2010年10月29日

其の四十 マラソン@

 1917(大正6)年、桐中開校の年、6月7日 午前11時 「桐生町天満宮社前より新桐生駅まで長距離走を行い午後二時終了帰校す」と、教務日誌抄にある。いわゆる「マラソン」である。
この後、境野小から天満宮間、高津戸・桐生間、八幡宮・天満宮間など実施され、年三回実施された年もあり、また賞品授与もあったと記されている。
 「マラソン」は、初代渡部学校長が好んだと言われるが、渡部の浦中時代には、長距離走の記載はあまりない。また「町民への中学校アピール」の狙いもあったと言われるが定かではない。
 それにしても、当時の「マラソン」で大変だったのは、町内(市内)の道路状況であろう。本町通りは巾12m位で泥土の道、雨がふれば泥んこで、馬糞、牛糞など! 古老は「何処へ行っても馬、又馬であるから馬糞の山があちらにこちらに見られた。これが又、乾燥してきて名物の風でも吹いたら大変、馬糞の砂塵が舞い上がる。今の犬の糞害どころではない」と語る。
市内の舗装が始まるのは1932(昭和7)年以降であった。
 自動車の方は、心配無かった!
桐生自家用自動車第一号は、大正6年日本絹織(株)の社長が購入、しかも「群一号」である。8年に金木屋が2台購入しハイヤー業を開始、9年に回進社が新桐生駅までの送り迎えを開始したという。昭和7年には、85台になったが、交通事故の心配は無かったであろう。
 新桐生駅の開設は、大正2年。錦桜橋(吊橋)の架橋は4年である。それまでは、盛運橋から新宿上手を通り「後谷」の渡船により渡良瀬川右岸に行ったのであるが、駅開設により架橋と現桐生・伊勢崎県道が開通したのである。
古老は「…雷電神社前まで新道が出来て本町と通じたが、道の両側は雑木林で狭くて、石がごろごろしていた道であった。新桐生駅近くは土堤を築いて道を作り両側に小さな桜の木を植えてあった」と。
「…渡良瀬川には橋が架けられた。木材を組み立て八メートル位のピーヤを三箇所建て、半ば辺りに広い交換場所があった」と。
 その錦桜橋は、大正11年の出水で右岸が流失し、14年に鉄材・コンクリート・木煉瓦等使用した本格的橋梁として出来上がった。
 そのためか、12年頃には、「天満宮〜新桐生間」の長距離走の記録はない。

 さて、長距離走=マラソンは、前橋師範が明治33年開始以後毎年実施。
沼中では、大正2年11月 第一回長距離走 約9q。
前年の金栗らの参加したストックホルムオリンピックの刺激があったとも言われるが、前中では、大正3年10月16日、学校から駒寄小学校まで二里十数町の長距離走実施、上位30名を表彰したとあるが、その目的は、「欧州戦乱」「東洋に飛び火」「我が国民たるもの居常志気を養い身体を鍛錬し一致共同の精神を養成」としている。
高中が大正7年創立記念行事として実施、二里二十四町
太中は大正9年徒歩部の主催で始めて実施し、距離は8qと12qの二コースであった。

 桐中の記録は大正12年〜15年は不明、昭和2年以降の「教務日誌抄」には、「長距離走」の記載はない。実施はされていたが、重要な行事ではなかったのかも知れない。「長距離走」とは別に「遠足」「行軍」「夜間行軍」などがしはしば実施される時代となったのである。

 1936(昭和11年)県下男子中等学校駅伝競走が始まり、昭和14年には「山野横断競走」となり17年まで行われた(以降は駅伝どころではなくなった)。
桐中も参加しているが、競技部の生徒が中心であったと思われるが、その予行として「校内マラソン」が実施されたとある。
 16年
水道橋―水道山―光明寺―岡公園―天神様―昭和通―本校
約6q
 17年
校内5qマラソン並びに 水道山〜光明寺―盛運橋〜山野横断走
戦前の記録はこれまでである。戦後昭和23年3月までの旧制中学時代には
運動会は行われたが、「マラソン」の記載は未発見である。

[桐生高校時代]
  「80年史」では、運動会の一種目として実施されたマラソンと「校内マラソン大会」との区別が曖昧であるが、第一回「校内マラソン」大会は、昭和23年度、24年2月4日に実施され、当時陸上のホープであった星野光男君が優勝した。また運動会の一種目として各分団代表による「マラソン」があり、天満宮折り返し、昭和橋折り返し等で実施されている。

[マラソンコースは?]
 パソコン上で略図を描く技術を持っていないので残念なのだが、将来的には図示したいと思う。ただ、何時どのように変化していったのか、各年の図面が残っていないし、細かく走路が変更されているので基本走路のみを触れるしかない。

1.本町通り〜末廣町〜駅前〜赤岩橋〜……
 昭和34年4月一年生までは、本町通りを颯爽と駆け抜けた?!はずだ。
校庭の野球のホームベース側をスタートし正門(現在の西門)を出て左折、昭和小脇通りから、錦町(過去にはロータリー)、本町通りを北上し、五丁目交差点を左折、駅前を西へ向かい赤岩橋を渡り、相生小を過ぎ、左折し如来堂から桜木町へ、
→→広沢へ向かい昭和橋を渡り交番を左折し一路西上し、ロータリーをへて(この昭和橋経由は、第一回だけか?)
→→桜木町交差点を左折し、錦桜橋を渡り、ロータリーを左折
そして 
→→再び正門(現西門)からゴールへ
→→昭和小の角を右折し、東門(現正門)からゴールへ

2.赤岩橋経由、阿左美沼折り返し、または周回コース
昭和35年〜40年までは
 桐高東門(現正門)右折し陸橋を渡り白鬚神社…赤岩橋…
 上電冨士山下駅手前を右折し桐生機械(現ヤオコー)裏から
 一気に阿左美沼を周回し、北下し桜木小の通りを南進、
 新桐生駅前郵便局交差点を右折し錦桜橋、すぐ右折し
 厚生病院南側、警察、栄研の脇を通り
 桐高正門〔現西門〕からゴール。
  *厚生病院が現在地に移転したのは 昭和35年6月
  *桐生警察署が移転したのは、   昭和40年2月

3.赤岩橋にさようなら、渡良瀬川右岸を
  赤城を望み疾走、阿左美沼周回
昭和41年〜48年まで
 桐高正門(現西門)〜桐商脇・警察・厚生病院〜錦桜橋〜
 土手〜
 桐生機械裏に下り阿左美沼周回〜一気に北に下がり川の
 土手に上がり錦桜橋を渡り、商業脇から桐高正門ゴール。

48年優勝の山同君は、自分達が桐高校庭スタート・ゴールの最後ではなかったかと語っている。

4.桐高河川敷グランドスタート〜桐高正門ゴールへ
昭和49年・50年
 49年〜桐生大橋架橋、道路拡張によりスタートは河川敷
 に移った。
 また、阿左美沼から国道122号に出る手前で走路が一部変更。

「…スタートは河川敷だったため校庭裏門の時のトラブルもなく土手を駆け上がった。沼を半周し…桜井先生などが緑や紫のマジックを持って…掌を出させてチェックされる。…商業の脇を通って桐高の裏門を目指し…体育館の前あたりが確かゴールだった気がする。…ふらふらになって倒れ込むように…ゴールした。…リンゴを2個持たされたものの寝ることも立っていることも出来ず芝の植え込みの所に…しばらく四つんばいになっていた…9位と10位のトロフィーは明らかに大きさが違う…」と、51年卒9位入賞の高草木章君。

5.スタート・ゴール 河川敷グランドとなる。
昭和51年〜54年
 河川敷→左岸土手→錦桜橋→右岸→大橋手前から降りて
 桐生機械の先から左折・右折をして阿左美沼へ、
 沼を右回りして→足仲団地を通り→
 桐生機械裏から右岸に出て錦桜橋経由河川敷ゴール

6.渡良瀬川土手・サイクリングロード、
  桐生大橋・昭和橋折り返し。
昭和55年〜平成6年
 往きは、渡良瀬川右岸土手道路を桐生大橋下まで西進し、
 サイクリング道路におりて昭和橋折り返し
 復路の錦桜橋の横断が出来ず、
 橋の下をくぐり橋の西側土手を上がり
 錦桜橋〜左岸土手〜河川敷へ

7.桐生大橋を渡り河川敷ゴールへ
平成6年〜
 錦桜橋〜右岸土手〜桐生大橋から
 サイクリングロードなどを走り
 昭和橋を折り返し、錦桜橋下を駆け抜け
 桐生大橋の南詰を上がり
 大橋の歩道を走り河川敷のゴールに。
 錦桜橋の架け替え工事が始まったことにより
 コース変更となった。

8.平成10年〜
 理数科設置に伴い女子入学により、
 男子・女子二コースとなる。
 但し、平成13〜15年度は、錦桜橋新設架橋のため
 マラソン中止。
 距離やコースについては生徒会誌「山紫」に
 掲載されていないため、
 学校関係者に資料提供を依頼中。
posted by 100年史編集者 at 15:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活
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