2010年10月14日

其の三十九 身長・体重(男子)

 現、桐高2年生の平均身長は、169.7p、体重63.2sである。
(2007=平成19年、桐高保健室調べ)

  それでは、以前の生徒は?
残念ながら資料はほとんど無かったが、この夏、半分は炭化した焼け残り資料が見つかった。それを慎重に整理、調査し、生徒の体格検査結果を纏めつつある。もちろん、昭和2年頃までは尺貫法で表記されているがメートル法に換算した。
そして、旧制中学5年生の記録であるので、現高校の方も2年生記録である。

              身長=p   体重=s  資料数=人数
 1920(大正10)年卒 157.1  49.9    17
 1921(大正11)年卒 158.1  50.3    20
 1937(昭和12)年卒 159.8  52.1    82
    [昭和12年全国] 160.1  51.5

  全国でみると戦前の平均値の最高は昭和14年前後であるが、
桐中のデータはなく12年のデータを記載した。

    [昭和23年全国] 157.9  48.7
    [昭和24年全国] 158.7  49.6
 全国のデータは、15〜22年までないが、恐らく低下し、大正時代まで
の平均に後退してしまったと考えられる。
 戦時中そして戦後数年間続いた様々な食糧不足、食糧統制の結果、即ち「戦争」の一断面であると言ってよい。

 1952(昭和27)年  161.6  51.4   381人
   (桐高発行の「補導の栞」より)
    [県統計27年]  160.1  50.1

 「終戦後、著しく低下した学徒の体位も既に戦前を凌ぐ域に達しております」と、養護教諭の景浦先生が述べたのは昭和28年であった(桐高新聞より)。

 1967(昭和42)年  167.2  57.3
 1977(昭和52)年  169.2  59.9
 1987(昭和62)年  169.9  61.0
 1997(平成 9)年    データ未発見
 2007(平成19)年  169.7  63.2
このように、桐中創立期から身長10p以上 体重10s以上の体位となったのである。

[余談 戦前編]
一、昭和11年、第13回春の選抜甲子園 桐中準優勝
 この第一期黄金時代を築いた青木らの身長・体重は?
  青木正一 170.0p  68.4s  ピッチャー
  塚越源市 157.0p  53.5s  キャッチャー
   (二人とも年がちょいっと上だけど) そしてショートストップ
  皆川定之 155,0p  52.0s である!!
   皆川は阪神で活躍する頃には160p位になったらしい。

二、昭和18年 五年生千葉保田海岸における学徒海洋訓練 五泊六日
 八月十八日 朝食 ナス汁、干し大根煮物
       昼食 三目飯 キュウリの漬け物
       夕食 コロッケ二個 ジャガイモ トマト
   十九日 朝食 コブの煮物 コブの汁
       昼食 アジの煮物 唐茄子の煮物 ナスの塩漬け
       夕食 三目飯 ネギの汁 ナスの塩漬け二片
 *これで戦争に勝てると思えたか?!
  「欲しがりません勝までは」

 そして更に、
三、昭和19年 夏〜 中島飛行機尾島工場への勤労動員
「金属の食器に乾燥イモ、或いは大豆に米が付いている盛り切り…
夏には、水を飲みながら硬い大豆飯をたべ、下痢で苦しんだ」
「赤イヌの肉が旨い ということで庭に迷い込んだイヌを食べようと捕獲を試みたが失敗した。ネギ焼いて食べたが美味だった」

四、報国農場
昭和15年3月から、現テニスコート〜小中学校にかけての荒蕪地を借用し悪戦苦闘の農地造成が始まり、遂に馬鈴薯・甘藷の収穫を得るにいたった。
開墾地は、他にも平井、水道山、相生にもあった。

[余談 戦後編]
  戦後の社会状況は、外史で触れることではないので、衣食住すべてに係わり想像を絶する時代であったと述べるに止める。食糧についてだけでも、食べる物が手に入らない、いわゆる代用食、麦飯は当たり前、さつまいもにトウモロコシが主食になった。或いはヤミ市で手に入れるか農村部へ買い出しに行く。金がないからそれまでタンスに仕舞っていた衣類を持って「買い出し」である。
「タケノコ生活」という。一枚一枚着ているいるものを剥いで食い物を手に入れる生活である。

一、「…校庭は掘り起こされ …森喜作氏の厚意により平井町の山林、相生村の竹林合わせて10ヘクタールの開墾が為された。9月の残暑の中で泥と汗の苦闘であった」(宮前定四郎「在職30年の思い出」より)。
20年10月 平井農場開墾→生徒は薩摩芋一本ずつもらう。
 (前中では10月、生徒のストライキ。その要求の一つに「学校農園耕作目的の明示と収穫物の処理方法如何」とある。同じ10月太中でも教師排斥のストライキが起こる。その背景の主たる要因ではないが、物資不足の問題もあったという)。

二、硬式野球は、22年春、戦後初出場、常見・川端の時である。
 何とか寄付金も集まり、米等は在校生の農家に頼み幸いにして集まったのだが、当時食料品等は移動禁止で見つかれば没収されてしまう。そこで、渡辺後援会長が桐生駅長に掛け合い、専用の貨物列車に人目をはばかり積み込み封印して宿舎に送ったという。米八俵、ジャガイモ、蝋燭、燐寸、枡等であった。蝋燭は停電対策用、枡は旅館に渡す米を正確に量るためであったという(ここまで 松尾八郎先生談)。
この年夏の大会でも、貨車でヤミ米11俵を送ったが、初戦小倉中に敗れ残った米を小倉中に提供したという「有名な話」がある。

三、戦後も米麦はもちろん日常生活の必需品は一切配給の統制下に置かれ、25年に藷類が解除され、米穀は30年産米より自主供出制になり、配給であるが日々の主食として確保できるようになったのだが…。
    一ヶ月当たりの配給基準は、
  昭和28年 内地米 12日分、外米3日分
  昭和31年 内地米10日分・準内地米1日分 外米14日 希望5日
 一人一日当たりの基準
  14〜25歳未満    402g
  25〜60歳未満    385g
 31年10月から 一律に 365gとなった。
  (米一合は 凡そ140〜160gであるから、3合に満たない)

四、◎桐高生の寄生虫卵検査 昭和27年6月 生物部の検査による。
 検査人員472人
 回虫卵保有者 受精卵 132人
        未受精卵 36人  計 168人   36%
 鞭虫・蟯虫卵保有者           40人    8%
 ◎虫歯の未処置の数 昭和27年の定期身体検査
      337人 全体の36%
 ◎トラコーマ13人 結膜炎12人
 ◎蓄膿症  46人(23%)
 
* 「食糧メーデー」「米よこせデモ」1946(昭和21)年5月1日
    「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ臣民…」不敬罪適用される。
  「東京地裁山口判事、配給生活を死守して栄養失調死」
                  1947(昭和22)年10月11日
  「貧乏人は麦飯を食え」     1950(昭和25)年12月
    大蔵大臣 池田勇人の発言
  「もはや戦後ではない」     1956(昭和31)年
    経済企画庁「経済白書」
 思い出される先輩、学兄もおられることでしょう。

   
posted by 100年史編集者 at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球
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