2010年10月01日

其の三十六 戦死・戦病死

 1931(昭和 6)年 9月18日 満州事変勃発
 1937(   12)年 7月 7日 日華事変(日中戦争)勃発
 1941(   16)年12月 8日 太平洋戦争勃発

 戦争の勃発、泥沼化、局面の変化の過程で、桐中卒業生の応召(或いは志願)も数をました。また、卒業時点並びに中途修了で軍部諸学校へ進学する生徒も増え、ある期間を経て実戦部隊に配置されていった。
 桐中関連資料は、極めて限られた資料しかないが、最初に「戦死」が報じられたのは、昭和12年9月7日「浅野正寛君の戦死を弔う。『偉丈夫浅野正寛君』という印刷物を全校生徒に配布」とある。故浅野氏は、桐中7年の卒業であり、法政大学へ進学されていた。
 昭和14年5月15日「野原大尉の遺骨迎え」後に学校・分会の合同葬。
故野原義雄先生は、桐中同窓生ではないが、12年8月教練科教諭として着任、10月に応召、14年1月7日中国山東省に於いて戦死。本校在職中に応召され、戦死された教職員は、野原先生一人であるかも知れない。退職或いは転勤後に応召され戦死・戦病死された教職員は二〜三人おられる。
 昭和14年10月3日 戦死者慰霊日として教職員・生徒代表は、故野原先生をはじめ、7人の戦死された同窓生のご遺族を訪問、御墓に詣でる。
 昭和16年11月7日〜「改築落成、創立記念式典」挙行。
記念大展覧会開催し、「慰霊室」を設置する。その中に「十二先輩の御祀り」を行ったとある。太平洋戦争勃発まで12人の同窓生の戦死を確認していたと思われる。

 昭和17年1月8日 陸鷲隊 森純一大尉戦死(上毛新聞より)。森大尉は硬式野球部員で昭和3年卒。以前に母校での講演もあった。
 「卒業生、桑原秀安君(飛行兵曹長)が真珠湾攻撃で戦死されたことは始業式で学校長より生徒に知らされた。」12年3月の卒業で14年4月甲飛合格し霞ヶ浦航空隊に入隊した。(艦爆機蒼龍による第二次攻撃で敵艦に突入)

 昭和17年12月9日、本校関係者の慰霊祭実施
   18年12月4日 慰霊祭実施 具体的内容は不明
  この後、卒業生に係わる文献資料はない。なお上記三人の氏名は、多くの関係書籍に記されているので敢えて載せる。

 昭和27年11月2日 桐中・桐高35周年記念式典挙行
 岩野新三郎同窓会長は、「…十数年ぶりで会員名簿を刊行……ただ悲しいかなこの十年のブランクの間に我が同窓会も第二次世界戦争の犠牲者として百余名の会員を失いました。…戦没会員にたいして…近き日を期して一大慰霊祭を挙行し…霊を慰めるべく既によりより協議を始めております。…」と述べている。
 その後慰霊祭実施の有無は文献資料などからは、不明である。
また、戦争犠牲者については昭和27年度版の同窓会名簿には百名を越える同窓生に印が付されている(但し、筆者は、未だ27年度版名簿を手にしていない)。
 今回、その名簿情報を基に調査をして、不充分ながら、卒業生(修了者を含む)の戦死者・戦病死者数を記す。(修了者は、卒業予定学年とする)
また、具体的人名については、記さない。
 1917(大正10)年3月卒〜1929(昭和5年)3月卒 11人
 1930(昭和 6)年     9人
          7年     5人
          8年     6人
          9年    12人
         10年     6人
         11年     7人
         12年    14人
         13年    13人
         14年    14人
         15年    17人
         16年    13人
         17年     3人
         18年     2人
         19年     4人
            合計 136人

6年〜16年まででは 卒業生数889人中116人で13.04%であり、特に15年卒業は77人中17人 22.07%!!!
(20人という説もある)。
 殆どの「校史」は同窓生の戦死者数については触れていない。
[参考]
 ・太高90年史は、一部資料を提供している。それによると桐中と
  前記同時期 卒業生1280人中 戦死者220人 17.2%
 ・桐生工専(現 群大工学部)では、昭和20年10月現在 129人
 ・慶応義塾大学の最近の報告では、二千数百人
 ・桐生工業高校 昭和14年第一回卒業生
  46人中14人戦死 30.4%

 桐中戦死者の調査は、極めて限られた資料の基に行ったもので、その実数はかなり増えると思われるが、調査能力に限界もあり、2010年夏現在である。

 外史(32)で、昭和20年5月予科練に中学3年生で入隊した「寄せ書き」のある「日の丸」の旗が有ったことを触れたが氏名以外の「語句」の一部を記して置く。
 「祈武運長久」「大義大勇」「尽忠報国」「撃ちてしやまん」「神州不滅」「行け特攻隊」「つづくぞ」
 そして「君之為明日は召されて行くぞ ガンジー」
これは、恐らくガンジーこと八田有親先生ではないかと思う。
当時、入隊する生徒に対して「生きて還ってこい」と言っただけで、急遽
召集され前線に送られた教師もいたと、他校の話で有るが。
一枚の寄せ書きには「虎」が大きく描かれている。これが何を意味するか?
やはり「虎は、……還る」という願いであったか! そうだとすると、よく描くことが出来たと思うのだが…。


 「戦争」に関しては、まだ触れなければならぬ事があるが、取り敢えずここで中断する。
posted by 100年史編集者 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球
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