2010年12月23日

其の四十八 野球部を支えた人達

大貫貞三
 「…東北帝大出身で同君は学校の休みの時、私と仲良く後輩の指導に当たった好漢であった」(稲川の回想記)
 大貫は、桐生町安楽土の材木商大貫常吉の子で、大正6年4月桐中一学年に入学、稲川より一歳上である。11年3月卒業し、桐生高等工業学校(現、群大工学部)に進学し野球部の投手として活躍。その後東北帝大理学部に進学する。
 昭和7年1月、館林高等女学校教諭となり数学・地理を担当、庭球部の部長として神宮大会に出場。13年5月離任する。16年の同窓会名簿では、朝鮮総督府に在職していたと記されている。
 戦後は恐らく川崎市在住、30年前後にご逝去。

大澤次郎
 「…昭和2年(甲子園初出場)優勝当時は、故人大澤次郎氏が北関東、甲子園とベンチを務めた」
          (「群馬の高校野球」阿部精一の寄稿文)
 大澤次郎は、桐生市新宿の機業大澤徳次郎の子で、大正11年4月桐中に入学、稲川より4歳年下である。12年、桐中の関東大会初出場の時レギュラー。
13〜15年と関東大会に出場するも敗れ、昭和2年3月卒業。「部員を統御し運動家として模範的人物」であると評された。
2年、北関東大会で初優勝し、甲子園出場の時、ベンチコーチを務めたのは、大澤次郎であった。
 これ以降 群大工学部野球部70年史によると
この年、桐生高等工業と上田蚕糸との試合で投手として出場した記録あり。
大澤次郎は、桐高工へ進学したことになる。
  3年 大澤の記録なし
  4年 大澤次郎、森純一(桐中昭和2年卒)
     藍原和平    (桐中昭和3年卒)
     時田貞夫・静夫 (桐中昭和4年卒)ら新人を
     迎えるとある。
  4年秋、大澤・森・時田兄 兵役
  5年には、森・時田兄 除隊
  6年春  大澤 除隊
  6年4月〜8年秋まで、大澤は主戦投手を務める。
  9年には卒業と思われる。
 12年、桐高工の野球部に人絹で造ったユニフォーム寄贈
大澤は、昭和2年〜8年3月まで桐高工におり、途中兵役期間を差し引いても長い期間、在学したことになるので、その点は、現在説明できないでいる。
そして、桐中「校友会誌 第十五号」に野球部長萩原英雄の追悼文が掲載されている(13年2月4日記す)。
 13年 志賀高原笠岳にて遭難死(日時等未調査)29歳
「思えば、今から十六、七年前のこと…帽子を心持ち傾けてちょこんとかぶり、拝むような手つきから投げ込む直、曲球が快心のスピードとコントロールをもって打者を悩ましている少年投手を見て感嘆したものであった。その投手こそが私が始めて知った大澤君の姿であった。…昭和2年藤生君が主将となるや大澤君は監督として浦和における北関東大会…見事優勝の栄冠を握り甲子園球場初出場となったのである。…(桐高工卒業後も)陰に陽に本校野球部のために並々ならぬ世話を焼いてくれた…その次郎さんが忽然と逝ってしまった。私も片腕をもぎ取られたような心持ちがして、ただ夢のようだ…」と。
 *なお、森純一は、桐高工卒後陸士に入学、
  昭和17年陸鷲隊にて散華
  藍原和平は、昭和16年以前に逝去。

阿部一郎・精一兄弟
 阿部兄弟は、桐生町新宿村の染色業平一の子である。原籍は福島県喜多方である。
 一郎は、大正13年4月、精一は14年4月、桐中に入学し、野球部に属す。
10年の尋常小学校対抗試合では、南尋常小学校で一郎は大澤次郎とバッテリーを組んで出場していた。
昭和2年北関東大会(大正15年から関東大会は南北に別れた)で、群馬県下では無敵、優勝候補の高中を延長の末、一郎の右中間二塁打でさよなら勝ち、甲子園初出場を獲得した。北関東大会では、兄一郎は3番で捕手、弟精一は4番で投手。精一はこの時四試合完投。ただ体格は二人とも平均以上で
この時、兄は17歳、164.6p、54s、弟は15歳、164.2p、
50sである。
 昭和3〜4年と北関東で敗退するが、5年河上投手を擁して、二度目の甲子園出場となる。この時ベンチに入ったのは阿部一郎である。一郎は当時日本歯科医学専門学校大学の学生であった。その後11年に歯科医院を泉町(現仲町)で開業、13年〜58年まで母校の校医(歯科)も務め、且つ桐中・桐高野球部を支えた。
 弟精一は、日大の野球部で活躍、卒業後東京市役所に勤務し、20年郷里へ疎開。戦後22年5月桐生工業学校(21年夏、甲子園初出場、現県立桐生工業高等学校)の監督となり、23年春選抜出場。23年3月〜47年3月まで桐工教諭、野球部監督・部長を務め、又、全国・県の高野連の役員であった。
 昭12年卒の青木正一が、阿部精一先輩にしごかれたことを「球都桐生の歴史」で語っている。
 *なお、昭和2年甲子園出場の時の主将は、藤生雄吉で、
  安楽土の材木商 藤生文次郎の子である。
 池田豊は東京の現、武蔵野市出身、早大の野球選手で、後プロの監督、審判として活躍した。この池田が桐中野球部の指導をした事もあるという。
「桐生中学初期の野球の技術面の指導は。早大先輩でプロ野球名審判、故池田豊氏によってなされた、といって過言ではない」と阿部精一は前出の書物で述べている。
いつ頃来桐したかは定かではではないが、これも前出の群大の書物では、大正15年頃、同校の選手のつてで、桐高工の指導に池田氏が見えたとあり、その頃から、桐中の指導もされたのではないかと思われる。
桐中野球部の指導は稲川東一郎を中心に主にOB中心に行われていたが、時に外部の人も来ていたようである。
時期は不明だが、早大の大橋、横内(昭和初期か?)、早大の今井、池田(昭4年)、法大の岸(昭7年)、明大の恒川(昭12年)等の名前がある。

私設応援団
 中等学校野球の応援は、生徒の応援というより、町域・市域の方々の熱狂的応援であった。そうした応援の中から、後援会が立ち上がっていくのである。
 木島久太郎氏がその中心人物と言われている。本町6丁目の「小田原屋」という佃煮屋で、屋台を引いた行商もやっていたらしい。(阿部精一は本町4丁目としている)。昭和2年に、「第二次野球部後援会」が成立し、理事5人の一人
に木島の名前がある。その後の木島氏について、具体的な事は分からない。
 もう一人は、吉野錦風氏である。
吉野錦風は、「桐高の試合は創部以来、全部見てきた」(「高校人脈」)と言はれ「はちまきに日の丸の扇子をもって応援団長をつとめてくれた」(前出、阿部精一)。
錦風は、桐生町安楽土の機屋の生まれであったが、機屋が傾き上京して「指物師」として修業、桐生に戻り商売をしつつ、芸事全般に熱中。桐中に野球部が出来た頃、「桐生キネマ」(映画館)の活動弁士として活躍。新川運動場が作られ、そのスタンドの下に「ホームラン食堂」を出店し、桐中野球、稲川東一郎との繋がりを深めていったと言われる。芸事の中では、特に「義太夫」では、全国では前頭筆頭位の実力があり、戦後、県の古典芸術義太夫協会副会長・桐生義太夫同好会常任理事を務めた。
その錦風の姿は、毎日の練習の時も又試合の時にも有ったが、昭和52年、稲川東一郎の命日と同じ4月18日に逝去された。
 錦風の本名は「吉田金七」、永楽町で子息の吉田満氏(故人)が「吉野鮨」を営み、その満氏のもとに養子に入ったのが、東一郎の四男武司氏であり、現、吉野鮨のご主人である。
posted by 100年史編集者 at 10:20| Comment(2) | TrackBack(0) | 野球
この記事へのコメント
阿部精一さんは昭和50年代頃高野連理事として某新聞にかなり頻繁に寄稿していた記憶があります。詳しいことは分かりませんが、ああ、阿部兄弟の弟さんがまだ高校野球の舞台で活躍して偉くなっているんだなぁ、と思ったのを思い出します。
Posted by 高草木誠 at 2011年06月16日 23:54
初めまして。
岩手県の福岡高校卒業生です。
昭和2年に岩手県の福岡中学も初出場で、桐生中学と対戦しました。
当時の選手から、桐生の阿部兄弟の事が伝わっております。
昭和6年にも対戦して、この年は桐生に軍配です。
これからもよろしくお願いいたします。
Posted by 陣場台 at 2017年06月23日 09:52
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