である。
 一郎は、大正13年4月、精一は14年4月、桐中に入学し、野球部に属す。
10年の尋常小学校対抗試合では、南尋常小学校で一郎は大澤次郎とバッテリーを組んで出場していた。
昭和2年北関東大会(大正15年から関東大会は南北に別れた)で、群馬県下では無敵、優勝候補の高中を延長の末、一郎の右中間二塁打でさよなら勝ち、甲子園初出場を獲得した。北関東大会では、兄一郎は3番で捕手、弟精一は4番で投手。精一はこの時四試合完投。ただ体格は二人とも平均以上で
この時、兄は17歳、164.6p、54s、弟は15歳、164.2p、
50sである。
 昭和3〜4年と北関東で敗退するが、5年河上投手を擁して、二度目の甲子園出場となる。この時ベンチに入ったのは阿部一郎である。一郎は当時日本歯科医学専門学校大学の学生であった。その後11年に歯科医院を泉町(現仲町)で開業、13年〜58年まで母校の校医(歯科)も務め、且つ桐中・桐高野球部を支えた。
 弟精一は、日大の野球部で活躍、卒業後東京市役所に勤務し、20年郷里へ疎開。戦後22年5月桐生工業学校(21年夏、甲子園初出場、現県立桐生工業高等学校)の監督となり、23年春選抜出場。23年3月〜47年3月まで桐工教諭、野球部監督・部長を務め、又、全国・県の高野連の役員であった。
 昭12年卒の青木正一が、阿部精一先輩にしごかれたことを「球都桐生の歴史」で語っている。
 *なお、昭和2年甲子園出場の時の主将は、藤生雄吉で、
  安楽土の材木商 藤生文次郎の子である。
 池田豊は東京の現、武蔵野市出身、早大の野球選手で、後プロの監督、審判として活躍した。この池田が桐中野球部の指導をした事もあるという。
「桐生中学初期の野球の技術面の指導は。早大先輩でプロ野球名審判、故池田豊氏によってなされた、といって過言ではない」と阿部精一は前出の書物で述べている。
いつ頃来桐したかは定かではではないが、これも前出の群大の書物では、大正15年頃、同校の選手のつてで、桐高工の指導に池田氏が見えたとあり、その頃から、桐中の指導もされたのではないかと思われる。
桐中野球部の指導は稲川東一郎を中心に主にOB中心に行われていたが、時に外部の人も来ていたようである。
時期は不明だが、早大の大橋、横内(昭和初期か?)、早大の今井、池田(昭4年)、法大の岸(昭7年)、明大の恒川(昭12年)等の名前がある。

私設応援団
 中等学校野球の応援は、生徒の応援というより、町域・市域の方々の熱狂的応援であった。そうした応援の中から、後援会が立ち上がっていくのである。
 木島久太郎氏がその中心人物と言われている。本町6丁目の「小田原屋」という佃煮屋で、屋台を引いた行商もやっていたらしい。(阿部精一は本町4丁目としている)。昭和2年に、「第二次野球部後援会」が成立し、理事5人の一人
に木島の名前がある。その後の木島氏について、具体的な事は分からない。
 もう一人は、吉野錦風氏である。
吉野錦風は、「桐高の試合は創部以来、全部見てきた」(「高校人脈」)と言はれ「はちまきに日の丸の扇子をもって応援団長をつとめてくれた」(前出、阿部精一)。
錦風は、桐生町安楽土の機屋の生まれであったが、機屋が傾き上京して「指物師」として修業、桐生に戻り商売をしつつ、芸事全般に熱中。桐中に野球部が出来た頃、「桐生キネマ」(映画館)の活動弁士として活躍。新川運動場が作られ、そのスタンドの下に「ホームラン食堂」を出店し、桐中野球、稲川東一郎との繋がりを深めていったと言われる。芸事の中では、特に「義太夫」では、全国では前頭筆頭位の実力があり、戦後、県の古典芸術義太夫協会副会長・桐生義太夫同好会常任理事を務めた。
その錦風の姿は、毎日の練習の時も又試合の時にも有ったが、昭和52年、稲川東一郎の命日と同じ4月18日に逝去された。
 錦風の本名は「吉田金七」、永楽町で子息の吉田満氏(故人)が「吉野鮨」を営み、その満氏のもとに養子に入ったのが、東一郎の四男武司氏であり、現、吉野鮨のご主人である。
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2010年12月17日

其の四十七 野球事始め

 硬式野球部については、市域の研究者が何冊もの本を既に刊行されており、小生などが触れることではないが、時には触れてみる。

野球(部)誕生
 *1920(大正9)年春「野球用具一式を揃えた岩下が、それを大きな袋に入れて桐生中に持ち込んだのは、東一郎が三年生の時でした」  (「稲川東一郎伝」野間清治顕彰会2001年)

 *「大正9年、夏休みも近くなった初夏のある朝…岩下は大きなふろしき包みを担いで…登校してきた」 (「山紫に」 1978年)

 *「大正9年の頃。…岩下が…学校に持ち込んだ」
                (「高校人脈」 1977年)
以上のように、桐中で野球(学校の「部」としてではなく)が始められたのは大正9年の事と言われている。岩下とは、稲川と一緒に入学した「岩下豊次郎」である。境野の出身で、恐らく桐中四年で他校に転学、法大卒後読売新聞社でご活躍された。

 しかし、桐高同窓会報創刊号(1967年)の稲川東一郎と藤倉喜代丸の「回想記」には、以下のように書かれている。
 「三年生の春の頃でした。…岩下君の薦めで道具一式を貰い、入会し、初めは一級上の故田中左翼手の補欠として練習に参加させられ、ゲームというと南小学校が公式球場ということで、そこで行われました」(稲川)
 「桐中の野球の始まりは…岩下君が…持参してキャッチボールを始め、やがて2、3年の混成チームと校内マッチをやるようになり、いつも1年チームが勝ちました」(藤倉)
とすると、稲川や藤倉が入学した1年生の頃、野球らしきことが行われていた。稲川が野球(会)に入会したのが、大正9年の春の頃だった、ということである。
また、関係本等に渡部初代学校長が「危ないからやめろ」と雷を落とした逸話が出てくるのであるが(出典は不明)、渡部は大正6年〜8年3月の在職である。
とすると、大正7年度に一部の生徒が「野球らしき」事をしていたことになる。
 「私の親戚の宮崎正康が…桐中の野球部を始めて作ったのは俺だと言っていますよ」(1952年の桐高新聞の座談会での原勢の発言)という記事がある。
宮崎は大正6年4月に2学年に入った生徒であり、「野球」に係わったかも知れない。

 そして、大正8年4月、前橋中学から高野藤甫と若林勝が3年生に転入してくる。稲川が最上級生として名前を挙げている高野や若林である。一年上では、田中恒三、小野里豊治、大貫貞三、早瀬きょう一等であり、同級生としては岩下、藤倉、清水、稲川茂等がおり、大正8年頃には一チームが出来る人数がおり、岩下豊次郎が大変面倒をみたのであろう。そして大正9年春に稲川東一郎も「入会」したのであると考えても、よさそうである。 
 当時
   ・大学野球は明治中期以降続けられており、早慶戦もあり、
   ・大正4年には、朝日新聞社による中等学校の
   「夏の甲子園」も始まっていた。
   ・実業団野球も全国にあり、桐生町(市)域でも、
   桐生機関庫のエンジンチーム、桐生クラブ
   (12年頃には、オール桐生)などが活動していた。
   ・桐生高等工業学校でもそれまでの同好会が、
   9年に野球部(最初は「野球掛」)となり承認された。
   ・10年市制施行後、桐高工グランドで市内4尋常小学校の
   対抗試合があった。
しかし、群馬県の中等学校では、1909(明治42)年以降、運動部関係の対外試合が自粛状況にあり、特に「野球」は低迷していたのである。

1918(大正7)年、桜田前橋中学校長の英断により自粛が暫時解除され運動部活動が復活しはじめていたのである。
   大正 8年 太中で野球部復活
       9年 前中が、関東大会初出場
     10年 前中・太中 関東大会出場
        第一回県下中学野球大会開催 
 しかしまだ、桐中では、「部」として承認されていなかった。
大正10年6月、斎藤重保が学校長として着任。翌11年1月退職するまでの
半年の間に「野球部」承認されたのである。但し、11年度、野球部への校友会からの金銭支出はない。
関係諸本には、校長が「俺は野球が好きだ。ただし学校の言うことをちゃんと守れ」と言った(出典不明)という事が記載されている。
野球有害論、危険論もまだまだ有り野球への風当たりの強い時代背景が窺える。と同時に
 「野球が奨励されなかったというのは、当時野球選手には素行の良くないのが多かったですね」(桐高新聞 1952年15号、星野辰雄=大正10年2月
着任の英語教諭で二代目野球部長)。確かに「野球に熱中して学業を怠る」「粗暴にして不規律」の生徒もいた。野球をしていた某生徒は、中退して「心中」らしきことをしでかしたなどという風聞もあり、風当たりの強い時代であった。

しかし
部として成立すると、恐らく他校との練習試合も行われ「チーム」としての纏まりも出てくる。ついに、
1922(大正11)年9月 県下中学野球大会出場(第二回)
 「前橋中学校に野球大会あり。本校より選手を派遣す」(桐中教務日誌抄)
とあり、高中に10A−5で敗退、「くやし涙にくれた」(稲川回想記)と。
このチームの中心そして牽引したのが稲川であった。稲川は、5年生での出場は「小生只一人」(稲川回想記)であったと記す。
 即ち、藤倉は野球から離れ、岩下は恐らく4年修了で転学又は上級学校進学していたと思われる。メンバーは不明であるが、稲川東一郎の卒業後、12年桐中が関東大会に初出場するが、その時のメンバーの大部分が、11年の最初の県下大会に出たメンバーではないかと思われる。  *関東大会出場のための県予選はない。
 大正12年7月(前中) 関東大会出場メンバー
 (名前は筆者による推測)
  遊 須永 保蔵   5年生(卒業前に逝去)
  中 大澤 次郎か? 2年生(昭2年甲子園の時 コーチ)
  投 稲川 茂七郎  5年生(7年入学。後に「竹田」姓に戻る)
  二 金子 芳男   3年生 
  一 周東 真次郎  4年生
  捕 清水 国雄   5年生(7年入学)
  右 蓼沼 次郎   5年生
  三 宮川 元二   4年生
  左 野田      不明
  その他 3年 清水忠雄 高橋四郎 2年 外池力雄
 稲川の回想記には、他に 早川寛一(4年)、坂上政男(3年)
佐川(?)等の氏名がある。
 佐川は、後の桐高工野球部のメンバー名にあるが、同一人物かどうか不明である。
 大正12年の関東大会に稲川東一郎が出場したと「稲川東一郎伝」に有るが、上記の稲川茂七郎の間違いである。
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2010年12月09日

其の四十六 第一回卒業生あれこれ

 第一回卒業生は28人である。
大正10年3月10日のことである。4年前の
大正 6年4月、「町立桐生中学校」は、第一学年と第二学年を募集した。
二年生を受験し入学したのは17人であり、その年転入扱いで入学したのは12人で、大正6年度は合計29人である。
但し、4年後に一人卒業せず28人卒業となったと考えると間違いである。

大正8年10月20日、校名を「桐生中学校」と改称し、10年3月1日、遂に「群馬県立桐生中学校」となり、3月10日、第一回卒業生28人を送りだしたわけだが、その内訳は
 二年入学生 17人の内  卒業11人
 二年次転入生12人の内  卒業 6人
 三年次転入生 8人の内  卒業 6人
 四年次転入生 5人の内  卒業 5人  合計28人卒業である。

 卒業年齢 満17歳 15人
       18歳  7人
       19歳  5人
       20歳  1人

 当時の現住所でみると、桐生市21人 境野村2人 相生村2人
           川内村 1人 前橋1人 伊勢崎1人
 原籍でみると、    桐生町及び周辺 21人
           岩手県3人、千葉、前橋、館林、佐波郡各1

この岩手県というのは、気になるところで、調べてみると、なんと
菊地 一教諭の関係者であり、菊地教諭の弟、師弟、知人の子であった。
 菊地 一教諭は、岩手県花巻出身で一関中から二高、東京帝大卒の動物学専門で岡山玉島中学・川越中を経て、大正7年4月、創立二年目の桐中に着任。弟の八郎を川越から桐中に転学させ、更に翌年関係者2人を桐中に転入させたわけであった。菊地八郎、瀧田健吉、平山坦である。
 菊地教諭は、8年12月突如木曽山林学校に転勤することになるのだが、関係生徒3人は、桐中を卒業し、二高・新潟高校等に進学した優秀な生徒であったらしい。菊地教諭のその後は不明であるが、水戸高校に奉職し、40歳台で逝去されたと思われる。
 前橋中学からの転入生徒の内3人が卒業しているが、一人は中里成で旧姓赤尾、同窓会名簿では中里勝治郎となっているが、東村小中の出身で父親は小学校教師である。残り2人は、4年次に桐中に転入した生徒で、佐波郡の医者の息子と前橋の製造業者の息子であり、共に桐中教諭の石井定雄が保証人となっている。
 なお、太中からの転入生は、11人。桐生町・町域の出身である。

父母又は後見人の職業
 菊地教諭関係者、前中・佐野中からの転入し卒業した生徒を除く21人の
 父母又は後見人の職業をみると、この後の桐中生の親等の職業の特徴が
 初めからあらわれていると言ってよいであろう。以下、
 織物製造関係 10人(相生村1人)
 材木商     1人
 商業・文具商  2人
 人力車営業   2人
 官吏      1人
 会社員     1人(境野村)
 代書業     1人
 農業      1人(相生村)
 神職       1人
 無職      1人

最後に、卒業生個人についてほんの少し触れよう。但し、直接、ご家族にあたり調べたことではなく、文献資料に基づくだけで、推測もあり誤りも有るかも知れない。
 暮田 福一郎 早稲田か?初代同窓会幹事長
        兵役期間長い。織物業・新宿
     祖父は俳人としても活躍した暮田柳圃だと推測する。
 下山 長一郎 第二代同窓会幹事長、
        長距離走で県内外にて活躍。
        卒業生総代。織物業・相生
 岩野 新三郎 第三代同窓会幹事長、幼名保吉。
        桐生市消防団副団長、機業
 大澤 國二  織物業 三吉町
 斎藤 総一郎 幼名熊太郎 織物関係
 根岸 時太郎 織物関係
 中里 勝次郎 旧姓 赤尾威 織物関係
 長  晴一  銀行員・織物関係
 星野 政一  織物関係
 下山 儀三郎 織物関係 相生出身
 常見 喜一  新宿出身、群馬師範卒……
        昭和10年以前に逝去。
 荒川 一   小学校訓導。
        昭和12年11月〜14年8月桐中教練教諭。
        転職後の後、応召、戦死との記載もある。
 荒川 榮一  昭和16年8月〜18年12月 桐中教練教諭、
     応召し20年8月までは、桐中に籍が有ったと思われる。
        織物関係
 小島 貢   群馬師範卒、桐生市教育界で活躍。
        親は常祇神社神官 小島吾妻
 蜂須賀 保  桐生市教育界で活躍。
        「無教会派」の桐生聖書研究会の中心人物の一人。
 柳田 保   本籍は千葉県。親は桐生町(市)の官吏。
        一高から東京帝大農学部を経て医学部卒、
        昭和19年桐生市本町6丁目に
        産婦人科開業後応召。
        戦後復帰し37年病気にて逝去。
*以上が桐生市域在住または帰桐した方々である。

 森田 晟三  戦前、横浜市在住
 相馬 一正  桐生町出身、
        東京外国語学校ドイツ語 学科卒、
        翻訳業を主とし1996年逝去 筆名 塩谷太郎。
 田辺 常一郎 戦後、富岡市在住
 高橋 善十郎 境野村出身、幼名好造。
        佐野中から転入。東京在住か。
 堀江 民之助 神奈川県警察関係・神奈川県庁
 森山 秀二  東京商大か?……三菱鉱業関係へ
 若林 勝   四年次前中から転入。
        早稲田か?……鉄道省関係のち三菱鋼材関係か
 平山 坦   新潟高校から…… のち 日本医師会
 菊地 八郎  二高から?帝大か、 大谷重工業、弁理士など
 瀧田 健吉  柔道強し。日大……岩手県に戻り土木関係
 小林 可人  成蹊実務専門学校から三菱製紙
        「校歌」制定前に、全校生で歌える歌を作詞、
        軍歌の曲を使用したという。
        原籍は館林で、桐生町生まれ。
 高野 藤甫  四年次前中から転入、慶応予科……
        佐波郡の官吏。親は佐波郡三郷の医師。

*中途 転退学・進学等は14人。その内8人の氏名は
確認しているが同窓会名簿に記載されているのは1人である。

追記   卒業は難し!

 第二回卒業生 32人
 第一回卒業生の大半が町立桐生中学二年生として入学したのだか、同時に一年生に入学したのが50人(志願者107)。5年後、
大正11年3月10日 卒業生32人 第二回卒業生となる。
内訳は、6年4月の入学生 25人
前学年の原級留置者     1人
9年4月以降の転入生     6人
 故に、当初の入学生50人の内 25人は、転学、落第、退学、又は四修ということになる。但し、四修で上級学校進学は、一人のみ確認。

 第三回卒業生 48人
大正7年4月8日 入学者81(志願者93人)、再入学・補欠1人
 *教務日誌抄では、85人入学許可(入学式前日発表)
大正12年3月8日 卒業生48人
        内訳は 7年4月入学者 39人
           前学年の原級留置者  3人
           8年4月以降の転入生  6人
 故に、当初の入学生82人の内、43人は、転学、落第、退学
または、四修。四修で上級学校進学は、3人のみであろう。

*野間清治顕彰会発行の「稲川東一郎伝」では、「東一郎が受験した時は、百二十一人が狭き門に挑戦して、九十五人が合格しました。」とあるが前記したように、志願者は93人、合格者は85人、入学者は81人である。
 この「稲川東一郎伝」には、小さな間違いがある。東一郎と同級の藤倉喜代丸が、桐高同窓会報創刊号の「回想記」書いてあるのは、
一「学年末に2番となり、第二学年の1学期末に甲級の正級長を命ぜられ、5年生の卒業まで甲級正級長を通しました」、なのだが、「稲川東一郎伝」では、藤倉が「私は一年生から五年生の卒業まで甲組の級長を通しました」としている。
 藤倉は非常に優秀な生徒であり、後に長く桐中・桐高教諭を勤めるのであるが藤倉自身一年から級長とされびっくりしていることであろう。「合格した時は、25番であった」と先の回想記に率直に述べ、一年からなどと書いていない。
 しかし、活字とされ一冊の本となると、それが全てとなってしまうこともあり、恐ろしいことでもある。
posted by 100年史編集者 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学

2010年12月02日

其の四十五 修学旅行C

 今年、2010(平成22)年の修学旅行は、11月9日〜12日三泊四日で実施。 高崎駅集合、解散である
 高崎駅東口 ヤマダ電機1階広場集合!
 高崎発 7時46分発。 新幹線を乗り継ぎ広島へ。 
 広島着13時38分である。
翌日、夕刻に京都に入る。
一クラスだけ午前中に大阪に入り京都へ。夜は能舞台見学。
三日目、京都市内班別研修 携帯電話50台使用、
本部携帯15台使用
四日目、午前中京都市内 13時02分京都発
高崎着 16時51分 17時03分着で解散。

1.1993(平成 5)年4月から県教委は「国内の航空機利用」を許可。
  1998(平成10)年4月から、「海外旅行」も許可。
 桐高では、平成7年度から九州・北海道方面を実施したが、平成13〜20年度は再び関西中心となり、21〜22年度は広島となった。

2.大学や研究所、企業見学が行われた。とかく「物見遊山」と批判もあり「進路・生き方学習」の要素を含めたと言える。
 広島・長崎の場合は、必ず原爆資料館の見学等している。

3.平成15年度からは、「三泊四日」となり、奈良・飛鳥方面は時間的には
無理となった。また、中学校での関西方面修学旅行も考慮されたのであろう。

4.京都一日班別自主見学も平成10年復活。なんと35年ぶりである!

5.13〜20年度まで、先ず大阪に行くが、それは大阪城や企業見学ではなく、「ユニバーサルスタジオジャパン」で、午後半日過ごすためであった。
修学旅行も先ずは「息抜き」から始まるわけで、夜行列車を乗り継ぎ、早朝五十鈴川で手を浄め外宮・内宮を参拝することから始まる修学旅行とは、違うのであります。

6.群馬県教委の「旅行制限」が緩和されていくのは、平成5年からであるが
他都道府県からみれば大分条件が厳しかったことを配慮したのであろうが、一種の「自由化」に踏み切った平成5年前後は、いわゆる「バブル崩壊」、のちに「失われた10年」と呼ばれる時代の初期にあたっていて、教育費について
保護者負担の軽減が強く要望されてきていたが、修学旅行に限っては、航空機の利用、場合によっては海外旅行となり、旅行費用もウナギのぼりとなるのだが、保護者からの批判的意見は無かったのであろう。
 桐高の場合は未調査だが、県全体での一校平均旅行費用は、
 平成 元年 平均 6万9000円
    5年 平均 8万7000円
   11年 平均10万3000円である。
 
以下は、1995(平成7)年度以降の桐高修学旅行の略年表である。

 平成7年度〜
   9年度 四泊五日  航空機利用により九州方面
              九州の場合、長崎原爆資料館見学あり
  10年度       広島・神戸・大阪・京都一日自主見学
  11年度       北海道。大学・企業見学あり
  12年度       九州方面
  13年度       橿原神宮・吉野・飛鳥・大阪・奈良・京都
              京都一日自主見学→以後実施
  14年度       大阪・神戸・京都。 集合・解散高崎駅
  15年度 三泊四日  大阪・京都。       解散高崎駅
  16年度       大阪・京都。一日は大学・企業見学
  17年度       大阪・京都。一日は大学・企業見学
                          集合・解散高崎駅
  18年度       大阪・京都。 一日は大学・企業見学
                          集合・解散桐生 
  19年度       大阪・京都。大学見学 
                          集合高崎 解散桐生
   0年度       大阪・神戸・京都、大学・研究所見学
                          集合・解散高崎駅
  21年度       広島・京都。    集合・解散高崎駅
  22年度       広島・京都。    集合・解散高崎駅
  
posted by 100年史編集者 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球