2010年11月18日

其の四十三 修学旅行A

[旅行の目的は?]
 文化財としての神社仏閣等の見学というより、「お伊勢参り」「参宮旅行」の伝統を受けて、伊勢神宮や天皇陵の参拝に主眼が置かれたのは当然であった。
 原則的には、名古屋熱田神宮、伊勢神宮(外宮・内宮)、桃山御陵(明治天皇陵、乃木神社)、湊川神社(楠正成)等を参拝。国家の最高権威、絶対的権威である天皇、特に明治天皇を称揚し、また「臣民の道」を学ぶ旅行であったといえる。
 大正11年、生徒作成の旅行の栞では、桃山御陵について
明治中興の英霊を鎮め奉るに誠にふさわしい」 
 大正12年の旅行記では
「神武天皇以降の模範的君主明治天皇の英霊を奉安す。遙かに御須屋を礼拝する瞬間感慨無量思わず涙白砂を潤す。」
 昭和4年 旅行記
 「常に武等の幸福に御聖慮をなやまされ、我が国威を世界に御発揚なされた明治大帝の御聖業を偲べば新たに敬慕の生ずるを禁じ得ない。」
このように「明治大帝」へと表現も変化してくる。

 昭和初期以降、交通の整備、進展もあり、「建武の新政」という天皇親政の象徴である吉野山の後醍醐天皇陵参拝、「神武の創業」に還り「肇国の精神」が唱導される中、畝傍の橿原神宮・神武天皇陵参拝は欠くことの出来ない所となった。
 昭和10年〜12年には、桐生から夜半に直接東京へ向かい、未明に「宮城遙拝」が行われている。「真暗い中の二重橋前のザクザクと玉砂利をふむ足音…はっきりと耳そこに残っています」(昭和14年卒回想記)。
 昭和15年の天皇行幸、紀元2600年記念事業として橿原神宮整備にあたり、前年、14年の修学旅行団は、2〜3時間の勤労奉仕を行っている。
 昭和15年の旅行の諸注意には、旅行の目的が明確に書かれてある。
「皇紀二千六百年に当り、皇大神宮を始め神宮、御陵聖蹟…参拝し、皇祖皇宗を追慕し奉り、大いに国体観念を振起し、皇軍将士の武運長久を祈願し併せて、各地の人情、風俗…美術工芸の状況を観察し…健全なる中堅国民たるの教養に資せんとす」と。まさに太平洋戦争前夜であった。

 御陵・聖蹟の参拝以外では、現在でも馴染みのある寺社等を見学。
市電やバスの利用もあるが、多くは徒歩であった。幾つか注目したことを触れる。
1.法隆寺金堂の大壁12面→1949(昭和24)年、失火により焼失
  「…堂の四方の壁画が微かに光って見えます。剥げています。燻っています輪郭もわかりません。…一つ所をじっとみていると…だんだん其処が明るくなって…その大小12面の壁画のおぼろげな筆の跡を辿ってみるとその構図規模の大きさその色彩の華やかさが分かります。…最も滅びやすい絵画その中で奇跡的に残っているこの壁画…「薄き日は壁画に匂ふなつかしき 慈眼にすがり泣かまほしくも(佐々木信綱)」(昭和5年の旅行記)
本物を見た桐中生もいたのである。

2.金閣寺
  「10歳位の少年の案内で先ず第一層の説明を承ける…二層の仏像絵画をみて三層に登る。金の塗ってある所は此の三層だけで、それも今は所々削り取られて傷だらけである。」(昭和2年)
 「…池の中の島には小林が茂っていて、亀が平和の使いのように岩の上で遊んでいる 金閣寺はおもったより美しくない建物だ。…二三年前より二階以上は見学させぬことにしたのだそうだ」(昭和7年)
 「…白壁に鉛筆で無造作に落書きがしてある」(昭和8年)
足利尊氏(室町幕府)は、「逆賊」「人非人」という認識があるから、金閣寺はどうも人気が薄いようである。
 この金閣寺も1950(昭和25)年放火により焼失。再建されたのは昭和30年10月である。
 戦後最初の関西への修学旅行は、昭和24年10月、25年3月卒の約50人の希望者で、焼失前の金閣を見学する。
26年3月卒〜31年3卒までは、金閣寺には、当然行かなかったことになる。

3.薬師寺や唐招提寺は、ほとんど見学していない。最寄りの交通機関なし。
「薬師寺より二三町の間、壊れかかった土塀あり 蔓草茂り瓦かけ少しも見るべき所がない唐招提寺を出て奈良まで歩く」(昭和5年)

4. 大阪では、大坂城は勿論、大阪毎日新聞社又は朝日新聞社、そして造幣局が見学の定番コースであった。
京都では、寺社以外に日活撮影所を見学した年も一回ある。

5.夜間外出はいつの時代も楽しみ!
 「一日の疲れを浴槽に洗い流した僕達は外出許可を受けるやいなや籠から出た小鳥の様に夜の京都へ散って行った。…ふと気が付いて三条大橋の上に立って左手の方を眺めると大文字山の大の字が夜空にくっきりと浮かんでいた」
 「京都では京人形だ。…どの店にも綺麗な人形が棚に立ち並べられてあった。一つ二つ求め…宿に帰って来るものがみると、きっと幾つかの箱を抱えている」(昭和4年)
 「夕食後遂に街に浮かれだした。…享楽的気分に満ちた道頓堀を一廻りして
千日前の繁華に目を廻した。…人波に揉まれている内に…変に静かな裏町の方までまぐれ込んで西も東も分からなくなった。」(昭和3年)
「楽しき夕食の後、ひと風呂浴びて我らの若き心は夜の大阪。道頓堀へと繰り出したのである。ジャズが歌う…テナモンヤナイカナイカ道頓堀の…。おお浪速だ、道頓堀だ!人の泉、光の泉…いかに現代人のやるせない要求がこんな世界を作ったにせよ、これから後これがどういう風になって行くのか。ああ!ニヒリストの今日である」(昭和5年)

追補
 [修学旅行の中止]
昭和15年度 文部省より修学旅行制限の通牒あり、県議会でも質疑があった。
県は「中等学校生の伊勢参宮廃止は輸送力の関係から文部省が(鉄道省に)譲ったものである。また、時局柄見物の修学旅行はいけない、鍛錬的たるべし。それも二泊三日以上に亘ってはいけないとされている」と答弁している。
これに対して中等学校側からの強い働きがなされ、16年度は、厳しい条件をつけられたが多くの中学は実施したのであるが、桐生中学は、16年度から中止した。その理由や背景については不明であり、推測することも出来ない。

 16年7月14日 学務部長「県外にわたる教職員及び児童生徒の団体旅行は、特に文部省より指示せらるるものの外、当分の間之を中止又は延期すること」と通牒があり、9月25日 学務部長は公式に文書で指示した。
これは16年6月「独ソ戦」開始により、7月、日本は関東軍特別大演習=「関特演」実施。そのためには国内から40〜50万の兵力、物資等を輸送することとなったことが、直接的な背景の一つである。

こうして昭和13年入学生以降、関西方面への修学旅行は無くなった。
修学旅行の再開は、新制高校となり昭和24年の希望者による旅行から始まるのである。
posted by 100年史編集者 at 13:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活
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