2010年05月07日

其の十 理数科設置 大転換

男女共学による理数科設置
 平成10(1998)年4月7日、入学式挙行。
理数科2学級、男子57名、女子33名であった。桐生高等学校に女子生徒が入学したのは、昭和24(1949)年4月、定時制課程に入学した女子生徒以来のことである。
 旧制中学校の歴史を持つ(新制)高校普通科男子校で普通科以外の学科を設置したのは、桐生高等学校が最初のことである。しかも男女共学であった。
その経過については、「80年史」を見る以外、外部の者には分からない。

 理数科設置の経過
 平成8年4月9日、県教育委員会より「平成8年度スクールプラウニング(以下SPと略す)事業推進指定文書」が桐高に届いた。進路指導分野で「生徒の進路実現のための効果的取組を推進する」という課題であった。
 二ヶ月後
6月10日の職員会議、SP事業推進計画並びに組織が提案され了承、
SP委員会が設置された。
6月25日と
10月30日の会議で現状の問題点などが検討され
11月28日、第三回のSP委員会が開かれた。
その席で、委員長より「新学科の設置」提案がなされ承認された。(この「委員長」が校長なのかどうかは不明)
12月16日の職員会議 改革案決定(これは、桐生タイムス9年2月の記事)
新聞発表
平成9年2月13日、「上毛新聞」等は、桐高の理数科設置を報じた。
        13日 県外先進校への視察始まる。
      2月15日 同窓会総会で校長の趣旨説明
      2月19日 県教委指導主事来校し研究会
        21日 PTA本部役員会
        26日 同窓会役員会
        27日 群大工学部長・同窓会長、校長との懇談会
    
校内では3月25日 SP委員会で総括。
 平成9年度にはいりSP事業は継続され、理数科設置、発足に向けて本格的
な準備に入る。
 9年8月 女子用トイレ竣工

以上が経過についての主に「80年史」の要約である。
それを見ると、
 学校改革に係わることは、ほとんど「新聞発表」で知らされるということが慣例でり、今回もそうであった。また、学校側の主体的な研究、協議により改革案を作成したのであり、県の関与は不明である。
 しかし、新聞はどう捉えているか、上毛と桐生タイムスの記事を参考に触れると、
 上毛は、大見出し「桐生高 来春から共学」 高校改革第1弾
 タイムス 大見出し「桐高、来春から男女共学」理数系学科新設で
共に「共学」化をトップとして捉えているのである。そしてこの改革は
平成7年3月の 県後期中等教育審議委員会の最終答申
平成8年3月の 県教育総合計画にて「共学化」が打ち出され
県教委にとっては既定路線であり、伝統校の共学化が総論から各論段階に移り今後の試金石となりそうだと述べている。
しかも9年度予算案に施設設備費を計上してあると触れている。
 これら新聞の記事をみると、「理数科設置」よりも「共学化」を大改革として捉えているのである。しかし、80年史の経過記述の中では「共学化」についてはほとんど触れていない。
13日またそれ以降の新聞でも
 「学校の活性化、地域の熱い期待……理数学科の新設を決めた」
 「このままでは、伝統校としての名が泣く という強い思いを持った」
 「…定評ある国公立・私立大学に入学出来る生徒をたくさん育てたい。…
  マスコミでは男女共学が大きく取り上げているが、真意は新学科の方」
 という学校関係者の声を載せている。
なぜ女子の入学なのかということは触れられていない。
 県教委の発言では、要するに地域バランスを考え理数科を設置し、改革案では共学化の推進もとり上げられており、女子の受け入れをすることにしたと。或いは、女子の希望にも応える意味で男女募集としたと。

何れにしろ、平成10年4月、一学年7クラスの内、2クラスが理数科となり男女募集となったわけである。
 現在、平成22年5月となる。この間、新聞で男女共学の「試金石」といわれた改革が、伝統校即ち旧制中学の歴史を持つ伝統校に第2弾、第3弾として
波及したかと言えば、未だ?
まあ、それはそれで良いかもしれない、他校のことだから。
問題は改革の是非、改革の手続き或いは手法の是非は別として、とりあえず新生桐高は、改革の結果その目指した成果を着実に挙げているのであろうか。
平成8年度のSPの実施報告書にあげている
 「科学的な能力を身につけさせ…進路希望の実現」
 「物作りの伝統を持つ(地域の)信頼回復」
 「本県を代表する高校として再生する強力なインパクトになりうること」
 「我が国を代表する理工系・医歯薬系の教育内容を備えた大学への進学」
 「(理数科が)本校全体の志気高揚の牽引的な役割を担うこと」
そして、新聞記事による
 「このままでは、伝統校の名が泣く」こと
 「今よりもっと多くの成績優秀な中学生が桐生市外へ流れてしまう」という
関係者の発言等々に基づき、既に10年以上を経過し、また10回目の卒業生を送り出して来た現在、改革の具体的な目標にてらし、改革がどこまで来ているのか、一定の総括が求められているのかも知れない。
 県教委や学校が、何らかの中間報告を分かりやすく公表してくれれば、我々の理解も深まりのだが。
ただ、多くの学校改革について、そうした総括は、未だ出された記憶はあまりない。
 また「外史」でも、この10年間を纏めてみたいが、外部の者では、大した分析は出来ない。
それにしても、うっかりすると、総括などもないまま、次の「改革」の「試金石」のターゲットとなってしまうのかも知れない。世の中何が起きるか分からない。
西の方の理数科設置校中央高校に対応して「地域のバランスを考えて」東の
桐高に理数科を設置したわけだが、その中央高校が閉校し、今や中高一貫校6年制の中央中等教育学校に大変身し、今年第一回の卒業生を出した。その進学実績は、週刊誌で見ることが出来る。
桐中・桐高100年史(誌)作成とか言っていないで、100年目の桐高ついて考えなければならないのかも知れない。いや、もう遅いかも知れない。
「外史」なんて「のうてんき」なことは、「年寄りの冷や水」! 10回を以て早々と打ち止めにするか?!

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2010年04月30日

其の九 開校とお金

3万円!
 町立桐生中学校開校のための必要条件の一つであった!
1917(大正)6年頃の3万円は、現在ではどの程度なのか?
1万倍の3億円、5,000倍の1億5,000万円、或いは一億円前後か?
米の生産者米価=一俵=約60s=6円
桐中教員の月俸(予算上、20歳台)=50円
師範学校での尋常小学校教員(19歳)の初任給=17〜18円
桐中生徒の受験料は1円、授業料は月額2円50銭(県立は1円70銭)
初年度桐中の学校歳出予算は、5,899円(内、校長・教員4人分の人件費は3,560円。「町立」であるため人件費は県でなく「町」で支出)
 (*大正8〜9年物価高騰し 貨幣価値も大きく変わる。)

 学校を開校するためには、様々な条件をクリアーしなければ、文部省の認可は下りなかった。その中心が、学校の財政基盤すなわち「基本財産」保有することであった。幸い敷地と校舎はあったが、最終的に決着した3万円という資金調達には目途が立たなかったが、森宗作(二代目、昭和7年没)が、所有する桐生撚糸(株)と両毛整織(株)の株式600株、額面3万円を提供し、その配当金を学校運営費に充てることで解決し開校にこぎつける。と同時に、寄付金の募集にとりかかり、翌大正七年にかけて、総数1,074人の町民から総額35,525円寄付金を調達したわけである。
 当時桐生町の戸数は5,901戸で、その約18.2%で、中学校創設が地域の支持を得、また町民が熱い期待を寄せ協力したことがうかがえる。
(町民には、境野・広沢・梅田……等の村は入らない)

 しかし、これらの寄付金はどのようにして集められたのか? 寄付者名簿を分析すると、桐生町の戸主(世帯主)からの寄付金であり町内ごとに纏められていること、寄付金の額が、1円、10円と区切りのついた金額でないこと等により、この寄付金は、実は「町村税に更に財産所得に応じて課せられた戸数割課税」に基づき、戸主の寄付金額が決められたと考えられる。
 森 宗作   5,000円を筆頭に
 書上文左衛門 1,204円以下、57人の有力人士が
          寄付金総額の48.2%を寄付し牽引した。
30円以下746人といっても、町域では中流階層の町民であったと言って良いであろう。逆に約80%の家(戸)からは、寄付金募集・徴収は行われなかったのである。
 当時(大正5年)群馬県地域別壮丁教育程度によると、中学校教育を受けた者は、前橋市12.20%、高崎市6.86%などで、2市11郡のなかで山田郡は10番目の2.98%であり、中学校設立は、有力人士、中流階層の町民にとって緊急、重要な課題であると意識されていたのであろう。

また学校創設のための資金集め等は、桐中創設の場合だけではない。









1873(明治6)桐生学校=現在の北小学校の場合
寄付金8,211円(その一割が毎年学校経費となる仕組)
佐羽吉右衛門 400円 書上文八郎300円などで(佐羽は年40円、書上は年30円拠出する)
書上は敷地745坪も寄付した。
その他の小学校の設立もほぼ同様である。
1896(明治29)桐生織物学校
桐生町商工業組合が、7,000円寄付
1908(明治41)山田郡立桐生高等女学校
総額、18,255円の寄付金
1916(大正 5)官立桐生染織学校(→群大工学部)
地元桐生は、約80,000円、
更に、敷地1万5千坪を用意
織物協同組合が寮建設費 60,000円調達

 この官立学校設立の資金調達の直後に桐中であるから大変であったが、当時の町の勢いはたいしたものであった。この群大創設は、桐生町(市)にとって、歴史的には桐中の創立よりも、遙かに重要な意味を持っていると個人的には考える。「中学校」は、所詮何年か後に創設される時代であり、「大学」は、チャンスを失えば、桐生に誘致することは出来なかったであろう。

 参考文献追加
   「大正初期の地方高学歴層と地域社会」 坂根治美
   東北大学教育学部研究年報第41集
   桐生市議会史 記述編―市制施行以前の桐生」
   後藤亘宏(桐中23年卒、昭42〜59年 母校の教諭)

ついでに、他校について触れておこう。
渋川中学校 1920(大正 9)年2月 3日 認可
   敷地8,000坪を購入し、県へ寄付
   寄付金は、56,052円50銭也
   9年〜13年度 年度割りで、町村割当てや町村民から徴集。
   住民の同意の問題や不景気にて、昭和5年までかかったと
   言われる。
館林中学校 1921(大正10)年2月18日 認可
   館中同友会の負担は、5万円
  (敷地は、郡有地1万坪を県に寄付)
県立として開校した他校に於いても大変な負担を背負い、住民の負担、協力がなければ実現出来なかったのである。

さて、森宗作氏の提供した株券は、どうなったのか? 
「80年史」によると、やや分かりにくいが、「寄付金」が、森氏の提供した「学校基本財産」と「差し替えられ」て、県に寄付されたとある。即ち、3万円の基本財産が出来たので、大正7年の時点で「株券」は、森氏に返還されたと解釈してよいのかも知れない。
 しかし、大正10年3月、「町」から「市」へ移行する時点での「市制施行誌」によれば、市制移行直前の大正10年2月末の「桐生中学校基本財産調」では、
「金員」950円、「株券」額面45,000円、価格31,200円
「教育事業」の項には、基本金22,000円、
「学校に関する調」では、現金950円 株式4,500円とある(この4,500円は、45,000円の誤植だろう)。
 結局、「株券」は、それまで保有されていて、県立移管に伴い森氏に返還されたと考えられ、なにせ学校の現金が「950円」しかないのだから桐生市は、所定の教育予算からの支出も出来ず、一般歳出の臨時部から31,048円を県に寄付したのである(この点は、「桐生教育史」の説明とは違いますが)。
「町立」から「県立」になるのもタダではなかったのである。
 
県立中学校(旧制中学校)になっても、建築費の半分は地元負担!
 1939(昭和14)年7月、桐中は現美原町の新校舎に移転する。
 この時の諸費用については、詳細は分からないが、
敷地約1万坪、内、約6,000坪は「森宗作」(三代目。晋一郎改名)の土地で、6,000円で市が購入(ただ同然と言われる)、県へ寄付。
4,000坪は、河川敷で国有地(現在でも校門から校舎全体にわたる)。
建築費は16万円でその半額は地元負担。市、市域の町村の負担と、同窓生、縁故者、篤志家の寄付に寄った。同窓生と言っても35、6歳以下の「若者揃」であったが「愛校の魂を以て熱と力」で奔走したという。当時、同窓生は1300人余りである。募金16,000円余りの内、同窓会員の寄付金は、5,665円とされている。
(高中も、昭和13年末に移転するが、敷地1万坪を寄付し、建築費16万円の半額地元負担で、3万5,000円の募金活動をしている)

 それにしても、我が母校の敷地の一部は、河川敷で「国有地」である。
昭和14年、国有地に校舎が建立されたのだが、河川敷で有り、洪水などということは、予想しなかったのであろうか?
 しかるに、昭和22年9月、キャサリン(最近は、カスリンと表記するらしい)台風により甚大な被害を被ることになる。


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2010年04月22日

其の四 机・椅子、ピアノ

 「新校舎へ移転するといっても各自が自分の机を自分の手足で運んだ。…
 机はがっちりした木製で、おまけに椅子が二本の木で机の下と椅子の下に渡されガッチリつながっている…椅子付き一体型」なのであった。「これを運ぶのは大変なこと。…五メートル位歩いては止まる。また五メートル歩いては止まるの、繰り返し…まさに列をなしたアリの引っ越しのようであった」(昭和17年卒設楽実の回想=「桐高80年史」より)。
 こうして小曽根町の校門から西小西側を下り、末広町交差点から踏み切り、新川橋を渡り新川運動場を右折、新たな美原町の東門=通用門=現テニスコートの脇を通り、新校舎に辿りついたという半日がかりの机・椅子の大移動であったという。14年度末の統計で生徒数549人であった。
 さて、このがっしりした重たい椅子付き一体型の机は、いつから使用したのであろうか?
 桐中開校の時には、桐女(正式名称を略す)の使用していた机・椅子は無かったのであろうか。古老の回想記には、桐女の生徒が仲町の校舎に移転するときに机・椅子を運んでいるのを見たという証言もあるのだが、分からない。桐中開校のための認可にかかわる予算書の中には、2年目の大正7年には、50脚250円の予算を組んでいる。とすると、開校前に、二クラス分の机・椅子は用意し、翌年一年生50人分を予定していたのであろうか。いずれにしろ、この一体型は、桐中開校時に作られ使用され始めたと考えて良いのかもしれない。
 小曽根町校舎は、すでに築後30年も経過したオンボロ校舎であったが、
机・椅子だけはピカピカであったことになる。しかし、この一体型というのは
誰の発想か? また他校にも有ったのであろうか? 学校教育上の教材・教具の図録のような本で、この一体型机・椅子を見たような記憶も有るのだが、定かではない。

 1917(大正6) 年  2クラス
  順次 生徒数は増加し
 1922(大正11)年 10クラス〜 1938(昭和13)年まで
 1939(昭和14)年から毎年1クラス増で昭和20年には1000人を越えるのである。

この間、普通教室の机・椅子がすべて「一体型」で作られていたのであろうか?
 戦後、そして桐高時代に入り、大体900人前後となり、新たに机はつくられなかったのか? すなわち
この「一体型」で、美原町校舎でも、昭和14年7月末から39年3月1日の焼失まで、桐中・桐高生は「学びの道にいそしんで」きたのであろうか。

 そして、39年3月2日未明、
「燃え上がる火事に美しいという表現が許されるならば、延面積三、八七一平方米の木造二階建ての炎上は、ナイアガラの滝のように火の粉を降りそそぎ暗闇に火の芸術を演出した」(桐生市消防史)。
 懐かしき一体型机・椅子は、4クラス分を残し消滅したのであろう。
しかし、授業の再開は、まったなし、椅子は体育館の椅子を使用できるとしても、机が当面8クラス分不足。一ヶ月後には新入生がくる。昭和小に5クラス
借りても、全部で10クラス分不足。
 一般的な新たな机、椅子の購入されたのであるが、39年4月6日の始業式には間に合わず遅れたらしい。翌40年3月末には、鉄筋コンクリート二階建ての新校舎に大部分は入るのであるが、焼失を免れた4教室は、校舎新築の過程で取り壊されたのであるが、あの一体型机・椅子は、どうなったのであろうか。覚えている同窓生の証言を得たい。

オルガン、ピアノについて

 開校以来、恐らくオルガンは有ったのではなかろうか。
教育課程には、「唱歌」が有ったが、当初は唱歌の一時間を体操(教練)に振り替えており、「唱歌」(昭和6年度からは「音楽」)を授業として始めたのはいつであるかは確認出来ない。
 オルガンは、校歌が作られ、桐女から伴ひで先生が来られ練習したとき、「石井先生(当時?桐中の石井定雄先生と結婚)の快いオルガンの音に誘われやっと覚えた」(大正13年卒 野中義夫)とあるから、オルガンは有った。
 昭和13年頃からの倉林日記や田村日記抄には、館内光、小山聡作などの師範卒業で小学校教員経験者が、音楽を担当している。また教練の荒川一少尉も音楽を担当している様子であるが、オルガンに合わせて歌うような記載はあまり出でこないが、校歌を一人ずつ歌ったり、「荒城の月」や「赤穂浪士」、軍歌などを歌ったという。時には、蓄音器によるレコード鑑賞も有ったが、音楽の授業の半分くらいは教練などに振り替えられる時が多かったらしい。

 ピアノについての記載は全くない。美原町校舎への引っ越しの記録にも、音楽室なり講堂から「ピアノ搬出」の記載はない。
 昭和17年4月、桐中に初めて音楽の専門家が着任した。小笠原良一で、一年前に国立音楽学校を卒業、ニックネーム「オペラ」。オペラの専門家であった。この時期に「ピアノ」が登場したであろうか? 昭和21〜24年卒の同窓生の記憶はいかに。
 それとも「ピアノ」は、戦後か、或いは23年新制高校になってからか。恐らく、戦後であることは間違いなさそうである。
 ちなみに、桐女にピアノが入ったのは、1928(昭和3)年である。ただ、「ピアノは開校当初のものが摩滅、破損し、音程も狂っていたため、以前から新調の要望があったといわれる」(桐生教育史)。とすると桐女には明治41年以来有り、その後仲町校舎への移転時に搬送されたと思える。

 桐女、桐生高等女学校のことは別として、ついでに音楽の先生について触れておこう。
 前述のように、小笠原良一先生の詳細はわからないが、昭和21年3月までおられた。校歌を軍国調に歌いあげてくれたこと、授業では、黒板に楽譜を書き、それを帳面に写させてその帳面を提出させ「成績」をつけたらしいという同窓生の話がある。戦後北海道に戻り、また音楽関係の本の出版もしている。
小笠原の後に着任したのが、「森 乙」である。

森 乙 1946(昭和21.4)年〜22年3月。

 いままで会った事のない風格を備えた先生だったと言う。「乙」も「おつ」なのか「きのと」なのか、未だ判然としない名前であった。
実は「おっと」と呼ばれたのである。正確に言えば「オットー」かも知れない。
 簡略に言えば、ご存じ歌手「ペギー葉山」の夫、俳優の「根上 淳(森不二雄)」の「父親」であった。その森乙は、1888(明治21)年にドイツ(オーストリー、ポーランドとも言われるが、ドイツ帝國下であることは事実)から明治政府に招聘され来日したハプスブルグ家最後の宮廷音楽家でオルガニストであったデートリッヒと、森菊という女性の間に生まれた子であり、東京音楽学校卒のヴァイオリニストであった。だから「オットー」というのが正しいのかも知れない。
 その森乙が、桐中に着任したのである。なぜ教師としてこの桐生に来たのかは、全く不明である。住まいは、太田町の図書館の近辺に住まわれていたとのことで、森先生宅に訪問した生徒もいた。しかし、現在詳細は分からない。よくレコード鑑賞をさせてくれたという同窓生の話もある。

 森乙は、1年で東京に戻ったらしく、そのあと22年4月〜24年2月までは村田数馬である。
 村田は、桐生で音楽教室を開いており、おそらく25年前後から、初代「コロンビア・ローズ」となる斎藤まつ枝を教えたことで知られている。
 なぜ、歴代の音楽の先生について触れたかというと、
1947(昭和22)年 全日本学生音楽コンクールで第二位となり
翌23年 第一位の栄冠に輝いた「中村善治」が、桐中昭和18年入学で
24年、桐高卒業の同窓生であるからだ。
 このことは、昨年、桐生タイムスの青木記者がタイムスの紙上で取り上げられ、中村善治氏と音楽家の畑中良輔、中田喜直氏らと繋がりを書かれ、話題となった。
 そのようなことでもあったが、それでは、生徒 中村善治君と、当時の音楽教師??とは、全く関係無かったのかどうか、それが気になり、小笠原、森、村田の諸先生方について調べたわけである。しかし、詳細は分からなかった。
故 中村善治氏のCDは、現学校図書館に寄贈されている。

 昭和24年3月〜48年3月まで 飯島定男
先生は前中卒、武蔵野音楽専門学校出身である。校舎の東北にある音楽室で、レコード鑑賞をした覚えがある。28年卒の同窓生が、「足首を捻挫したとき、桐生駅から学校まで、何度も背負ってくれた」と書いている(二八会「山紫の歴程」)、いい話であった。35年には「ブラスバンド」結成した。

 昭和48年4月〜59年3月 常葉 純
先生は、桐高33年卒、同窓生の音楽の教師としては、初めて母校の教壇にたった。
「純ちゃん」については、外史にまた登場予定なので、ここでやめておくが、
甲子園では、今でもピンクレディーの「サウスポー」が応援曲の定番の一つであるが、最初に演奏されたのは、昭和53年春の甲子園、桐高対岐阜高戦の時、三塁側アルプススタンドの桐高ブラスバンドによるものであり、25日に発売されたその曲の楽譜を京都の町で見つけ急遽編曲、4月1日の岐阜戦で初演奏したのである。
それが「純ちゃん」であった。

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2010年04月18日

其の三 ライフライン

飯と水
 1917(大正6)年4月、開校した桐中の教職員、生徒の「飲み水」が
気になった。
 「80年史」にある当時の略図を見ると、前の校舎と後ろの校舎の間の「小使室」の横に「井戸」がある。全体の図がないので、桐女時代の略図をみると、南の道から校門を入った直ぐ横にも一つ「井戸」があった。
 昼飯時には、当番の生徒が「湯茶」を小使室に取りに行ったらしい。昼飯は
ひき割り飯のお握りか弁当、おかず?梅干しだけが普通で、いわゆる「日の丸弁当」である。卵焼きや鮭の切り身など持ってくる生徒は少なかったという。
弁当箱はアルマイト製で梅干しの酸で暫くすると穴が開いてしまった。
 1943(昭和18)年夏、5年生全員が千葉県の鋸南町で、海軍の「海洋訓練」を受けるが、朝食は、ヒジキの煮付けとナスの塩漬け2片 ナスのみのみそ汁。昼飯は唐茄子の煮物とナスの塩漬けであった(19年卒田村輝夫日記抄)。
 1944(昭和19)年、工場動員
食事は日を追うごとに悪化し、金属の食器に乾燥イモ或いは大豆に米がついている盛り切りのもので…少しでも多めに盛りつけてある食器の前につこうとした(80年史)。
 戦後も酷かった。
皆がいも等の代用食や赤いコーリャン飯でヒモジイ思い! だから「銀シャリ」と言って白米の弁当を持ってくる者がいれば、きっと誰かが盗んで食った。空っぽにした弁当箱はグシャグシャにして踏みつぶして裏の河原にほうり投げてあった(高校人脈)。

 さて、水道が入ったのはいつか?
桐生市は、市制施行=1921(大正10)年後、上水道創設に着手し、関東大震災の影響や水源地問題で遅れ、工事に着手したのは1930(昭和5)年。
 1932(昭和7)年4月、遂に通水式にいたった。だから、桐中に水道が通ったのは、昭和7年4月17日以降である。開校以来15年間は、井戸水であった。伝染病では腸チフスやパラチフスが主流であったが、乏しい資料の範囲ではあるが、桐中校内における伝染病などの事例報告はない。
(なお、現桐高の北にあるメディカルセンターは、大正7年、末広町から移転してきた町立伝染病院を引き継いだものである。また大正5年には、桐女の寄宿舎でパラチブスが発生し犠牲者をだしているが、そのような時代であった。また、旧制中学・女学校には、「寄宿舎」があった学校も有ったが、桐中にはなかった)。
 いま、学校によっては、授業中の生徒の机の上に、飲料水等のペットボトルが乱立している時代となった。

電気
 校舎内の電灯の設置についての資料はない。
桐生町では、明治20年代から工場などで水力発電による電灯の点灯が始まったが、本格化したのは大正に入り発電会社の合併が進行し、「行灯」から「ランプ」に移り、「ランプ」と「電灯」との併用から「電灯」に移ってきたのだが、学校の生徒の普通教室に「電灯」が設置され使用されるようになったのは、いつ頃であるか確認できない。もちろん職員室関係には電灯は入っていた。
 開校時の生徒は「暗い感じでまるで病院にいるようだ」と語っている。また
教職員の服務規則、生徒の心得などに、「電気」「電灯」についての項目は特にない。
 戦後に移り、新制高校定時制課程が発足し、夜間の照明として電灯が一部の教室などについたが、昭和23年11月1日の一年生の入学式、それは「停電の中での入学式」、そして「薄暗い電灯の下」「暗い教室」「18番教室の裸電球は、確か8個だったと思う」「暗くて当たりまえであって、暗い教室の照明に甘んじていた。誰一人として疑問を差しはさむ者とてなかった」と、生徒は回想している。
蛍光灯に変わるのは、昭和30年代初めらしい。
校庭の屋外照明の設置は、「定時制教育」のために、昭和47年に設置された。

暖房
 各教室を含め暖房が設置されたのは、昭和48年1月のことである。都市ガスによる暖房であった。
大正6年以来、生徒の普通教室には、暖房設備はなかった。もちろん冷房も。
 「職員室の一隅に大型四角の木製火鉢があり、井戸端会議ならぬ火鉢会議ないし炉辺談話の場であった。のち火鉢はストーブにかわった。」(昭和7年3月〜
 13年8月、竹中淳三先生回想記)。これは小曽根町校舎時代。
 昭和21年2月に着任した中曽根敏夫は、竹内校長(カラス天狗)の面接を
受けに来たとき、校長室に入ると「股火鉢をした校長がギョロリと睨んだ」と書いている。これは美原町校舎時代である。
 その後、事務室、校長室に各一個、職員室に二個の石炭(コークス)ストーブがあったらしい。
 定時制では、気温が零度を下回った場合、主事の判断で授業を打ち切った時期がある。また40年新校舎になったあと、暫く石油ストーブを使用した時期もある。
 1963(昭和43)年 新校舎の教職員関係の部屋には、大型の
              石油ストーブが設置された。
 1975(昭和48)年 全教室にガス暖房設置
以降
 1982(昭和57)年 図書館に冷房装置設置(同窓会の寄付)
 1994(平成 6)年 管理室、進路指導室、パソコン室に冷暖房設置
 2007(平成19)年 教室に冷暖房設置

トイレ
 大正6年創立期は、4年前まで使用していた桐女の校舎を受け継いだわけで
「WC」は四箇所にあった。「前身が桐生高女であるため、便所が女用で困った」と卒業生は回想している。恐らくその後改築しているであろうが大正13年に自転車置場を設置し便所を移転、15年に運動場側に便所増設とある。トイレの掃除については、当初の生徒心得などに記載はないが?
 美原町校舎に移り、新制高校、そして学校炎上まで、便所についての記載はない。学校炎上の時、講堂の脇にあった便所は、焼失したのか、残ったのか、分からない。当時の上毛と桐生タイムスの略図では、判断できないでいる。3月27日の会議で、便所にタバコの吸い殻があるとの報告がある事をみるとあの西側の便所は焼け残ったのかも知れない。
 4月17日、便所 大2・小? 旧音楽室(教室として使用中)の付近に出来るだけ早く作らせたいと。水道も設置へとの要望もでる。
 昭和39年度は、昭和22年9月のキャサリン台風以来の苦難な生活に耐える一年であった。
 2002(平成14)年、身障者用のエレベーターの設置に伴い、身障者用のトイレが四箇所設置された。その他トイレの様式は、ほとんど以前のままである。
 
―――トイレにまつわる少し「臭い」話。―――
一、昭和14、美原町校舎に移転し校庭の整地が日々行われたが、一部は「農園」(報国農場)になった。
「平地となった所に下肥の運搬である。慣れないから天秤棒の中程に揺れる桶から濃い液体が飛びださないよう、二人の呼吸を合わせるのに苦労した。
その農園も今はテニスコートに変わり、桶を担いで通った通用門も無くなってしまった」と。詳細については、宮前定四郎先生にお聞きください。
今は、天国で、ひょこひょこと農園作りに励んでおられるでしょうが。

二、昭和40年代末から50年代の「山紫祭」や「水明杯争奪大運動会」には、市域から多数の観客が訪れた。文化祭では、恐らく7〜8000人もいった年があるが、係りの職員を悩ませたのは、女子用トイレであり、長い行列とそして故障であった。故障の度に吸い出し道具を持って行ったものである。そんなことが有った事を知らない教職員もいるかもしれないがね。





参考文献 追加 定時制閉校記念誌「あかね」
「うろ覚え大正・昭和」前原勝樹
桐生市水道史



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2010年04月15日

其の二 入学式

 第一回 入学式は、1917(大正6)年4月11日(木)前橋地方 晴「午前十時講堂ニ於テ入学式ヲ挙行ス、来賓父兄数十名列席セラレ仝十一時終了ス」(当時の教務日誌)。
「高校人脈」(1978年1月刊)には、「簡素な式典」で「町の名士にまじって町民がどっと押し寄せ、物珍しそうに会場をのぞきこんでいた」と。多分同窓生の話であろう。
「桐高80年史」(2000年刊)には、「紅白の幕を張り巡らしただけの簡素な式場」「県知事を始めとして県や町の名士が多数出席して盛大に挙行」とある。これも同窓生の話であろうか? 同窓生とすれば、95歳前後の方である。
 上毛新聞は4月13日付で「渡辺校長以下職員前原町長澤田助役町議区長其他各委員列席の上渡辺校長より一場の訓辞ありて式を終れり」と報道しているのみである(なお、渡辺は渡部の間違いであるが、現在に至るまで、渡辺と記載されることがある)。新聞では、県知事も県の名士の参列について触れていない。
 入学生は、
一年生(現在の中学一年生に該当)50人(受検者は107人)
二年生               16人(  〃  17人)
二年生には、次々と転校生があり、後に29名となる。
            (県学事統計では、入学生、一年49 二年17)

 入学式と言えば「桜」である。現在、統廃合で無くなった市立西中学校の所が、町立桐生中学誕生の地である。その当時の校舎は、1887(明治20)年山田第一高等小学校として建築され、後に郡立桐生高等女学校が使用した校舎である。校庭も現在の1/2強位であったであろう。
 その校庭や裏山には「桜」は無かったのか? 写真などでも定かではないし、校庭の桜についての作文や詩歌も見あたらない。
 美和神社から北小にかけては、明治の末桜が植樹され、現在の西幼稚園から桐中にかけて=現在で言えば「山の手通り」の土手に桜が植えられたのは、いつ頃からであろうか。
 大正15年卒業の吉田忠作は「…四月になると校門から桐生駅までの桜並木に、その花吹雪の下を全校生徒が列をなし…」と昭和27年に記している。
 大正3年生まれの奥村初雄さん(同窓生ではない)が、「爺の語る昔の桐生」の中で、「桐生駅から光明寺までは桜の並木でした。幹にこぶがあるのは私と同い歳ですよ」「山手線は今のように広くありません。荷車一台通れるぐらいでしたよ。西桐生駅のすぐ前に東電があってそして桐生駅へ出たわけです。カニ川に沿っても桜が植わっていました。」山手通りも「一部片側もありましたが、大体道の両側に並んでました。…桜並木も道路の拡幅とともに次第に姿を消しました」と語る。
 昭和14年卒の吉田宰治は「桜の木が沢山、校庭や一段高い管理校舎の付近にあった」と回想し、入学試験の時「講堂で館内先生が掲示した大きな模造紙に、桜という字が書写してあった。あれが作文の題だった」と。

 両毛線桐生駅が開設されたのは、1889(明治22年)、それに伴い、駅から現西幼稚園までの道が市道として整備され始めた。
 上毛電鉄が開通したのは1928(昭和3)年、西幼稚園から桐生駅前十字路まで、柳が40本植えられたのは、上電が開通した後のこと(西桐生駅前には以前から大きな柳が有ったという話もある)で、幼稚園から駅にかけての柳は、昭和14年頃には18本であった。
 ですから、大正末期から昭和の初め頃には、桐中の南の土堤沿いには、桜が開花しており、現在でも何本かの桜の古木が花を咲く咲かせています。
 なお、西幼稚園から先の横山町から天神町への「山の手線」道路が拡幅されたのは、昭和13年からで、約900b、19年には「決裁非常措置要綱」にて工事契約が解除され、横山町から西久方町2丁目まで1,031bは、昭和25〜27年に完成、舗装は33〜35年であった。

 美原町に移転
1939(昭和14)年7月 美原町の現在地に移転する。
 篠笹に覆われた雑木林、桐・アカシアなど繁茂しそして掘れば石ころだらけの河川敷と、桑畑等であった。日々毎日、校庭の整地に明け暮れる中、周囲の土堤、その内側に、職員、生徒、一部は業者の手により植樹が行われたのである。日光ヒバ2400本をはじめプラタナス、銀杏,まさき、伊吹、つつじ等々。そして桜は、吉野桜53本、八重桜4本と記録されている。50歳後半以上の同窓生は、多分グランドの南側や庭球コートとグランドの境の土堤に、桜が咲き誇っていた事を思い出すであろう。
 1974(昭和49)年、桐生大橋架橋により、道路拡張がされ、桐高グランド南側校地が9b巾で歩道・道路となってしまい、南の土堤もその内側の桜も無くなってしまったのである。
 しかし、2010(平成22)年3月30日現在、古木となった10本の桜が、四箇所に今なおその花を咲かそうとしている。

入学式はいつ?
 入学式の日にちの確定は、非常に難しい(もちろん、昭和39年の学校炎上がなければ、資料が残っていたのだが)。
 「桐高90年史」は、入学式の月日を記載しているが、疑問の点も多い。
大正時代は別として、昭和に入り
 昭和19(1944)年 4月8日入学→ 多くは、昭和25年3卒
                     一部は、24年桐中卒
 昭和20(1945)年 4月6日入学→ 多くは、昭和26年3月卒
 昭和25(1950)年 4月6日入学→ 昭和28年3月卒
 昭和32(1957)年 4月5日入学→ 昭和35年3月卒
 昭和38(1963)年 4月9日入学→ 昭和41年3月卒
 すべて、当時の書類、新聞、個人の日記等で確認が出来ないでいる。
 19・20年は、他校の日と相違がある。
 20年4月の入学式は、日付はもちろんだが、戦前最後の、しかも空襲相継ぐ中での入学式がどのように行われたのか、入学生はどんな恰好して来たのか、知りたい。

 昭和25年は、県下一斉で10日ではないかと推測している。
 昭和32年は、6日が土曜日で、その場合6日の午後か、8日の月曜日に実施している場合が多い。前日5日の金曜日は考えにくい。
 昭和38年は、4月6日と確定した。文献資料で確認。

  そして、昭和39年度は入学式の場所が問題として残っている。 
 3月2日の学校炎上 入学試験は、桐生商業高校で実施
その事は、多くの入学生が記憶しているのだが、4月6日に どこで
入学式を実施したのかという記憶は 殆どない。
 「桐高90年史」と「桐生教育史」は、4月6日 桐生商業高校で実施。
 「桐高新聞」 昭和54年5月17日付第93号は、4月3日 桐商を借りて無事入学式と書いてある。これは間違い。
 
 卒業式は、卒業証書があれば、日付の確定は出来るが、入学は証明書を発行するわけではないから、証拠資料を確定するのは、非常に難しい。また、卒業と違い日にちも記憶に残りにくい。
 しかし、もし桐商での入学式となれば、桐商の入学式と日をずらさなければならない。但し、桐商の「校史」には、39年度の入学式の記載はない。
桐高の体育館で実施されたから、同窓生の記憶に残らなかったと推量しても必ずしも間違いでないであろう。

 もう一つ入学式が記憶に残らないのは、昭和30年前後からであろうか入学式の翌々日かに、「実力テスト」があり、即、上位の順位が表・裏校舎をつなぐ中廊下に張りだされ、その成績を基に、一学年3クラス毎に「英語」「数学」の授業クラスは、A、B、Cクラスに分けられ授業が行われ、当時二期制で10月になると、A、B、Cクラスのクラス替えが行われたのである。
 入学すれば、何番で合格しようが関係ないと思っていたら、毎日2時間位は優等生と劣等生と分けられてしまうのだから、参った!参った。
 しかも、入学した半年間で、何となく交友関係が決まってしまい、下のクラスから上のクラスに「昇進」しても、誰だ あいつは!てな具合であった。
 この「実力テスト」の事を記憶している同窓生は誠に多いが、入学式の事など、ほとんど覚えていない。

 最後に、入学式にまつわるエピソードを一つ触れよう。まさか怒られることもあるまい。
 1983(昭和58)年、4月入学式、
 校長式辞になり、教頭中曽根敏夫が壇上のマイクの前に立った。
 大間々高校から着任予定の校長大橋一隆が転任挨拶回りの途中、倒れ入院する騒ぎで、新任教頭が校長代理を務めることになった為であった。
そして
冒頭「…卒業おめでとう…」と宣ったのである! おまけに最後のほうでも再び「卒業おめでとう!」と。
 厳粛の式典であり失笑もなく、むしろ皆茫然として聞いてしまったのであろう。
 昭和21年2月赴任以来、桐中・桐高一筋37年目の「なーさん」(他に有名なニックネームがあるが、ここでは省略)、その健筆とどまることなく、弁舌類い希なる「なーさん」が、退職間際のこの晴れ舞台で「やってくれた」のであった。この年入学した生徒は、20数年たってしまったが、記憶にあるだろうか。
 その中曽根先生も今は亡い。

それで思い出したのだが、昭和49年4月、第一次オイルショックをうけ全国的に労働運動は高揚。教職員組合も全日(24時間)ストライキを組んだ。
4月11日、朝8時に、桐生支部の高等学校教職員組合員は桐生オリオン座に結集、桐生支部長中曽根敏夫は、
「…朝、立たずしていつ立つか!…」
「なーさん」50歳の時であった。名演説だったなあ〜。

 参考文献 追加
   桐生市史 中巻・下巻
   桐生教育史 下巻
   桐中「校友会誌」「桐中校報」
   服部修「桐生百景」
   昭和14年度〜「桐生市事務報告書及財産表」
   桐生市制施行15周年記念誌

posted by 100年史編集者 at 13:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 学校・校舎