2010年12月17日

其の四十七 野球事始め

 硬式野球部については、市域の研究者が何冊もの本を既に刊行されており、小生などが触れることではないが、時には触れてみる。

野球(部)誕生
 *1920(大正9)年春「野球用具一式を揃えた岩下が、それを大きな袋に入れて桐生中に持ち込んだのは、東一郎が三年生の時でした」  (「稲川東一郎伝」野間清治顕彰会2001年)

 *「大正9年、夏休みも近くなった初夏のある朝…岩下は大きなふろしき包みを担いで…登校してきた」 (「山紫に」 1978年)

 *「大正9年の頃。…岩下が…学校に持ち込んだ」
                (「高校人脈」 1977年)
以上のように、桐中で野球(学校の「部」としてではなく)が始められたのは大正9年の事と言われている。岩下とは、稲川と一緒に入学した「岩下豊次郎」である。境野の出身で、恐らく桐中四年で他校に転学、法大卒後読売新聞社でご活躍された。

 しかし、桐高同窓会報創刊号(1967年)の稲川東一郎と藤倉喜代丸の「回想記」には、以下のように書かれている。
 「三年生の春の頃でした。…岩下君の薦めで道具一式を貰い、入会し、初めは一級上の故田中左翼手の補欠として練習に参加させられ、ゲームというと南小学校が公式球場ということで、そこで行われました」(稲川)
 「桐中の野球の始まりは…岩下君が…持参してキャッチボールを始め、やがて2、3年の混成チームと校内マッチをやるようになり、いつも1年チームが勝ちました」(藤倉)
とすると、稲川や藤倉が入学した1年生の頃、野球らしきことが行われていた。稲川が野球(会)に入会したのが、大正9年の春の頃だった、ということである。
また、関係本等に渡部初代学校長が「危ないからやめろ」と雷を落とした逸話が出てくるのであるが(出典は不明)、渡部は大正6年〜8年3月の在職である。
とすると、大正7年度に一部の生徒が「野球らしき」事をしていたことになる。
 「私の親戚の宮崎正康が…桐中の野球部を始めて作ったのは俺だと言っていますよ」(1952年の桐高新聞の座談会での原勢の発言)という記事がある。
宮崎は大正6年4月に2学年に入った生徒であり、「野球」に係わったかも知れない。

 そして、大正8年4月、前橋中学から高野藤甫と若林勝が3年生に転入してくる。稲川が最上級生として名前を挙げている高野や若林である。一年上では、田中恒三、小野里豊治、大貫貞三、早瀬きょう一等であり、同級生としては岩下、藤倉、清水、稲川茂等がおり、大正8年頃には一チームが出来る人数がおり、岩下豊次郎が大変面倒をみたのであろう。そして大正9年春に稲川東一郎も「入会」したのであると考えても、よさそうである。 
 当時
   ・大学野球は明治中期以降続けられており、早慶戦もあり、
   ・大正4年には、朝日新聞社による中等学校の
   「夏の甲子園」も始まっていた。
   ・実業団野球も全国にあり、桐生町(市)域でも、
   桐生機関庫のエンジンチーム、桐生クラブ
   (12年頃には、オール桐生)などが活動していた。
   ・桐生高等工業学校でもそれまでの同好会が、
   9年に野球部(最初は「野球掛」)となり承認された。
   ・10年市制施行後、桐高工グランドで市内4尋常小学校の
   対抗試合があった。
しかし、群馬県の中等学校では、1909(明治42)年以降、運動部関係の対外試合が自粛状況にあり、特に「野球」は低迷していたのである。

1918(大正7)年、桜田前橋中学校長の英断により自粛が暫時解除され運動部活動が復活しはじめていたのである。
   大正 8年 太中で野球部復活
       9年 前中が、関東大会初出場
     10年 前中・太中 関東大会出場
        第一回県下中学野球大会開催 
 しかしまだ、桐中では、「部」として承認されていなかった。
大正10年6月、斎藤重保が学校長として着任。翌11年1月退職するまでの
半年の間に「野球部」承認されたのである。但し、11年度、野球部への校友会からの金銭支出はない。
関係諸本には、校長が「俺は野球が好きだ。ただし学校の言うことをちゃんと守れ」と言った(出典不明)という事が記載されている。
野球有害論、危険論もまだまだ有り野球への風当たりの強い時代背景が窺える。と同時に
 「野球が奨励されなかったというのは、当時野球選手には素行の良くないのが多かったですね」(桐高新聞 1952年15号、星野辰雄=大正10年2月
着任の英語教諭で二代目野球部長)。確かに「野球に熱中して学業を怠る」「粗暴にして不規律」の生徒もいた。野球をしていた某生徒は、中退して「心中」らしきことをしでかしたなどという風聞もあり、風当たりの強い時代であった。

しかし
部として成立すると、恐らく他校との練習試合も行われ「チーム」としての纏まりも出てくる。ついに、
1922(大正11)年9月 県下中学野球大会出場(第二回)
 「前橋中学校に野球大会あり。本校より選手を派遣す」(桐中教務日誌抄)
とあり、高中に10A−5で敗退、「くやし涙にくれた」(稲川回想記)と。
このチームの中心そして牽引したのが稲川であった。稲川は、5年生での出場は「小生只一人」(稲川回想記)であったと記す。
 即ち、藤倉は野球から離れ、岩下は恐らく4年修了で転学又は上級学校進学していたと思われる。メンバーは不明であるが、稲川東一郎の卒業後、12年桐中が関東大会に初出場するが、その時のメンバーの大部分が、11年の最初の県下大会に出たメンバーではないかと思われる。  *関東大会出場のための県予選はない。
 大正12年7月(前中) 関東大会出場メンバー
 (名前は筆者による推測)
  遊 須永 保蔵   5年生(卒業前に逝去)
  中 大澤 次郎か? 2年生(昭2年甲子園の時 コーチ)
  投 稲川 茂七郎  5年生(7年入学。後に「竹田」姓に戻る)
  二 金子 芳男   3年生 
  一 周東 真次郎  4年生
  捕 清水 国雄   5年生(7年入学)
  右 蓼沼 次郎   5年生
  三 宮川 元二   4年生
  左 野田      不明
  その他 3年 清水忠雄 高橋四郎 2年 外池力雄
 稲川の回想記には、他に 早川寛一(4年)、坂上政男(3年)
佐川(?)等の氏名がある。
 佐川は、後の桐高工野球部のメンバー名にあるが、同一人物かどうか不明である。
 大正12年の関東大会に稲川東一郎が出場したと「稲川東一郎伝」に有るが、上記の稲川茂七郎の間違いである。
posted by 100年史編集者 at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球
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