2010年12月09日

其の四十六 第一回卒業生あれこれ

 第一回卒業生は28人である。
大正10年3月10日のことである。4年前の
大正 6年4月、「町立桐生中学校」は、第一学年と第二学年を募集した。
二年生を受験し入学したのは17人であり、その年転入扱いで入学したのは12人で、大正6年度は合計29人である。
但し、4年後に一人卒業せず28人卒業となったと考えると間違いである。

大正8年10月20日、校名を「桐生中学校」と改称し、10年3月1日、遂に「群馬県立桐生中学校」となり、3月10日、第一回卒業生28人を送りだしたわけだが、その内訳は
 二年入学生 17人の内  卒業11人
 二年次転入生12人の内  卒業 6人
 三年次転入生 8人の内  卒業 6人
 四年次転入生 5人の内  卒業 5人  合計28人卒業である。

 卒業年齢 満17歳 15人
       18歳  7人
       19歳  5人
       20歳  1人

 当時の現住所でみると、桐生市21人 境野村2人 相生村2人
           川内村 1人 前橋1人 伊勢崎1人
 原籍でみると、    桐生町及び周辺 21人
           岩手県3人、千葉、前橋、館林、佐波郡各1

この岩手県というのは、気になるところで、調べてみると、なんと
菊地 一教諭の関係者であり、菊地教諭の弟、師弟、知人の子であった。
 菊地 一教諭は、岩手県花巻出身で一関中から二高、東京帝大卒の動物学専門で岡山玉島中学・川越中を経て、大正7年4月、創立二年目の桐中に着任。弟の八郎を川越から桐中に転学させ、更に翌年関係者2人を桐中に転入させたわけであった。菊地八郎、瀧田健吉、平山坦である。
 菊地教諭は、8年12月突如木曽山林学校に転勤することになるのだが、関係生徒3人は、桐中を卒業し、二高・新潟高校等に進学した優秀な生徒であったらしい。菊地教諭のその後は不明であるが、水戸高校に奉職し、40歳台で逝去されたと思われる。
 前橋中学からの転入生徒の内3人が卒業しているが、一人は中里成で旧姓赤尾、同窓会名簿では中里勝治郎となっているが、東村小中の出身で父親は小学校教師である。残り2人は、4年次に桐中に転入した生徒で、佐波郡の医者の息子と前橋の製造業者の息子であり、共に桐中教諭の石井定雄が保証人となっている。
 なお、太中からの転入生は、11人。桐生町・町域の出身である。

父母又は後見人の職業
 菊地教諭関係者、前中・佐野中からの転入し卒業した生徒を除く21人の
 父母又は後見人の職業をみると、この後の桐中生の親等の職業の特徴が
 初めからあらわれていると言ってよいであろう。以下、
 織物製造関係 10人(相生村1人)
 材木商     1人
 商業・文具商  2人
 人力車営業   2人
 官吏      1人
 会社員     1人(境野村)
 代書業     1人
 農業      1人(相生村)
 神職       1人
 無職      1人

最後に、卒業生個人についてほんの少し触れよう。但し、直接、ご家族にあたり調べたことではなく、文献資料に基づくだけで、推測もあり誤りも有るかも知れない。
 暮田 福一郎 早稲田か?初代同窓会幹事長
        兵役期間長い。織物業・新宿
     祖父は俳人としても活躍した暮田柳圃だと推測する。
 下山 長一郎 第二代同窓会幹事長、
        長距離走で県内外にて活躍。
        卒業生総代。織物業・相生
 岩野 新三郎 第三代同窓会幹事長、幼名保吉。
        桐生市消防団副団長、機業
 大澤 國二  織物業 三吉町
 斎藤 総一郎 幼名熊太郎 織物関係
 根岸 時太郎 織物関係
 中里 勝次郎 旧姓 赤尾威 織物関係
 長  晴一  銀行員・織物関係
 星野 政一  織物関係
 下山 儀三郎 織物関係 相生出身
 常見 喜一  新宿出身、群馬師範卒……
        昭和10年以前に逝去。
 荒川 一   小学校訓導。
        昭和12年11月〜14年8月桐中教練教諭。
        転職後の後、応召、戦死との記載もある。
 荒川 榮一  昭和16年8月〜18年12月 桐中教練教諭、
     応召し20年8月までは、桐中に籍が有ったと思われる。
        織物関係
 小島 貢   群馬師範卒、桐生市教育界で活躍。
        親は常祇神社神官 小島吾妻
 蜂須賀 保  桐生市教育界で活躍。
        「無教会派」の桐生聖書研究会の中心人物の一人。
 柳田 保   本籍は千葉県。親は桐生町(市)の官吏。
        一高から東京帝大農学部を経て医学部卒、
        昭和19年桐生市本町6丁目に
        産婦人科開業後応召。
        戦後復帰し37年病気にて逝去。
*以上が桐生市域在住または帰桐した方々である。

 森田 晟三  戦前、横浜市在住
 相馬 一正  桐生町出身、
        東京外国語学校ドイツ語 学科卒、
        翻訳業を主とし1996年逝去 筆名 塩谷太郎。
 田辺 常一郎 戦後、富岡市在住
 高橋 善十郎 境野村出身、幼名好造。
        佐野中から転入。東京在住か。
 堀江 民之助 神奈川県警察関係・神奈川県庁
 森山 秀二  東京商大か?……三菱鉱業関係へ
 若林 勝   四年次前中から転入。
        早稲田か?……鉄道省関係のち三菱鋼材関係か
 平山 坦   新潟高校から…… のち 日本医師会
 菊地 八郎  二高から?帝大か、 大谷重工業、弁理士など
 瀧田 健吉  柔道強し。日大……岩手県に戻り土木関係
 小林 可人  成蹊実務専門学校から三菱製紙
        「校歌」制定前に、全校生で歌える歌を作詞、
        軍歌の曲を使用したという。
        原籍は館林で、桐生町生まれ。
 高野 藤甫  四年次前中から転入、慶応予科……
        佐波郡の官吏。親は佐波郡三郷の医師。

*中途 転退学・進学等は14人。その内8人の氏名は
確認しているが同窓会名簿に記載されているのは1人である。

追記   卒業は難し!

 第二回卒業生 32人
 第一回卒業生の大半が町立桐生中学二年生として入学したのだか、同時に一年生に入学したのが50人(志願者107)。5年後、
大正11年3月10日 卒業生32人 第二回卒業生となる。
内訳は、6年4月の入学生 25人
前学年の原級留置者     1人
9年4月以降の転入生     6人
 故に、当初の入学生50人の内 25人は、転学、落第、退学、又は四修ということになる。但し、四修で上級学校進学は、一人のみ確認。

 第三回卒業生 48人
大正7年4月8日 入学者81(志願者93人)、再入学・補欠1人
 *教務日誌抄では、85人入学許可(入学式前日発表)
大正12年3月8日 卒業生48人
        内訳は 7年4月入学者 39人
           前学年の原級留置者  3人
           8年4月以降の転入生  6人
 故に、当初の入学生82人の内、43人は、転学、落第、退学
または、四修。四修で上級学校進学は、3人のみであろう。

*野間清治顕彰会発行の「稲川東一郎伝」では、「東一郎が受験した時は、百二十一人が狭き門に挑戦して、九十五人が合格しました。」とあるが前記したように、志願者は93人、合格者は85人、入学者は81人である。
 この「稲川東一郎伝」には、小さな間違いがある。東一郎と同級の藤倉喜代丸が、桐高同窓会報創刊号の「回想記」書いてあるのは、
一「学年末に2番となり、第二学年の1学期末に甲級の正級長を命ぜられ、5年生の卒業まで甲級正級長を通しました」、なのだが、「稲川東一郎伝」では、藤倉が「私は一年生から五年生の卒業まで甲組の級長を通しました」としている。
 藤倉は非常に優秀な生徒であり、後に長く桐中・桐高教諭を勤めるのであるが藤倉自身一年から級長とされびっくりしていることであろう。「合格した時は、25番であった」と先の回想記に率直に述べ、一年からなどと書いていない。
 しかし、活字とされ一冊の本となると、それが全てとなってしまうこともあり、恐ろしいことでもある。
posted by 100年史編集者 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/42026739
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック