2010年12月23日

其の四十八 野球部を支えた人達

大貫貞三
 「…東北帝大出身で同君は学校の休みの時、私と仲良く後輩の指導に当たった好漢であった」(稲川の回想記)
 大貫は、桐生町安楽土の材木商大貫常吉の子で、大正6年4月桐中一学年に入学、稲川より一歳上である。11年3月卒業し、桐生高等工業学校(現、群大工学部)に進学し野球部の投手として活躍。その後東北帝大理学部に進学する。
 昭和7年1月、館林高等女学校教諭となり数学・地理を担当、庭球部の部長として神宮大会に出場。13年5月離任する。16年の同窓会名簿では、朝鮮総督府に在職していたと記されている。
 戦後は恐らく川崎市在住、30年前後にご逝去。

大澤次郎
 「…昭和2年(甲子園初出場)優勝当時は、故人大澤次郎氏が北関東、甲子園とベンチを務めた」
          (「群馬の高校野球」阿部精一の寄稿文)
 大澤次郎は、桐生市新宿の機業大澤徳次郎の子で、大正11年4月桐中に入学、稲川より4歳年下である。12年、桐中の関東大会初出場の時レギュラー。
13〜15年と関東大会に出場するも敗れ、昭和2年3月卒業。「部員を統御し運動家として模範的人物」であると評された。
2年、北関東大会で初優勝し、甲子園出場の時、ベンチコーチを務めたのは、大澤次郎であった。
 これ以降 群大工学部野球部70年史によると
この年、桐生高等工業と上田蚕糸との試合で投手として出場した記録あり。
大澤次郎は、桐高工へ進学したことになる。
  3年 大澤の記録なし
  4年 大澤次郎、森純一(桐中昭和2年卒)
     藍原和平    (桐中昭和3年卒)
     時田貞夫・静夫 (桐中昭和4年卒)ら新人を
     迎えるとある。
  4年秋、大澤・森・時田兄 兵役
  5年には、森・時田兄 除隊
  6年春  大澤 除隊
  6年4月〜8年秋まで、大澤は主戦投手を務める。
  9年には卒業と思われる。
 12年、桐高工の野球部に人絹で造ったユニフォーム寄贈
大澤は、昭和2年〜8年3月まで桐高工におり、途中兵役期間を差し引いても長い期間、在学したことになるので、その点は、現在説明できないでいる。
そして、桐中「校友会誌 第十五号」に野球部長萩原英雄の追悼文が掲載されている(13年2月4日記す)。
 13年 志賀高原笠岳にて遭難死(日時等未調査)29歳
「思えば、今から十六、七年前のこと…帽子を心持ち傾けてちょこんとかぶり、拝むような手つきから投げ込む直、曲球が快心のスピードとコントロールをもって打者を悩ましている少年投手を見て感嘆したものであった。その投手こそが私が始めて知った大澤君の姿であった。…昭和2年藤生君が主将となるや大澤君は監督として浦和における北関東大会…見事優勝の栄冠を握り甲子園球場初出場となったのである。…(桐高工卒業後も)陰に陽に本校野球部のために並々ならぬ世話を焼いてくれた…その次郎さんが忽然と逝ってしまった。私も片腕をもぎ取られたような心持ちがして、ただ夢のようだ…」と。
 *なお、森純一は、桐高工卒後陸士に入学、
  昭和17年陸鷲隊にて散華
  藍原和平は、昭和16年以前に逝去。

阿部一郎・精一兄弟
 阿部兄弟は、桐生町新宿村の染色業平一の子である。原籍は福島県喜多方である。
 一郎は、大正13年4月、精一は14年4月、桐中に入学し、野球部に属す。
10年の尋常小学校対抗試合では、南尋常小学校で一郎は大澤次郎とバッテリーを組んで出場していた。
昭和2年北関東大会(大正15年から関東大会は南北に別れた)で、群馬県下では無敵、優勝候補の高中を延長の末、一郎の右中間二塁打でさよなら勝ち、甲子園初出場を獲得した。北関東大会では、兄一郎は3番で捕手、弟精一は4番で投手。精一はこの時四試合完投。ただ体格は二人とも平均以上で
この時、兄は17歳、164.6p、54s、弟は15歳、164.2p、
50sである。
 昭和3〜4年と北関東で敗退するが、5年河上投手を擁して、二度目の甲子園出場となる。この時ベンチに入ったのは阿部一郎である。一郎は当時日本歯科医学専門学校大学の学生であった。その後11年に歯科医院を泉町(現仲町)で開業、13年〜58年まで母校の校医(歯科)も務め、且つ桐中・桐高野球部を支えた。
 弟精一は、日大の野球部で活躍、卒業後東京市役所に勤務し、20年郷里へ疎開。戦後22年5月桐生工業学校(21年夏、甲子園初出場、現県立桐生工業高等学校)の監督となり、23年春選抜出場。23年3月〜47年3月まで桐工教諭、野球部監督・部長を務め、又、全国・県の高野連の役員であった。
 昭12年卒の青木正一が、阿部精一先輩にしごかれたことを「球都桐生の歴史」で語っている。
 *なお、昭和2年甲子園出場の時の主将は、藤生雄吉で、
  安楽土の材木商 藤生文次郎の子である。
 池田豊は東京の現、武蔵野市出身、早大の野球選手で、後プロの監督、審判として活躍した。この池田が桐中野球部の指導をした事もあるという。
「桐生中学初期の野球の技術面の指導は。早大先輩でプロ野球名審判、故池田豊氏によってなされた、といって過言ではない」と阿部精一は前出の書物で述べている。
いつ頃来桐したかは定かではではないが、これも前出の群大の書物では、大正15年頃、同校の選手のつてで、桐高工の指導に池田氏が見えたとあり、その頃から、桐中の指導もされたのではないかと思われる。
桐中野球部の指導は稲川東一郎を中心に主にOB中心に行われていたが、時に外部の人も来ていたようである。
時期は不明だが、早大の大橋、横内(昭和初期か?)、早大の今井、池田(昭4年)、法大の岸(昭7年)、明大の恒川(昭12年)等の名前がある。

私設応援団
 中等学校野球の応援は、生徒の応援というより、町域・市域の方々の熱狂的応援であった。そうした応援の中から、後援会が立ち上がっていくのである。
 木島久太郎氏がその中心人物と言われている。本町6丁目の「小田原屋」という佃煮屋で、屋台を引いた行商もやっていたらしい。(阿部精一は本町4丁目としている)。昭和2年に、「第二次野球部後援会」が成立し、理事5人の一人
に木島の名前がある。その後の木島氏について、具体的な事は分からない。
 もう一人は、吉野錦風氏である。
吉野錦風は、「桐高の試合は創部以来、全部見てきた」(「高校人脈」)と言はれ「はちまきに日の丸の扇子をもって応援団長をつとめてくれた」(前出、阿部精一)。
錦風は、桐生町安楽土の機屋の生まれであったが、機屋が傾き上京して「指物師」として修業、桐生に戻り商売をしつつ、芸事全般に熱中。桐中に野球部が出来た頃、「桐生キネマ」(映画館)の活動弁士として活躍。新川運動場が作られ、そのスタンドの下に「ホームラン食堂」を出店し、桐中野球、稲川東一郎との繋がりを深めていったと言われる。芸事の中では、特に「義太夫」では、全国では前頭筆頭位の実力があり、戦後、県の古典芸術義太夫協会副会長・桐生義太夫同好会常任理事を務めた。
その錦風の姿は、毎日の練習の時も又試合の時にも有ったが、昭和52年、稲川東一郎の命日と同じ4月18日に逝去された。
 錦風の本名は「吉田金七」、永楽町で子息の吉田満氏(故人)が「吉野鮨」を営み、その満氏のもとに養子に入ったのが、東一郎の四男武司氏であり、現、吉野鮨のご主人である。
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2010年12月17日

其の四十七 野球事始め

 硬式野球部については、市域の研究者が何冊もの本を既に刊行されており、小生などが触れることではないが、時には触れてみる。

野球(部)誕生
 *1920(大正9)年春「野球用具一式を揃えた岩下が、それを大きな袋に入れて桐生中に持ち込んだのは、東一郎が三年生の時でした」  (「稲川東一郎伝」野間清治顕彰会2001年)

 *「大正9年、夏休みも近くなった初夏のある朝…岩下は大きなふろしき包みを担いで…登校してきた」 (「山紫に」 1978年)

 *「大正9年の頃。…岩下が…学校に持ち込んだ」
                (「高校人脈」 1977年)
以上のように、桐中で野球(学校の「部」としてではなく)が始められたのは大正9年の事と言われている。岩下とは、稲川と一緒に入学した「岩下豊次郎」である。境野の出身で、恐らく桐中四年で他校に転学、法大卒後読売新聞社でご活躍された。

 しかし、桐高同窓会報創刊号(1967年)の稲川東一郎と藤倉喜代丸の「回想記」には、以下のように書かれている。
 「三年生の春の頃でした。…岩下君の薦めで道具一式を貰い、入会し、初めは一級上の故田中左翼手の補欠として練習に参加させられ、ゲームというと南小学校が公式球場ということで、そこで行われました」(稲川)
 「桐中の野球の始まりは…岩下君が…持参してキャッチボールを始め、やがて2、3年の混成チームと校内マッチをやるようになり、いつも1年チームが勝ちました」(藤倉)
とすると、稲川や藤倉が入学した1年生の頃、野球らしきことが行われていた。稲川が野球(会)に入会したのが、大正9年の春の頃だった、ということである。
また、関係本等に渡部初代学校長が「危ないからやめろ」と雷を落とした逸話が出てくるのであるが(出典は不明)、渡部は大正6年〜8年3月の在職である。
とすると、大正7年度に一部の生徒が「野球らしき」事をしていたことになる。
 「私の親戚の宮崎正康が…桐中の野球部を始めて作ったのは俺だと言っていますよ」(1952年の桐高新聞の座談会での原勢の発言)という記事がある。
宮崎は大正6年4月に2学年に入った生徒であり、「野球」に係わったかも知れない。

 そして、大正8年4月、前橋中学から高野藤甫と若林勝が3年生に転入してくる。稲川が最上級生として名前を挙げている高野や若林である。一年上では、田中恒三、小野里豊治、大貫貞三、早瀬きょう一等であり、同級生としては岩下、藤倉、清水、稲川茂等がおり、大正8年頃には一チームが出来る人数がおり、岩下豊次郎が大変面倒をみたのであろう。そして大正9年春に稲川東一郎も「入会」したのであると考えても、よさそうである。 
 当時
   ・大学野球は明治中期以降続けられており、早慶戦もあり、
   ・大正4年には、朝日新聞社による中等学校の
   「夏の甲子園」も始まっていた。
   ・実業団野球も全国にあり、桐生町(市)域でも、
   桐生機関庫のエンジンチーム、桐生クラブ
   (12年頃には、オール桐生)などが活動していた。
   ・桐生高等工業学校でもそれまでの同好会が、
   9年に野球部(最初は「野球掛」)となり承認された。
   ・10年市制施行後、桐高工グランドで市内4尋常小学校の
   対抗試合があった。
しかし、群馬県の中等学校では、1909(明治42)年以降、運動部関係の対外試合が自粛状況にあり、特に「野球」は低迷していたのである。

1918(大正7)年、桜田前橋中学校長の英断により自粛が暫時解除され運動部活動が復活しはじめていたのである。
   大正 8年 太中で野球部復活
       9年 前中が、関東大会初出場
     10年 前中・太中 関東大会出場
        第一回県下中学野球大会開催 
 しかしまだ、桐中では、「部」として承認されていなかった。
大正10年6月、斎藤重保が学校長として着任。翌11年1月退職するまでの
半年の間に「野球部」承認されたのである。但し、11年度、野球部への校友会からの金銭支出はない。
関係諸本には、校長が「俺は野球が好きだ。ただし学校の言うことをちゃんと守れ」と言った(出典不明)という事が記載されている。
野球有害論、危険論もまだまだ有り野球への風当たりの強い時代背景が窺える。と同時に
 「野球が奨励されなかったというのは、当時野球選手には素行の良くないのが多かったですね」(桐高新聞 1952年15号、星野辰雄=大正10年2月
着任の英語教諭で二代目野球部長)。確かに「野球に熱中して学業を怠る」「粗暴にして不規律」の生徒もいた。野球をしていた某生徒は、中退して「心中」らしきことをしでかしたなどという風聞もあり、風当たりの強い時代であった。

しかし
部として成立すると、恐らく他校との練習試合も行われ「チーム」としての纏まりも出てくる。ついに、
1922(大正11)年9月 県下中学野球大会出場(第二回)
 「前橋中学校に野球大会あり。本校より選手を派遣す」(桐中教務日誌抄)
とあり、高中に10A−5で敗退、「くやし涙にくれた」(稲川回想記)と。
このチームの中心そして牽引したのが稲川であった。稲川は、5年生での出場は「小生只一人」(稲川回想記)であったと記す。
 即ち、藤倉は野球から離れ、岩下は恐らく4年修了で転学又は上級学校進学していたと思われる。メンバーは不明であるが、稲川東一郎の卒業後、12年桐中が関東大会に初出場するが、その時のメンバーの大部分が、11年の最初の県下大会に出たメンバーではないかと思われる。  *関東大会出場のための県予選はない。
 大正12年7月(前中) 関東大会出場メンバー
 (名前は筆者による推測)
  遊 須永 保蔵   5年生(卒業前に逝去)
  中 大澤 次郎か? 2年生(昭2年甲子園の時 コーチ)
  投 稲川 茂七郎  5年生(7年入学。後に「竹田」姓に戻る)
  二 金子 芳男   3年生 
  一 周東 真次郎  4年生
  捕 清水 国雄   5年生(7年入学)
  右 蓼沼 次郎   5年生
  三 宮川 元二   4年生
  左 野田      不明
  その他 3年 清水忠雄 高橋四郎 2年 外池力雄
 稲川の回想記には、他に 早川寛一(4年)、坂上政男(3年)
佐川(?)等の氏名がある。
 佐川は、後の桐高工野球部のメンバー名にあるが、同一人物かどうか不明である。
 大正12年の関東大会に稲川東一郎が出場したと「稲川東一郎伝」に有るが、上記の稲川茂七郎の間違いである。
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2010年12月02日

其の四十五 修学旅行C

 今年、2010(平成22)年の修学旅行は、11月9日〜12日三泊四日で実施。 高崎駅集合、解散である
 高崎駅東口 ヤマダ電機1階広場集合!
 高崎発 7時46分発。 新幹線を乗り継ぎ広島へ。 
 広島着13時38分である。
翌日、夕刻に京都に入る。
一クラスだけ午前中に大阪に入り京都へ。夜は能舞台見学。
三日目、京都市内班別研修 携帯電話50台使用、
本部携帯15台使用
四日目、午前中京都市内 13時02分京都発
高崎着 16時51分 17時03分着で解散。

1.1993(平成 5)年4月から県教委は「国内の航空機利用」を許可。
  1998(平成10)年4月から、「海外旅行」も許可。
 桐高では、平成7年度から九州・北海道方面を実施したが、平成13〜20年度は再び関西中心となり、21〜22年度は広島となった。

2.大学や研究所、企業見学が行われた。とかく「物見遊山」と批判もあり「進路・生き方学習」の要素を含めたと言える。
 広島・長崎の場合は、必ず原爆資料館の見学等している。

3.平成15年度からは、「三泊四日」となり、奈良・飛鳥方面は時間的には
無理となった。また、中学校での関西方面修学旅行も考慮されたのであろう。

4.京都一日班別自主見学も平成10年復活。なんと35年ぶりである!

5.13〜20年度まで、先ず大阪に行くが、それは大阪城や企業見学ではなく、「ユニバーサルスタジオジャパン」で、午後半日過ごすためであった。
修学旅行も先ずは「息抜き」から始まるわけで、夜行列車を乗り継ぎ、早朝五十鈴川で手を浄め外宮・内宮を参拝することから始まる修学旅行とは、違うのであります。

6.群馬県教委の「旅行制限」が緩和されていくのは、平成5年からであるが
他都道府県からみれば大分条件が厳しかったことを配慮したのであろうが、一種の「自由化」に踏み切った平成5年前後は、いわゆる「バブル崩壊」、のちに「失われた10年」と呼ばれる時代の初期にあたっていて、教育費について
保護者負担の軽減が強く要望されてきていたが、修学旅行に限っては、航空機の利用、場合によっては海外旅行となり、旅行費用もウナギのぼりとなるのだが、保護者からの批判的意見は無かったのであろう。
 桐高の場合は未調査だが、県全体での一校平均旅行費用は、
 平成 元年 平均 6万9000円
    5年 平均 8万7000円
   11年 平均10万3000円である。
 
以下は、1995(平成7)年度以降の桐高修学旅行の略年表である。

 平成7年度〜
   9年度 四泊五日  航空機利用により九州方面
              九州の場合、長崎原爆資料館見学あり
  10年度       広島・神戸・大阪・京都一日自主見学
  11年度       北海道。大学・企業見学あり
  12年度       九州方面
  13年度       橿原神宮・吉野・飛鳥・大阪・奈良・京都
              京都一日自主見学→以後実施
  14年度       大阪・神戸・京都。 集合・解散高崎駅
  15年度 三泊四日  大阪・京都。       解散高崎駅
  16年度       大阪・京都。一日は大学・企業見学
  17年度       大阪・京都。一日は大学・企業見学
                          集合・解散高崎駅
  18年度       大阪・京都。 一日は大学・企業見学
                          集合・解散桐生 
  19年度       大阪・京都。大学見学 
                          集合高崎 解散桐生
   0年度       大阪・神戸・京都、大学・研究所見学
                          集合・解散高崎駅
  21年度       広島・京都。    集合・解散高崎駅
  22年度       広島・京都。    集合・解散高崎駅
  
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2010年10月14日

其の三十九 身長・体重(男子)

 現、桐高2年生の平均身長は、169.7p、体重63.2sである。
(2007=平成19年、桐高保健室調べ)

  それでは、以前の生徒は?
残念ながら資料はほとんど無かったが、この夏、半分は炭化した焼け残り資料が見つかった。それを慎重に整理、調査し、生徒の体格検査結果を纏めつつある。もちろん、昭和2年頃までは尺貫法で表記されているがメートル法に換算した。
そして、旧制中学5年生の記録であるので、現高校の方も2年生記録である。

              身長=p   体重=s  資料数=人数
 1920(大正10)年卒 157.1  49.9    17
 1921(大正11)年卒 158.1  50.3    20
 1937(昭和12)年卒 159.8  52.1    82
    [昭和12年全国] 160.1  51.5

  全国でみると戦前の平均値の最高は昭和14年前後であるが、
桐中のデータはなく12年のデータを記載した。

    [昭和23年全国] 157.9  48.7
    [昭和24年全国] 158.7  49.6
 全国のデータは、15〜22年までないが、恐らく低下し、大正時代まで
の平均に後退してしまったと考えられる。
 戦時中そして戦後数年間続いた様々な食糧不足、食糧統制の結果、即ち「戦争」の一断面であると言ってよい。

 1952(昭和27)年  161.6  51.4   381人
   (桐高発行の「補導の栞」より)
    [県統計27年]  160.1  50.1

 「終戦後、著しく低下した学徒の体位も既に戦前を凌ぐ域に達しております」と、養護教諭の景浦先生が述べたのは昭和28年であった(桐高新聞より)。

 1967(昭和42)年  167.2  57.3
 1977(昭和52)年  169.2  59.9
 1987(昭和62)年  169.9  61.0
 1997(平成 9)年    データ未発見
 2007(平成19)年  169.7  63.2
このように、桐中創立期から身長10p以上 体重10s以上の体位となったのである。

[余談 戦前編]
一、昭和11年、第13回春の選抜甲子園 桐中準優勝
 この第一期黄金時代を築いた青木らの身長・体重は?
  青木正一 170.0p  68.4s  ピッチャー
  塚越源市 157.0p  53.5s  キャッチャー
   (二人とも年がちょいっと上だけど) そしてショートストップ
  皆川定之 155,0p  52.0s である!!
   皆川は阪神で活躍する頃には160p位になったらしい。

二、昭和18年 五年生千葉保田海岸における学徒海洋訓練 五泊六日
 八月十八日 朝食 ナス汁、干し大根煮物
       昼食 三目飯 キュウリの漬け物
       夕食 コロッケ二個 ジャガイモ トマト
   十九日 朝食 コブの煮物 コブの汁
       昼食 アジの煮物 唐茄子の煮物 ナスの塩漬け
       夕食 三目飯 ネギの汁 ナスの塩漬け二片
 *これで戦争に勝てると思えたか?!
  「欲しがりません勝までは」

 そして更に、
三、昭和19年 夏〜 中島飛行機尾島工場への勤労動員
「金属の食器に乾燥イモ、或いは大豆に米が付いている盛り切り…
夏には、水を飲みながら硬い大豆飯をたべ、下痢で苦しんだ」
「赤イヌの肉が旨い ということで庭に迷い込んだイヌを食べようと捕獲を試みたが失敗した。ネギ焼いて食べたが美味だった」

四、報国農場
昭和15年3月から、現テニスコート〜小中学校にかけての荒蕪地を借用し悪戦苦闘の農地造成が始まり、遂に馬鈴薯・甘藷の収穫を得るにいたった。
開墾地は、他にも平井、水道山、相生にもあった。

[余談 戦後編]
  戦後の社会状況は、外史で触れることではないので、衣食住すべてに係わり想像を絶する時代であったと述べるに止める。食糧についてだけでも、食べる物が手に入らない、いわゆる代用食、麦飯は当たり前、さつまいもにトウモロコシが主食になった。或いはヤミ市で手に入れるか農村部へ買い出しに行く。金がないからそれまでタンスに仕舞っていた衣類を持って「買い出し」である。
「タケノコ生活」という。一枚一枚着ているいるものを剥いで食い物を手に入れる生活である。

一、「…校庭は掘り起こされ …森喜作氏の厚意により平井町の山林、相生村の竹林合わせて10ヘクタールの開墾が為された。9月の残暑の中で泥と汗の苦闘であった」(宮前定四郎「在職30年の思い出」より)。
20年10月 平井農場開墾→生徒は薩摩芋一本ずつもらう。
 (前中では10月、生徒のストライキ。その要求の一つに「学校農園耕作目的の明示と収穫物の処理方法如何」とある。同じ10月太中でも教師排斥のストライキが起こる。その背景の主たる要因ではないが、物資不足の問題もあったという)。

二、硬式野球は、22年春、戦後初出場、常見・川端の時である。
 何とか寄付金も集まり、米等は在校生の農家に頼み幸いにして集まったのだが、当時食料品等は移動禁止で見つかれば没収されてしまう。そこで、渡辺後援会長が桐生駅長に掛け合い、専用の貨物列車に人目をはばかり積み込み封印して宿舎に送ったという。米八俵、ジャガイモ、蝋燭、燐寸、枡等であった。蝋燭は停電対策用、枡は旅館に渡す米を正確に量るためであったという(ここまで 松尾八郎先生談)。
この年夏の大会でも、貨車でヤミ米11俵を送ったが、初戦小倉中に敗れ残った米を小倉中に提供したという「有名な話」がある。

三、戦後も米麦はもちろん日常生活の必需品は一切配給の統制下に置かれ、25年に藷類が解除され、米穀は30年産米より自主供出制になり、配給であるが日々の主食として確保できるようになったのだが…。
    一ヶ月当たりの配給基準は、
  昭和28年 内地米 12日分、外米3日分
  昭和31年 内地米10日分・準内地米1日分 外米14日 希望5日
 一人一日当たりの基準
  14〜25歳未満    402g
  25〜60歳未満    385g
 31年10月から 一律に 365gとなった。
  (米一合は 凡そ140〜160gであるから、3合に満たない)

四、◎桐高生の寄生虫卵検査 昭和27年6月 生物部の検査による。
 検査人員472人
 回虫卵保有者 受精卵 132人
        未受精卵 36人  計 168人   36%
 鞭虫・蟯虫卵保有者           40人    8%
 ◎虫歯の未処置の数 昭和27年の定期身体検査
      337人 全体の36%
 ◎トラコーマ13人 結膜炎12人
 ◎蓄膿症  46人(23%)
 
* 「食糧メーデー」「米よこせデモ」1946(昭和21)年5月1日
    「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ臣民…」不敬罪適用される。
  「東京地裁山口判事、配給生活を死守して栄養失調死」
                  1947(昭和22)年10月11日
  「貧乏人は麦飯を食え」     1950(昭和25)年12月
    大蔵大臣 池田勇人の発言
  「もはや戦後ではない」     1956(昭和31)年
    経済企画庁「経済白書」
 思い出される先輩、学兄もおられることでしょう。

   
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2010年10月01日

其の三十六 戦死・戦病死

 1931(昭和 6)年 9月18日 満州事変勃発
 1937(   12)年 7月 7日 日華事変(日中戦争)勃発
 1941(   16)年12月 8日 太平洋戦争勃発

 戦争の勃発、泥沼化、局面の変化の過程で、桐中卒業生の応召(或いは志願)も数をました。また、卒業時点並びに中途修了で軍部諸学校へ進学する生徒も増え、ある期間を経て実戦部隊に配置されていった。
 桐中関連資料は、極めて限られた資料しかないが、最初に「戦死」が報じられたのは、昭和12年9月7日「浅野正寛君の戦死を弔う。『偉丈夫浅野正寛君』という印刷物を全校生徒に配布」とある。故浅野氏は、桐中7年の卒業であり、法政大学へ進学されていた。
 昭和14年5月15日「野原大尉の遺骨迎え」後に学校・分会の合同葬。
故野原義雄先生は、桐中同窓生ではないが、12年8月教練科教諭として着任、10月に応召、14年1月7日中国山東省に於いて戦死。本校在職中に応召され、戦死された教職員は、野原先生一人であるかも知れない。退職或いは転勤後に応召され戦死・戦病死された教職員は二〜三人おられる。
 昭和14年10月3日 戦死者慰霊日として教職員・生徒代表は、故野原先生をはじめ、7人の戦死された同窓生のご遺族を訪問、御墓に詣でる。
 昭和16年11月7日〜「改築落成、創立記念式典」挙行。
記念大展覧会開催し、「慰霊室」を設置する。その中に「十二先輩の御祀り」を行ったとある。太平洋戦争勃発まで12人の同窓生の戦死を確認していたと思われる。

 昭和17年1月8日 陸鷲隊 森純一大尉戦死(上毛新聞より)。森大尉は硬式野球部員で昭和3年卒。以前に母校での講演もあった。
 「卒業生、桑原秀安君(飛行兵曹長)が真珠湾攻撃で戦死されたことは始業式で学校長より生徒に知らされた。」12年3月の卒業で14年4月甲飛合格し霞ヶ浦航空隊に入隊した。(艦爆機蒼龍による第二次攻撃で敵艦に突入)

 昭和17年12月9日、本校関係者の慰霊祭実施
   18年12月4日 慰霊祭実施 具体的内容は不明
  この後、卒業生に係わる文献資料はない。なお上記三人の氏名は、多くの関係書籍に記されているので敢えて載せる。

 昭和27年11月2日 桐中・桐高35周年記念式典挙行
 岩野新三郎同窓会長は、「…十数年ぶりで会員名簿を刊行……ただ悲しいかなこの十年のブランクの間に我が同窓会も第二次世界戦争の犠牲者として百余名の会員を失いました。…戦没会員にたいして…近き日を期して一大慰霊祭を挙行し…霊を慰めるべく既によりより協議を始めております。…」と述べている。
 その後慰霊祭実施の有無は文献資料などからは、不明である。
また、戦争犠牲者については昭和27年度版の同窓会名簿には百名を越える同窓生に印が付されている(但し、筆者は、未だ27年度版名簿を手にしていない)。
 今回、その名簿情報を基に調査をして、不充分ながら、卒業生(修了者を含む)の戦死者・戦病死者数を記す。(修了者は、卒業予定学年とする)
また、具体的人名については、記さない。
 1917(大正10)年3月卒〜1929(昭和5年)3月卒 11人
 1930(昭和 6)年     9人
          7年     5人
          8年     6人
          9年    12人
         10年     6人
         11年     7人
         12年    14人
         13年    13人
         14年    14人
         15年    17人
         16年    13人
         17年     3人
         18年     2人
         19年     4人
            合計 136人

6年〜16年まででは 卒業生数889人中116人で13.04%であり、特に15年卒業は77人中17人 22.07%!!!
(20人という説もある)。
 殆どの「校史」は同窓生の戦死者数については触れていない。
[参考]
 ・太高90年史は、一部資料を提供している。それによると桐中と
  前記同時期 卒業生1280人中 戦死者220人 17.2%
 ・桐生工専(現 群大工学部)では、昭和20年10月現在 129人
 ・慶応義塾大学の最近の報告では、二千数百人
 ・桐生工業高校 昭和14年第一回卒業生
  46人中14人戦死 30.4%

 桐中戦死者の調査は、極めて限られた資料の基に行ったもので、その実数はかなり増えると思われるが、調査能力に限界もあり、2010年夏現在である。

 外史(32)で、昭和20年5月予科練に中学3年生で入隊した「寄せ書き」のある「日の丸」の旗が有ったことを触れたが氏名以外の「語句」の一部を記して置く。
 「祈武運長久」「大義大勇」「尽忠報国」「撃ちてしやまん」「神州不滅」「行け特攻隊」「つづくぞ」
 そして「君之為明日は召されて行くぞ ガンジー」
これは、恐らくガンジーこと八田有親先生ではないかと思う。
当時、入隊する生徒に対して「生きて還ってこい」と言っただけで、急遽
召集され前線に送られた教師もいたと、他校の話で有るが。
一枚の寄せ書きには「虎」が大きく描かれている。これが何を意味するか?
やはり「虎は、……還る」という願いであったか! そうだとすると、よく描くことが出来たと思うのだが…。


 「戦争」に関しては、まだ触れなければならぬ事があるが、取り敢えずここで中断する。
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2010年06月23日

其の二十三 野球異聞A

 今回は、故 桐生中学・桐生高校元監督 稲川東一郎氏(以下敬称略)に係わる事を、少し触れよう。
 以前の野球異聞に於いても触れたが、野球またその監督については、地元の専門家や研究者の方々が書籍・冊子等で書かれておられるので、素人がそれ以上触れる必要は無いのであるが、「80年史」や「高校人脈」(毎日新聞社刊)でも、多くの頁を割いているので、外史としても触れないと場合によってはお小言を頂くことになるかも知れないので、二回目の外史登場となる。

「監督」について
 「稲川東一郎伝」(野間清治顕彰会 2001.12刊)
 「一つの学校が一人の監督によって、二十四回も甲子園に出場したという記録は、全国でも稲川監督と桐生高校だけではないでしょうか」と。
特に、異論もなにも無いのだが、「監督」とはどういうことなのか、ふと気になった。「監督」という名称は別としても、監督として「ベンチ」に入り采配を振るったということなのでしょうか。

 「高校人脈」(毎日新聞社前橋支局、1977.1刊 新聞連載は1975)
 大正13年、選抜第一回大会の和歌山中の田嶋選手は「…私の時代には監督というものは有りませんでした」と言う(選抜野球50年史 1978 毎日新聞社刊)。
 「ベンチに着席出来る者は、ユニフォームつけた補欠ほか、監督、コーチも許す」となったのは、昭和2年であると「山紫に」(編集 桐生タイムス。1978.6刊)は記している。
 桐中の場合、甲子園では?
昭和2年「このころコーチは稲川があたり、ベンチには大澤次郎が入った」
  (「高校人脈」)
 *桐中の「校友会誌15号」(昭和13年刊)で、野球部長の萩原英雄は
  「…昭和2年…大澤君は監督として浦和に於ける北関東大会に…」とある。
昭和5年「監督は、日歯大に在学中で、帰省していた阿部一郎である」
 *特別寄稿の所で、阿部一郎の寄稿文があり「…監督として思い出の
  大会であった」と(「高校人脈」)。
昭和6年、夏の大会での「監督名」は、どの本も記載していない。
昭和8年、春の選抜の時、
「稲川は、正式に監督としてベンチに入り…」(「高校人脈」)
「…勘当が理由で、直接タッチ出来なかった稲川東一郎が正式にベンチ入り
している」(「山紫に」)

 監督あるいはコーチとして甲子園の「ベンチ入り」していなかった時が昭和初期にあったとしても、稲川が言う「桐中野球部の揺籃期」には大貫貞三(稲川の1年先輩)や4年後輩の大澤次郎と共に、また、昭和初めに結成された後援会の支援・激励を受けながら、「家業」の合間に、また「家業」を放り投げ「親に勘当」されながらも後輩である野球部員の指導に当たったのであり、野球部創設から春11回・夏13回出場を牽引し、栄光の「ほとんど」を監督(コーチ)として一身に背負い、野球に全生涯を捧げた「巨星」であったことは揺るぎもしないであろう(一部「高校人脈」)

*ちなみに、新制高校になってからの同一校での甲子園出場監督では、
  県立福井商業の「北野尚文」が、36回
  私立智弁和歌山の「高嶋仁」が、26回
  私立帝京と私立星陵の「前田三夫」「山下智茂」が、25回である。
 みな、稲川より40歳前後年下である。
  稲川のベンチ入りは、旧制時代に11回、新制高校時代に10回であろう。
・稲川の新制高校時の10回というのは、それだけでたいしたものであるが県立高校男子普通科の野球部監督としては、一番の回数である。
稲川と比較出来るのは、徳島県立池田高校の蔦であり14回である。なお、池田は男女共学であり、蔦は稲川より18歳年下である。
その他10回以上出場の県立普通科高校の監督はいるが、みな商業・工業科などを持つ学校である。
*旧制中学校時代の監督の記録は、まだ見ていない。
 「監督」自体が規則で決まってない時期もあり、恐らく資料はない。
 旧制中学・新制高校で県立普通科の中学・高校として26回の出場は、
 恐らく現在の静岡高校35回、鳥取西高校27回に次ぐ第3位であろう。
 ただ、静岡も鳥取西も、桐中(高)よりも遙かに古い歴史と伝統を持っているが、これまで「校名」変更や他の中等学校との併合もある。
 ただ「桐生中学校(高校)」として一貫してきたのは、我が母校のみである。
こういうのを「我田引水」と言い、うっかりすると「ひいきの引き倒し」と言われる場合もある。
 余分な事を言ってしまった。桐生には野球について隅々まで調査・研究・
執筆なされている専門家、碩学の方々にとっては、すべて自明のことであり、
二番も三番煎じであるでしょう。

稲川がグランドに姿を見せられなかった時
 稲川の言う「揺籃期」には、東京で家業に従事したり、「勘当され」桐生に住めなかった時期については、流石の地元研究者も具体的にその時期を記載していない。
 ただ、「球都桐生の歴史」(平成7年刊)で、昭和7年3月卒の野球部OB
菊地辰男が「『稲川監督を偲ぶ会』開催について」の中で「…61歳の生涯を閉じるまで、兵役についた3年間を除いて常に野球部と共に歩み、伝統を築いた」と書いている。
 この「兵役3年間」が問題であり、一流の地元研究者も、恐らく一言も触れていないのではないかと思う。
 稲川は、
 1905(明治38)年10月25日 誕生
 1923(大正12)年 3月    桐中卒業 満17歳
 1925(大正14)年10月    満20歳
  満20歳となれば、「徴兵検査」があり、その結果により兵役つく。
陸軍2年、海軍3年である。
大正14年10〜12月に徴兵されれば、陸軍2年として昭和2年秋までで、解除となる。
そこで、昭和2年8月の北関東大会、そして甲子園出場の時、稲川は、球場にいたかどうか?
 「高校人脈」は、北関東大会の応援で「錦風らがハチマキをして…」
 「山紫に」は、北関東大会で「東ちゃんが踊る、錦風が舞う」と応援団席のことを記す。
 「稲川東一郎伝」「80年史」では、北関東大会優勝後の市内パレードで「五台のオープンカーの中には、東一郎の晴れ姿がありました」と。
 「球都桐生の歴史」には、北関東大会優勝時と甲子園関係の写真がある。
そこに、稲川を確認できるかどうか? 
 「校友会誌X号」には、10月31日夜 在京桐中有志の会 有り
その一人に「稲川君」ありと記す。
同年11月、先輩との紅白試合 紅軍阿部―寺内 白軍大沢―稲川のバッテリー、という記事を桐中教諭星野辰雄が書いている。
総合してみると、稲川は、昭和2年には野球部に同道していた可能性は高い。
即ち、逆に言うと、大正14年秋〜昭和2年夏までの1年半余りの期間が空白である。

 他の時期に、稲川が2〜3年桐生を空けた時期があるだろうか。
 昭和3年7月〜北関東は、コーチ稲川、ベンチは大澤次郎(「山紫に」)
8月 豊川電鉄大会の「時田」のランニングホームランの事、対戦相手の新潟商業の事などの記述(同窓会報創刊号)は、稲川が現場にいたことを証明している。稲川 満22歳。
11月新川球場がオープンし、稲川さんのもとで猛練習した(前出菊地)。
昭和5年 6月1日の練習試合で、前工に 24−8で大敗。 
試合後、「脱衣所に引きあげた選手は、稲川先輩を取り囲んで長い間涙と沈黙にうち沈んだ」と(校友会誌[号の清水房嗣)
昭和5年8月の甲子園は、阿部一郎がベンチ入り、「監督として思い出の大会であった」と、「高校人脈」で語っている。この時、甲子園のどこに稲川がいたか記載はない。「稲川東一郎伝」は「陰の監督として応援」と記す。
昭和6年夏も連続して甲子園出場、ベンチ入りの監督名は各誌、記載なし。
7年には稲川は結婚(月日は不明)
そして
昭和8年3月30日からの選抜に初出場し、この時稲川は、正式に監督として、ベンチに入ったと各誌記す。
即ち、昭和3年冬〜、昭和5年秋〜 一年半位、稲川の氏名のある記事はない。
もう一つの空白期間は、「80年史」の富田達也(昭和20年卒)の寄稿文で
昭和18年秋 野球部解散(稲川 満38歳)前中との試合が最後で、県外遠征の思い出は、小諸商業戦であり、引率顧問は館内光であったと。
 稲川が復帰するのは「高校人脈」が最初に書いたのだが、「終戦の三日後」
20年8月18日であり、グローブ・バット持参で生徒とキャッチボールをしたという記載をその他各誌も踏襲している。なお、桐中は、18日から夏休みに入った。この2年近くの間、稲川についての記載はない。但し、稲川が復員してきたという話は、未だ聞いていないから応召はされていなかったと思える。
「終戦三日後」については、当時の他生徒は、「秋の夕暮れに」新川球場に稲川が現れた、あるいは終戦後まもなく球場に現れたと書いているのみ。
 
 こうして見てくると、菊地辰男の言う「兵役についた3年間」、その3年間の時間帯が設定出来ず、いつなのか、推定出来ない。
 そこで素人の管見、徴兵検査後直ぐに兵役へ行き、兵種が陸軍の歩兵の場合、期間は1年半で、しかも帰休兵として期間短縮もあり、稲川は、それに該当したのではないかと推定するが、いかが。即ち昭和2年の北関東大会前には、帰休していたと。
兵役終了後も「観閲点呼」が2年おき位にあり、場合によっては一ヶ月位の勤務演習もあり、それらの履歴等が記載された書類が残されていないため稲川東一郎氏の兵役関係について、各誌とも記載出来無かったのかも知れないし、或いは、野球、監督ということと無関係なことであるとして記載しなかったのかも知れない。
 何れにしろ、稲川にも野球に専念出来ない、グランドに姿を現すことの出来ない苦しい時期もあったということである。だからと言って稲川の業績は、揺るぎもしないであろう。
posted by 100年史編集者 at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球

2010年05月22日

其の十五 夢の全国制覇

 今年度群馬県総合体育大会並びにインターハイ県予選の成績の一部が、桐生高校ホームページの「学校日記」に報告されています。健闘を祈る。
 バドミントン ダブルス 丹羽・堀内組 優勝→沖縄でのインターハイ出場
 卓球     シングルス 和内 関東大会出場
 
 現在は、インターハイなど全国大会への道(硬式野球を除く)は
1966(昭和41)年に始まった群馬県総合体育大会(県総体)や各種目によるインターハイ県予選を突破し、県優勝等で全国大会出場、あるいは更に関東大会を突破し全国大会出場決定になります。
 県総体は、昭和52年から得点制が施行され総合順位が決定します。
桐高は、55年 三位 56〜58年 四位 59年 三位 という輝かしい歴史を持っています。
 
 県総体以前の総合的な大会
昭和21年から、東毛地区の桐生・太田・館林を中心に実施
  24年から、県高体連の主催となり、県下東西北中部の4ブロックに分かれて実施され、東毛では東部地区大会と呼ばれ、部員以外の生徒も自転車で太田・館林まで応援に駆けつけた年もあった。旧制中学時代から昭和29年まで東部地区大会9連覇の記録がある。
  37年から40年までは、桐生は太田・館林と分離し単独の地区大会開催
  41年から、県総体となる。
  全国大会は、各種目別に実施されていた。

 戦前(旧制中学時代)では、全国大会の中心は1925(大正14)〜1943(昭和18)年まで14回実施された「明治神宮競技大会」である。一般並びに学生が出場した。
 1939(昭和14)年、柔道で山田がん(現桐生市体協会長)が、県代表の一人として出場した。 その他の記録は調査中。
 また、大学や高等師範等が全国的規模の大会を開催していた。
 1920(大正9)年10月 東京高師の運動会に招待された下山長一郎(第一回卒業生、後同窓会幹事長)は、12等賞獲得という記録がある。

          夢の全国制覇

「八回、桐中無死一・二塁、石田のバンドは不幸塚越を三塁に憤死せしめたが、四番青木絶好のテキサスを二塁後方に送ったと見るや、二塁手後走よくよろけながらに出したグラブに危うく捕らえられ、続く小林の一打は砂を噛んで三塁線上にあわや安打と見るべき難球を三塁手横飛に跳んでハシッと出したグラブに奇跡的にも熱球が飛び込んでいた。青木・小林の二打が僅か一寸にてもそれていたら桐中の栄冠は此処に殆ど決せられていたであろう。」
 1936(昭和11)年4月6日、愛知商業との決勝戦 観衆10万。
1対1、9回裏愛知は二死一塁、打者は当たっていない六番、「この時 始めて勝つなと嬉しい気持ちが起きた。補回(延長)に入れば、勝てる。恐らく選手達もひょっとしてそう考えたことと思う」しかし「打球は…佐々木が俊足を駆って背走していく姿が今でも私の眼から拭われない」
「恐るべきは心の隙である。戒むべきは心の弛みである」と。
「…街頭の歓呼裡に帰桐した。うすら冷たい春の雨はまた何を思うや、しとど上毛の地を濡らしていた」(野球部長 萩原英雄 記す。一部省略)

 同年8月19日 夏の大会 平安中学との準決勝。
八回まで5−6で一点リードされた九回裏、一安打二四球で二死満塁、一打逆転決勝進出か。バッターはこの日3安打のトップバッター皆川。ワンスリーから一球待て、ボールによっては押し出し同点になる。しかしストライクでツースリー。「いよいよ最後は来た。私は神を念じて何物かの霊感を予期しつつジッと皆川のバットに信念の眼をそそいだ。
どんよりとした空は灰色に球場を包んで風さえひっそり動かず、12万の観衆はごくりと唾を呑むときハシッと打った熱球は三塁側へ火の様に飛んだ。思わず跳び上がった私達の眼に映ったのは偶然のようにグラブへ飛び込んだ難球を捧げ拝むように本塁へ駆けてくる平安の三塁手だった。三塁手の手が高く掲げられた時勝敗の決を知って、観衆は我にかえった。…野球の殿堂甲子園に萬恨の涙を残すとはいえ、我らナインの此の健闘は永く中等球史の華として伝えられるであろう」と。
 萩原は図画教諭であったが、野球部副部長をへて昭和6〜7年に部長となり昭和16年度頃まで、稲川東一郎監督と長く意気のあったコンビを組んだ。
萩原は、昭和20年には、嘱託で桐中に勤めでいたが、桐生工専(群大工学部)に移り事務長、短期大学部教授を務め、昭和34年64歳で、桐生にて逝去された。
稲川は、「桐中揺籃期の名部長でしたが余りに早く他界されました。御功績に対し深甚なる敬意を表します」と、昭和41年8月の同窓会報に書いているが稲川自身、翌年萩原より3歳も若く61歳にて急逝されたのである。

 1955(昭和30)年4月8日 決勝 
2−1とリードした6回裏、今泉そして浪商坂崎の有名な対決であった。田辺の要求するよりも球一つ高目に……坂崎の打球はライトラッキーゾーンに消えた。
しかし2−3。9回裏間所の二塁打で延長戦へ。11回桐高は一死二塁のチャンスに再び走塁ミス。その裏浪商一死後 坂崎敬遠、守備の乱れで満塁となり浪商のスクイズにより終止符がうたれたのである。
 春の両大会決勝戦には、修学旅行団が急遽予定を変更してアルプススタンドで応援した。
 この後、準決勝に一回、準々決勝に3回進出するが、遂に優勝旗を持ち帰ることは出来なかった。

軟式野球昭和23年 優勝か!?
 9月 関東大会 一回戦 水戸一高・佐倉高校を2A−1辛くも破り優勝 彦部準之助・千本木義夫(清水義雄)のバッテリーであった。
全国大会は、第三回福岡国体の一種目で、香椎球場であった。ここで、一回戦 福島双葉高9−0 準決勝 不明 決勝は、京都の西京高であった。そして、優勝し桐生駅頭には全校生徒が迎えてくれたと言われている。
しかし、 決勝は雨で中止、抽選かじゃんけんで優勝を決めたのである(国体の得点に係わるからであった)。優勝旗とトロフィーは持って帰ったという。
 また、食糧難の時代で大会参加は大変で、松尾八郎先生や事務の飯星さんには大変お世話になったそうである。


軟式野球に関してはもう一つ、
 1961(昭和36)年8月22日 明治神宮球場
第八回全国定時制軟式野球大会決勝 県で優勝し全国へ初出場した桐高は鳥城、江東工、新潟市工を撃破し、決勝で八王子工。小林、新井勝正の好投、0−0のまま延長11回1点を奪われ惜敗、準優勝であった。
 大会には、岩根校長 川口・高橋教諭、父兄・同窓OBも十数名駆けつけた。
大会期間中は、腹一杯の朝食、夕食が食べられたが、明日勝つと予算が無くなってしまう、どうしようかなどという話もあった。帰りの列車では校歌を合唱し乗務員に注意されたこともあったと、主将杉山四郎は語っている。
 なお、翌年再度全国へ行ったが準決勝で敗退した。

 以下 全国大会入賞を幾つか挙げる(まだ 全ては未調査)
バドミントン
 1953(昭和28)年 金澤・和田・青柳・面川等 全国5位入賞
 1957(昭和32)年 小林・西村等       全国4位入賞
                          S西村5位入賞
 1959(昭和34)年 田中・田村        W5位入賞

山岳部 
 1971(昭和46)年 和歌山国体 高校Eコース 優勝
            群馬チームの一員大川、監督は高木恒明教諭
陸上部
 1981(昭和56)年 田川 走巾跳      全国3位
             岡部 ハンマー投    全国3位
 1984(昭和59)年 西村 3000m障害物 全国3位
      平成元年   花田 国体少年B 走巾跳 優勝
      平成14 年 秋塚 走高跳      全国2位
空手道
 1986(昭和61)年 八木 個人型      全国2位
      平成元年   小屋 個人型      全国3位
             団体型         選抜4位

もう一つの全国優勝
中村善治 毎日新聞社第二回全日本音楽コンクール東日本大会第一位
        (第三部 独唱)昭和23年10月
         毎日新聞社第二回全日本音楽コンクール
         東日本・西日本両地区大会の各部一位
         並びにラジオ放送競演による全日本大会 最優秀賞
                  昭和23年11月
 中村善治氏は、1943(昭和18)年4月 桐中入学  
           1949(昭和24)年3月 桐高第一回卒業生
                   4月 東京芸大声楽科入学
           1955           〃専攻科修了
           1957(昭和32)年7月19日 逝去 26歳
 なお、昨年から今年にかけ、「桐生タイムス」紙上で何回かとりあげられています。また何かの機会に触れます。
 笠木 実  昭和11年中 四修 東京美術学校進学
 詳細は不明だが、桐中時代、公募の「上毛美術展」に入選している。
当時、並み居る大人達が落選しているなか、15歳前後の笠木が入選し、話題となる。全国制覇ではないが、レベルの高い入選であろう。

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2010年04月29日

其の七 野球異聞@

 旧制中学校の野球は、既に明治30年代から始まったが、日露戦争後の厳しい政治的・社会的状況の中で特に群馬県では閉塞的状況にあった。もちろん、野球を初めとした対抗試合において、その応援団が過熱しトラブルも続出したことも背景にあったが、大正7年、前中に着任した桜田校長の強いイニシャティブの下に、県内に於ける中学校運動対抗競技が復活したのである。
 朝日新聞社主催の全国中等学校優勝野球大会は、1915(大正4)年、第一回大会を豊中球場にて開催されていたが、群馬県の中学校がその予選大会である関東大会に初めて出場したのは、前橋中学校

 1920(大正 9)年であり、前中一校であった。
            この後、群馬からの出場校も増える。
 1925(大正14)年 前中、関東大会で優勝、悲願の甲子園初出場
 1926(大正15)年 前中、北関東大会で優勝、甲子園連続出場
関東大会と言っても、群馬県予選が有ったわけではない。県予選が始まったのは、昭和6年からである。
 それまで、関東大会(1926年から北関東大会)連続出場の「偉業」などと記載する「校史」もあるが
それは、大きな勘違いである。部があれば出場できたのだからね。

 桐生中学は、ご存じのように、大正9年秋頃から野球が始まり、部として認められたのは、
 1922(大正11)年で、校長は斎藤重保、初代部長は英語科教諭の斎藤英三郎(一般に「福西」と言われるが、実際は桐中から転任後、奈良に移り「福西」と苗字が変わる。「福田」とする誤記もある)であった。
 1923(大正12)年、桐中は、関東大会(前中校庭)に初出場。宇都宮農業を11A−10の逆転勝利、次ぎの栃中に3−8で敗れるのである。

 野球に関しては、野球関係者、地域史・郷土史の専門家の方々が、多くの書籍を刊行しており、ここに新たな事を追加することなど畏れ多いことではあるが、少しだけ触れさせて頂くことにする。

 この関東大会初戦で、投手で3番、最終回センターオーバーの三塁打を打って逆転の立役者となったのが、「稲川東一郎であったと思われる。」稲川は、その年の3月に桐中を卒業しているのだが、当時、「卒業した者でも試合に出られるような曖昧なルールであったと言われる」(「稲川東一郎伝」野間清治顕彰会 ふるさとの風第二集 2001年刊)。
 しかし、この「稲川」は、恐らく一学年下の義弟の「稲川茂七郎」と間違えているのではないかと思う。稲川東一郎の回顧談等にも、この卒業後の関東大会出場は触れられていないし、また義弟茂七郎が投手であったことは、東一郎が述べている。

 大正9年、前中が、茨城太田中と対戦し、相手選手が胃けいれんで倒れ、前中は試合を翌日に延期した。「天下の野球ファンは、前橋中学は義侠に富む正義の学校であるという深い印象を与えた」 
 大正10年、前中は、千葉中との対戦中、前中の選手が負傷で走れず
千葉中は、負傷の選手が打ったら、代走の選手が一塁に走ることを認めた(前高103年史)。
 まだ、これが当時の「スポーツマンシップ」であるという時代であったし、
戦前の春・夏甲子園の諸規則・規約の全文を見つけることが出来ないので、断定できないが、「卒業生稲川」の出場は訂正する必要がある。

 また、応援団の過熱によるトラブルが多く、対外試合の中止の一因であった。もちろん、応援団といっても、生徒というよりそれぞれの地元の熱狂的野球ファンである。

 桐中・前中激突
 特に、県下の中心、先進校であった前中と新たに台頭してきた桐中、この
前橋と桐生との応援団の対抗意識は激しかった。
 前中の二年連続甲子園出場の後
 桐中が1927(昭和2)年 甲子園初出場
 前中が1928(昭和3)年 三度目の甲子園
                  北関東決勝  桐中3−6前中
 桐中が1930(昭和5)年 二度目の甲子園
                  北関東三回戦 桐中8−6前中
     1931(昭和6)年 桐中 甲子園連続出場 三度目となる
                  この年、初めて15校による県予選が
                  行われ、4校が北関東大会に出場し
                  桐中が優勝、甲子園に出場した。
          (〃 7)年  県予選二回戦 桐中7−9前中
          (〃 8)年  県予選二回戦 桐中12−4前中

 そして1934(昭和9)年
  県大会で、4校が決勝リーグを行うことになり、2勝同士の桐中、前中が
 激突。その5回裏、午後五時頃であったが
  「4点を先取された前中が5回…連打で同点とした際、桐中応援団動揺し
 て、試合協議の結果引き分けドロンゲームとし、両校一位とした。この際
両校応援団あわや衝突せんとする勢いで警官の出場によってやっと鎮まった」(前高103年史)。
上毛新聞では「日没のため試合終了」と発表、応援団は、「入場料を返せ!」
となじり…、午後7時頃漸く解散したと報じている。
 なお、「桐高80年史」は、全く触れていない。

 実際は何が起こったのか。
 上毛新聞その他の資料によると、前中に同点に追いつかれ、なお二死走者一塁、投手の青木が球を持っているふりをし、一塁ランナーが離塁した瞬間、捕手の塚越が一塁へ→→→。「隠し球」→だった。
 茫然とした前中ナインは6回の表の守備につかない。桐中応援団がやじる、
前中応援団が桐中側に殺到、乱闘寸前。
 これが事件の概要である。前高103年史では、ここがわかりずらい。
さらに、尾を引く。両校が北関東大会に出場するからである。しかも、桐中・前中両校が決勝戦に進出、勝てば甲子園だ。場所は敷島球場。5万人の大観衆、前橋署、桐生署の警察官が最前列に並ぶという異様な状況の中でのプレイボールであったが、試合は16A−8という一方的試合で桐中が四度目の甲子園、しかも春・夏連続出場を決めたのである。
  
  この対決は更に続き
 昭和10年夏、桐中は、甲子園連続出場となるが、その北関東大会で、またもや前中と決勝で対決したのである。
 場所は宇都宮県営球場であったが、再び警察官導入のもとで始められた。
しかし何事もなく桐中6−0で前中を下し、甲子園出場となった。
 平穏無事に実施出来たのは、桐中・前中関係者が接触し、対策を協議、例え
ば、前もって交流試合も多くし、拍手以外の野次は禁止するなどとした。前中野球部のコーチに、大正中頃から来ていたのは、東京帝国大学野球部の「内村裕之」である。内村は「内村鑑三」の子息で、裕之の叔父が前中の教諭であった関係で、時には、前中の指導に来ていたのであるが、彼は、「野球は、自分達のためにやっているので、応援団のためにやっているのではない」と、喝破している。

 桐高・前高、再び激突
 前高は、1948(昭和23)年の新制高校最初の甲子園出場の栄誉を担ったが、以降甲子園への道遠く、桐中・桐高は、1967(昭和42)年まで、数々の栄光と実績を重ねたが、遂に深紅(春は紫紺)の大優勝旗を持ち帰ることなく、苦難の道を歩んでいた。
 その、桐高と前高が激突することにより甲子園への道が開かれた。しかも
両校とも。
 1976(昭和51)年、秋季関東大会県予選決勝、桐高 3−4X 前高
              桐高の阿久沢・木暮、前高の松本も一年生なが
              ら出場
 1977(昭和52)年、秋季関東大会県予選決勝 桐高 3−0 前高
              関東大会では、前高・桐高ともに印旛高に敗れるが、
              翌年春選抜に両校とも選ばれたのである。
 1978(昭和53)年 春 選抜、桐高はベスト4、前高は松本の
              完全試合と、全国にその名を馳せた。
              桐高・前高に「栄光あれ」
              夏、桐高は、前高を破って決勝に進出した前工を
              8−6で逆転し、甲子園に春夏出場を決めた。
その後
前橋高校は、2002(平成14)年、春選抜に出場するが、
                   (夏4回 春2回)
桐生高校は、1978年夏以来、甲子園への道は険しい。

 桐生中学校 甲子園出場 春選抜 6回 7勝6敗 準優勝1回
                  夏    8回 4勝7敗 準決勝1回
 桐生高校           春選抜 6回 9勝6敗 準優勝1回
                                 準決勝1回
                  夏    6回 8勝6敗
  計 甲子園出場 26回 28勝25敗
       

posted by 100年史編集者 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球