2010年12月23日

其の四十九 先生の異動

 1922(大正11)年12月6日付で、藤倉喜代丸(五年生)が「校友会雑誌創刊号」で、勉強・旧友・自分の事など5年間を振り返る中で、
「…一般的には師の幾度もの更迭に遇いそれは生徒には全く不幸なものであった。学校に問題は起きる 対抗的の武道とか−随分煩雑生活になってきたのである。師の更迭は生徒に不幸です。先生が生徒を愛さないのではなく生徒が忠実でない事からであろう。……懐かしき情熱は、去りたまいし師を想い返し過ぎし日の追憶に耽るのである。…」と、書いている。
 背景には、具体的な出来事が有るようであるが、推測出来るような事実は見つからない。藤倉が5年生になった四月に教練教師が転出しただけである。
 ただ、桐中創設期の数年間、着任されながら、短い期間で離任されて行った先生が非常に多かったことは事実である。
嘱託と思われる教師を除いた「教諭」(学校長は除く)のみについて見ると
 大正6年4月〜11年4月までに着任した教諭は「28」人で、その内7人を除いた21人の桐中平均在職期間は二年半位である。当時の県内中学校については調べることが出来ないので、比較はできないが少しばかり短いように思える。藤倉が在学した5年間、一緒にあ過ごせた恩師は、一人もいない。
桐生町域生まれは、2人
群馬県内生まれは 6人
その他20人は県外から来た教師である。。
出身校では、東京帝大3人 広島高師3人 早大5人
        東京高師2人 東京外語1人 東京美術1人
その他各県の師範学校を経て検定合格者や中学教員認定者

戦前の中学校教諭の赴任地は「全国区」であり、一般的には本人の希望する所或いは求められた所に赴任出来た面もあり、と同時に学校長の権限も強かったと言われている。藤倉の言う「更迭」という事例は推測出来ないが、生徒の眼か見ると「異動」も「更迭」と思えたかも知れない。

藤倉の在学中の教師で、在職5年以上の教諭は、
下記の通りである。
大正 6年4月〜大正11年3月  5年    石井 定雄 地歴
大正10年7月〜昭和 2年1月  5年6ヶ月 小島 類吉 歴史
  11年4月〜   4年6月 7年2ヶ月  大多和一郎 教練
  10年2月〜   7年3月 11年1ヶ月 星野 辰雄 英語
   8年4月〜   8年3月 14年    篠崎与十郎 国漢
   9年4月〜   16年3月 21年    松島利一郎 体育
          (3年半の兵役あり。戦後15年間講師)
  11年12月〜24年3月 26年4ヶ月  小山 聡作 地理他

桐生町域で出生したのは、星野・小山
その他群馬県で出生したのは、石井・小島、その他金子近次・新井新・小峯佐吉・木村善平。
後々、桐生に永住(長く在住)したのは、星野・小山・松島・篠崎・萩原。
もちろん、この当時桐中出身の教師はいない。多くは県外から着任しそして、多くは他府県の中学へ次々と異動していったのである。

さて、以上で教諭の異動については触れたが、「学校長」については触れなかった。
初代校長 渡部たまき 大正6年3月30日〜8年3月31日 
             休職となり、10年3月退職
            (着任時44歳、東京帝大中退)
 二代  金森外見男   6年4月〜8年3月 教諭
             8年4月〜10年6月2日 学校長
            (学校長昇任時51歳、東京帝大中退)
             碓氷郡立実科女学校学校長に転任
 三代  斎藤 重保  10年6月2日(着任は11日)
             〜11年1月16日
            (着任時37歳 東京帝大卒)
             退職し、中国漢口東亜同文書院へ
 四代  田中伊藤次  11年3月7日
    (着任日は16日この間 校長事取り扱いは立石秀三)
             〜12年5月29日
            (年齢 確認出来ず。東京帝大卒)
このように 藤倉喜代丸が在籍した5年間に学校長は4人代わったのである。
旧制中学校の「学校長」と現代の高校の「校長」の地位、権限等を簡単に比較することは出来ないが、少なくとも大きな権限と管理・運営を通した統率力、指導力を持ち、多大な影響を与える存在であったことは間違いない。また、授業では、「修身」の授業も担当し、学校行事では先頭にたった姿が、卒業生の回想にしばしば登場するのである。
 藤倉回想記には、学校長と触れあった思い出が数々登場するのであるが、恩師の「更迭」の中心をなすのは、「学校長」の異動であったのかも知れない。
もし、そうだとすれば、「学校長」の異動は、これほど頻繁に行われるのが慣例であったのかどうか、一応見ておかなければならないだろう。
 群馬県下の各中学校について、下記に学校長の人数を記したが、桐中の学校長数が圧倒的に多く、如何に「異動」が頻繁に行われたかを示している。そのことが「学校つくり」にどのような影響をもたらすのか、また何故桐中の学校長は短期間で異動していったのか、これは、あらためて別稿で触れることにしよう。

 旧制中学校時代       
前中=51年間   15人     
高中=48年間   14人  
富中=48年間   12人   
太中=48年間    9人   
藤中=44年間   14人 (途中分校時代あり)  
沼中=36年間   10人   
渋中=28年間    7人   
館中=27年間    6人 
桐中=31年間   15人 

 桐中創立前後から旧中最後の頃まで
前中  大正 2年  〜   7人     
高中     5年9月〜   9人
富中     4年  〜   8人
太中     3年  〜   8人
藤中     3年  〜  13人
沼中     3年  〜  10人
渋中     9年  〜   7人
館中    10年  〜   6人
桐中   大正6年  〜  15人

*追補 藤倉喜代丸(先生)について
 明治35年2月11日 栃木県安蘇郡飛駒村入飛駒字今倉
            根本山神社神官家に生まれ、特に
            祖父若丸の訓育を受ける。
 大正 7年4月〜12年3月 桐生中学校卒業
   14年3月       皇典講究所神職養成部卒業
 昭和 3年3月       日大高等師範部国漢科卒業
    3年8月〜24年3月 桐中・桐高教諭
          (22年4月〜7月 校長事務取扱)
    24年4月〜     田沼町立入飛駒中学校校長兼
               小学校校長
    36年3月      退職
*43年3月 入飛駒村は桐生市と合併。入飛駒小学校・中学校
廃校となり、昭和58年には、桐生川ダムの湖底に沈む
   48年12月      藤倉先生 逝去(71歳)
 この間 根本山神社(その他関係神社)神官、13代目宮司
桐中出身者で、初めて母校の教壇にたち、恩師に可愛がられ、また戦中、戦後、桐中の中心的な教師となっていった。幾つかの「回想記」がある。
ニックネーム「かっぱ」「じけつ」「きよまる」。
*なお、大正14年3月 桐中卒の山口善三(後に、葉鹿町長、接骨院)が、その7月から半年余り、柔道の嘱託として勤めた。
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2010年04月23日

其の五 画家 山口 晃氏 講演

 4月11日が、桐中・桐高の「開校記念日」である(細かく言えば、大正7年の11月22日に「開校式」をやったので、翌年には、4月と11月に開校記念、創立記念として行事を組んでいる)。
 開校記念日には、簡単な式典並びに行事が行われた年もあるが、多くの場合休日とした年が多かったようである。昭和40年前後から、開校記念日には講演会を実施することも時にはあったが、記念講演が定着するのは1980(昭和55)年からである。

 今年は、11日が日曜日にあたり、12日(月)に、開校記念式典が実施され、同窓生の山口晃氏が来校、記念講演をされた。
 山口氏は、1969年東京生まれで、ご家族と桐生に来られ昭和小・中から桐高に入学、1988(昭和63)年3月の卒業、東京芸大大学院美術研究科を卒業し、今、油絵具を用いつつ大和絵の表現をするという手法で、その作品は大変な人気を博している。最近、五木寛之の「親鸞」の挿絵、カバーを手がけたり、読売新聞の「新聞小説」の挿絵も担当している若手の「売れっ子」の画家である。恐らく同窓生でご存じの方も多いと思う。なお、お父上も桐高の同窓生である。
 講演は45分と短かったが、対象(自分の頭の中も含めて)をしっかりと見る目を鍛えること、多くの引き出し(雑学)はいらないので、自分の中に少しずつ積み上げられていくものを捉えること、一瞬、風、霧のかたまりが流れさり、突然アスファルトの一つ一つの粒がはっきりと見えるような時があるなどと、軽妙洒脱、ユーモアに富み、若い在校生も感じるものがあったに違いない。
 お父上も美術に親しんでおり、「そう言えば、グループ・コッペという作品展が、昭和35〜36年に有りましたね?あのコッペとは?」
「あれは、安いコッペパンのことですよ」
「それで、どうなりましたコッペは?」
「コッペ(パ)微塵でしたよ!」と! 山口晃氏の親であることを確認しました。
   *「山口晃作品集」東京大学出版会(2004刊)
    「すずしろ日記」羽鳥書店(2009刊)など

 さて、桐中同窓生で、美術方面で活躍した同窓生を探してみる。
 全ての方を挙げることはできないので、お気づきの方は、ご教示願いたい。

1923(大正12)年卒栃木(藤生)宗三郎 (東京美術学校=現、芸大卒)
二科展で活躍、1940(昭和15)「魚」一点を学校に寄贈。栃木医院のご主人であった。但し、絵は、火災により焼失。
1928(昭和 3)年卒暮田 延美 (東京美術学校卒)後に芸大教授
芸大美術館には、「ろうけつ染裂標本」がある。
1930(昭和 5)年卒小野里 利信(オノサト トシノブ) (津田青楓門下)
シベリア抑留から戻った後、相生中や大間々中で講師。独特な幾何学的な構成で、絢爛たる錯視的空間を作り出す。
1931(昭和 6)年卒石井 壬子夫 (東京美術学校卒)
昭和19〜23年 桐女で美術の教師。教師を辞めたあと、絵画に専念し、大川美術館に所蔵品がある。息子さんも桐高卒、絵画で活躍。
1937(昭和12)年卒笠木 実 (東京美術学校油絵科、版画兼修)
(11年の四修かもしれない)
1939(昭和14)年卒 田中愛行 (東京美術学校卒)
「野の花めぐり」シリーズ出版
1945(昭和20)年五卒新井 理夫 (東京芸大卒) 桐生にて活躍
長岡 隆            東京

旧制中学に入学し、新制高校を卒業された方では
 中村善一(22年中卒、24年高卒) 新井淳一(25年) 
 鈴木正三(27年) 杉戸信雄(27年)など。

図画の恩師たち
(教科名が「芸能」から「芸術」となり、科目名の「図画」が「美術」に変わったのは、昭和31年度の教育課程からである)


長沢 時基1917年(大正6年4月〜9年3月)嘱託
米沢出身で、桐生町にて織物学校、桐生高工で教鞭をとる
「無名会」の会員でもあり、織物の図案等では、指導的役割を果たした。桐中の徽章・校旗の作成にあたる。
萩原(手島)英雄 1920年(大正9年4月〜12年6月)教諭
大阪出身、東京美術学校卒。
1928年(昭和3年11月〜21年) 教諭、並びに嘱託
四代目の硬式野球部長としても活躍する。(綽名は かたきん)
退職後も桐生で活躍。
石橋 孟1923年(大正12年7月〜13年11月)教諭
佐世保出身、東京美術学校卒
綽名は「ダ・ビンチ」。昭和27年11月の「桐高新聞」で、
大正15年卒の吉田忠作がダ・ビンチの思い出を綴っている。
諫早中へ転勤、戦後長崎の修道院におられたらしい。
新井 朋二郎1924年(大正13年11月〜14年3月)嘱託
境野村出身で太中4修 小室翠雲に学ぶ。号は「滋雲」
伊藤 信1925年(大正14年4月〜昭和2年4月)教諭
碓氷郡出身 東京高師専修科卒。のち県内の女学校長
白尾 栄三郎1927年(昭和2年5月〜昭和3年11月)教諭
石川県生まれ、東京美術学校卒
戦後、奈良大宇陀高校におり、宇陀中の校旗製作。
この後、萩原が、神奈川県立工業、宇陀中、館林中を経て再任する〜21年。
中曽根 敏夫1946年(昭和21年2月〜59年3月)高中、東京高師卒。

 こうした恩師たちの制作された絵画等が、現在の桐生高校には一枚もない。
或いは、昭和39年3月の火災により焼失してしまったのであろうか。
 現在、収集された中では萩原先生の描かれたものは、「校友会誌」の表紙にある。
 中曽根先生と新井滋雲先生のものは、昭和20年代に文芸部誌「洋燈」の
表紙にあるのみである。
 新制高校になり、美術関係に進んだ同窓生は、多いのであるが、学校においてその絵を見ることが出来ないのは、寂しい限りである。
 以前に、
昭和20年D卒  新井理夫氏の「山紫にあけそめて」
            長岡 隆氏の「桐生市郊外」
     47年卒  藤谷和春氏の「埠頭の春」
     27年卒  鈴木正三氏が「桐高90年史」の挿絵の原画。
     旧職員  中島裕明先生の十数点の絵画、
等々が学校に寄贈された。
 昨年は、52年卒の市川裕径氏(ニューヨーク在住)が、「Amalgum」が、同窓会に寄贈された。

 桐生市、並びに周辺市町村に在住し、美術関係で活躍している同窓生はかなり多い。今回、山口晃君を呼ぶことができたのも、36年卒石井克、52年卒の森村均、両氏のご教示により実現出来たのである。
 また、現在、桐高の美術は、48年卒の天川氏が桐女との兼務をしながら
担当しているし、このパソコン音痴の小生の面倒をみてくれているのは、同じ48年卒で芸術関係に進まれた菊地氏であり、日々感謝している。
 さて、今年は、スペイン在住の石原保(44年卒)君や市川君の個展も桐生で開かれると聞いていたが、石原氏の個展が東京銀座で開かれたあと桐生であるという。ぜひ、石原氏の絵を一枚、同窓会で仕入れて欲しいと思う。

 また、7月の桐高同窓会総会の時には、別室で「作品展」を予定している。
ここにも、積極的に出品してほしい。
 いつの日か、桐高に多くの同窓生の作品が常時展示されるような日が来ることを願ってやまない。
 ちなみに、小生の「図画」の点数は「65点」でありました。但し、大部分の生徒が65点で、それが最低点であったという噂があるが、どうも本当らしい?!
 と同時に、あの頃点数をつけたのは、美術部の部員であったという! とんでもない話も聞くが、それはそれで、今や愉快なり。

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2010年04月09日

其の一 初代校長

桐中初代学校長 渡部(わたなべ) たまき
(*たまきは、「橘」の木扁を「金」に変えた文字)

 1917(大正6)年3月23日、文部省から県へ「渡部の採用を望む。ご都合いかが」と、電報が来る。
 26日、更に文部省は、県から渡部に「健康診断表が必要だから、至急出県あれ」と電報を打つように指示する。

 渡部は恐らく直ぐに県庁に行く。そして29日には、浦中の部下の金森外見男、前橋高女の石井定雄の採用を決め、県の内政部長が山田郡長に指示し手続きをはじめさせる。


3月  30日
4月6〜7日
8日
11日
3日

文部大臣は、渡部を校長事務取扱に任ずる。
西尋常小学校にて、入学試験実施
合格発表
入学式挙行
授業を開始


 この間、金森、石井、御厨準四郎、高山雄蔵らが教諭として、何日に着任したかは不明であるが、不眠不休の二週間余りであった。(石井31日、高山4月4日、金森12日か)
 渡部が、学校長兼教諭に任命されるのは、5月10日付であった。

 紆余曲折を経ながら、1月25日、森宗作の決断で、彼の所有する額面三万円の株券を桐生中学校基本財産に寄付をするということで、設立条件をクリアーし、30日郡長は文部大臣に設立認可申請を出し、3月12日、認可が下りたのである。
 この間、学校長を誰にするのか、決定出来ずに3月下旬にまて至っていたのであった。
 なぜ、学校長の人選に手間取ったのか、詳細は不明であるが、最初は、「明石女子師範の及川平治」にしようとしていたのである。「及川」が候補に挙がったのは、文部省によるのか、県、或いは桐生町からなのか分からない。その及川の意志が無いらしいという県への連絡は3月20日、22日には 兵庫県知事から群馬県知事宛に「二〜三日 待たれよ」との電報が入る。この時点で文部省は先述のように決断したのであろう。

 及川平治は、渡部より一歳下で、宮城師範卒、当時兵庫県明石女子師範付属小の主事で「大正新教育のオピニオンリーダー」たらんと活躍していた人物であった。彼を「町立桐生中学」の校長にしようという発想は、どこから、なぜ出で来たのかは興味深いところである。

 後々、義務教育関係で優れた実践家として一つの潮流を作り出し、現在でもその業績と、資料等は神戸大学人間科学部付属小の校長室に展示、保管されている。

 さて、渡部学校長であるが、渡部の訓辞、講話並びに書かれたものは、未発見である。当時の生徒の話では、「日本一の中学にする。」質実剛健「男らしくこせこせせず、大らかに構えよ」と教えたという。帽章は、桐の葉の上に「中」の字を白く銀で浮かせた帽章で、高師附属中のと似ており、生徒は東京へ行くと間違えられたという。渡部は「附中の生徒と間違えられても恥ずかしくない言動を取れ」と諭したという。

 長距離走は、渡部が好きだったかどうかは別として、しばしば行われた。


大正6年 6月 7日
月16日
大正7年10月 9日
22日
天満宮から新桐生駅まで
    〃
    〃
大間々・桐生間
賞品を20名に与える

 卒業生の一人は「あれは、町民にアピールするためだったのでは」と語る。渡部の前任校の浦中では庭球の大会がしばしば行われているが、長距離走はあまり行われていない。
 なお、東武線新桐生駅の開設は、大正2年3月で、これを契機に桐生・伊勢崎線の道路の整備が始まり、問題の渡良瀬川架橋は、吊り橋として大正4年に出来たのである。鉄橋としての錦桜橋の架橋の竣工は、大正14年4月であった。

 最後に、渡部の経歴に係わり述べる。
 1873(明治6)年7月6日生 福島県磐城国小名浜村。
族籍は東京府士族。旧藩は湯長谷藩 正確には、誕生時は、平県である。湯長谷藩1万石の極小藩。
 恐らく、現いわき市の渡部(後 渡辺村)で、そこに領地を持っていた湯長谷藩の武士の家で生まれたというより、版籍奉還後東京に移り生誕したのであろう。


明治29年
〃  
31年

33年
38年
43年
大正 元年
2年

6年
四高(金澤)予科卒
東京帝大工学大学土木工学科入学
3月 退学
官庁や中学嘱託などを経て
水戸中教諭 38年秋田中教諭
横手中 校長 33歳
新発田中 校長
川越中  校長
浦和中  校長
トントン拍子に埼玉県中学校の頂点に上り詰める
1月22日 浦和中 退職 42歳
 

 何故 浦和中を退職したのかが 分からない。表向きの理由には「疾病、職務に耐えられず」とある。
 病気退職の人が2ヶ月後には、この田舎の「町立中学」を背負って立つことになる。

 そして大正8年3月31日付を以て桐中を辞める。2年間であった。44歳。退職、辞職、休職、実質的には辞職等々法的には、休職が正解である。10年3月30日、休職満期により退職。退隠料(退職金)も受ける。

 その後 三菱重工の重役として迎えられたという記載もあるが、詳細は不明。また、群馬県の教育関係、桐生町(市)の関係にも、初代学校長渡部たまき略歴・功績等の記載はない。

 浦和中学校退職の背景には、二つの事柄が考えられる。
 一つは、大正10年に浦和中から桐中に着任した星野辰雄が、昭和27年の桐高新聞で知事と喧嘩して辞めたと言っているが、当時埼玉県知事岡田は、後に政友会に入った人物であること。
 二つには、浦高同窓会編纂の百年記念誌「銀銀杏」に、「綱紀粛正として乗り込んで来たわけであるが大正デモクラシーの波は、既に浦中にも深く浸透していたのである。…年度途中の1月22日に依願退職というのも、すでに定着した民主浦中がそうせしめたのかも知れない」と約75年前の浦中の記事を紹介し、記載している。即ち、新たな時代・世相の変化に渡部は嫌気がさしたのかもしれない。
 そして、8年3月、桐中休職である。
渡部が桐中に赴任した直後、政友会は圧勝、翌7年9月には原内閣成立し、上級官僚、知事らの大更迭が、予想されたことは間違いない。四高・東京帝大と恐らく面識のあった中川群馬県知事の去就も予想されたことであろう。またまた、渡部は辞めたくなったのであろうか。
 それとも、浦中と同様に、桐中においても、大正新時代の影響を受け、生徒の動きが活発になり、時には逸脱行為などが顕著になってきていたのであろうか。しかし、そのようなことは、考えにくい。なんと言っても、山紫水明、片田舎の桐生であり、しかも、生徒は7年度末、一年77人、2年45人、3年31人合計、153人の小規模校であり、生徒の指導に手こずるようなことは無かったであろうから。

 それにしても、新生 桐生中学の礎を築くためには、2年間というのは余りにも短かった。渡部は、10年6月8日に、来校しているが、その後、住まわれていると思える住所の記載はあるが本人の学校への便りや卒業生の接触した情報は、ない。






参考文献 群馬県立文書舘 文書綴
浦和高校同窓会誌、保存資料
桐高新聞
桐高同窓会報
毎日新聞社刊「高校人脈」
「桐高70年史」「桐高80年史」「桐高90年史」
「校友会誌」創刊号
上毛新聞
埼玉県史

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