2010年05月28日

其の十七 二十歳の中学生!

19歳11ヶ月 1921(大正10)年3月 第一回卒業生28人の
              誰かが、19歳11ヶ月であった。
20歳 9ヶ月 1922(大正11)年3月の32人の卒業生の誰か?
20歳 2ヶ月 1935(昭和11)年3月の68人の卒業生の誰か?

 年によっては、22歳もいる。もちろん桐中だけでなく、どこの中学でも同様であった。

 旧制中学校は、尋常小学校6年を終了し受験、入学した年に満13歳となり
5年生になると満17歳である(現在の高校2年生)が、一年〜五年生の生徒の中には、二つも三つも年上の生徒もいたのである。中学1〜2年の下級生から見れば、上級生は、ひげ面の「おじさん」で、頼もしい存在であったが、場合によっては(いや、いつもかも)「恐ろしい、おっかない」上級生であった。
合宿や勤労動員で宿泊した時、下級生の例の所が真っ黒に墨を塗られているのに朝気がつき、慌てたなんていう話は、ざらにある。もちろん勤労動員の帰りに疲れた下級生をリヤカーに乗せ帰ってきたという、いい話もある。
といっても、震え上がり縮こまっていた下級生も、年とともに肩で風切る上級生になっていくのだが。回想記を読むと「誰々に殴られたことは、忘れない」と○○氏が書いているが、「○○に威勢をつけられた」と、○○氏の下級生も書いているのを見つけると、まあ、そんなもんだなぁと思う。

 1936(昭和11)年、春、選抜甲子園、準優勝した時だ。
一回戦、熊本工業、一回の裏桐中は3四球で満塁、バッターは石田元紀。熊工の投手は急遽ライトからマウンドに立った「川上哲治」であった。その初球、打球はスタンドに飛び込む、選抜史上4人目の満塁ホームランであった。
 その石田だが、ハワイから来た日系二世(バンクーバー生まれという説もある)の190p近い巨漢で、「22歳」であったと言われる。石田はこの後、中退或いは明大の予科に進学したらしく、追跡調査は出来ていない。結核で逝去されたという話もある。
1年下の同窓生が、「若い英語の先生が、びびっていた」と回想しているが、それは、植木松太郎先生であったかもしれない。同時期の竹中淳三先生は、「教員の中にはハワイ大学出身者がいた」と書いているが、石田のことらしいが、ご高齢の時書かれたものなので教員と勘違いをされているのかも知れない。
 それにしても22歳の選手であるが、甲子園の歴史を紐解くと、二つ三つ上の者が沢山いて、不思議ではない。
和歌山中の小川正太郎、明石中の楠本保
中京商の野口二郎、海草中の嶋清一、滝川中の別所毅彦…… 
皆一つ二つ年が上であろう。先述した桐中準優勝の立役者は、青木―塚越であるが、青木・塚越もこの年は満19歳になる年であった。
 戦後昭和21年、北関東で桐中は桐工に破れ、桐工の甲子園初出場となる。
その勝因の一つは「旧制高小出の生徒が多く、高小一年、二年から入学してきており、年齢が高かった」と桐工50年史は記載している。
 それでは、当時の学校制度はどうなっていたのか。

 学校制度
桐中が創立した頃、中学に進学するのは、尋常小学校6年(義務教育)卒業者が基本である。小学校からの上級学校は、男子に限ると、公立は、桐生尋常高等小学校(二年制)と中学校は桐生中学校のみ。農・工・商などの実業学校は市内には無い。
 1921(大正10)年桐生市(広沢・境野・梅田・川内・相生等含まず)
   尋常小学校卒業生数は     男273人
   尋常高等小学校への入学者は  140人
   中等学校への進学者は        54人
約80人は、6年の義務教育を終え就職したと考えてよい。
中等学校への進学者は、すべて桐中であるとは限らず、市外の中学校・実業学校への進学者も、当然いたと考えられる。(市史には注書きがない)
尋常高等小学校への入学者は、年々増加傾向にあるが、2年後には就職や家業の後継者を予定している生徒で、家の状況や親の考え方により進学した生徒が多い。と同時に、桐中など中等学校の受検に失敗した生徒もいた。そのため尋常高等小学校を1年修了して再度受検する生徒並びに、在学中に家庭や本人の考え方が変わり1年修了或いは卒業時点で中等学校を受検するようになる生徒もかなりいたのである。もちろん高等小学校を既に卒業した生徒も受検した。
 こうして桐中にもひげを生やした20歳の中学生がいたわけである。
なお、15年後の小学生の進路先を付記する。
 1936(昭和11)年 (境野村がすでに合併)
   尋常小学校卒業生数は、    男638人
   尋常高等小学校への入学者は  349人
   中等学校への進学者は        56人

 上級生がいなくなった! 偉い、恐い上級生がいなくなった。
 1945(昭和20)年4月、昭和17年4月入学の3年生は、4年に進級した時から、最上級生になってしまった。
なぜなら、15年入学の5年生と16年入学の4年生が同時に卒業してしまったからである。
 昭和18年1月「中学校令」が改正され、「中等学校の修業年限は四年とす…」という勅令が公布、21年3月卒業予定の16年入学生は、ビックリ!しかも農家への勤労奉仕の連続、19年7月からは、工場動員、その最中の20年3月28日、ゲートルを巻いて、5年生と一緒の卒業式になってしまったのである。なんという4年間であったのか。
 しかし、4年生で最上級生になった17年入学生も、下級生に恰好つけている暇はなかった。学校ではなく「工場」に勤務=動員されていたからである。
終わったのは、20年8月15日であった。
 秋になり、21年3月卒業予定だったが、21年2月、五年制への復帰となったが、一部の生徒は、21年3月、桐中四年制として卒業した。

 下級生がいなかった! 上級学年になったけれど。 
 昭和21年4月桐中入学生は、翌22年4月下級生が入学してこない。
新制中学が発足し、小学生は新たな中学へ入学してしまったからである。
21年桐中入学生は、22年群馬県立桐生中学校併設中学校2年生となる
 翌23年新制高校発足、
  23年群馬県立桐生高等学校併設中学校3年生となる
  24年群馬県立桐生高等学校1年生となる
  25年    〃     2年生となり、目出度く下級生が入学!
  26年        〃 3年生となり
  27年3月卒業!
6年間 「桐中・桐高」に在籍していたことになるが、その間、最下級生を4年間! 下級生に恵まれた?のは、2年間だけであった。しかしもはや「民主主義」の時代であり、以前の上級生の様には振る舞えなかったと思えるが?
(注、20年4月 桐中入学生も同様な経過を辿るが、いつも21年入学の下級生がいたのである。)

posted by 100年史編集者 at 13:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒・女子

2010年04月30日

其の八 女子生徒、女性教師

 過日、ある喫茶店の大女将から、桐女時代の古い写真を見せられた。
昭和31年の桐生地区高校合同美術展を織物会館で開催した時に、撮った写真であるが、それぞれがどこの学校の誰なのか、思い出すことも出来ないと言う。写っている者にとっては懐かしい写真であるが、関係の無い者にとっては、「あんな時代に、女子校生と撮った写真があるのかぁ! 信じられない〜ことだぁ」という思いである。
 桐高の三年間、女子高校生と会ったことも話たことも全くない、まして写真など! にもかかわらず、女子高校生との交流があったのか。平々凡々たる者と違った高校生活が有ったのだ。
確かにそうかも知れない。新制高校になってから、文化部の活動は堰を切ったかのように活発になった。その中でも、演劇部・美術部・書道部・音楽部・写真部・JRC等は、桐生地区内で連盟などをつくり、他高との合同の発表会が活動の大きな柱であった。
「ここは、桐高、向かいは女子高、中をとりもつクラブ活動、
アラヨイショヨイショ、ヨイショヨイショヨイショ」

予餞会で歌われた替え歌の一節であると、33年卒常葉純は、「高校人脈」に書いている。
誠に羨ましい限りの高校生活が、あの時代にもあったのである。

 他校生との交流が盛んになったのは、1960(昭和35)年の「安保闘争」の前後で、生徒会の連絡協議会が生まれたり(35年4月)、教職員組合の影響下に教研サークルが生まれたりする中で、生徒会を中心としては「D&F」(ディスカッションとフォークダンス)の開催(35年12月〜)、そして桐工から提案された合同ホームルームは、36年7月から翌年にかけ、8クラスが主に桐女と合同HRを実施した。12月22日の二学期終業式の午後、3Fが実施、斎藤憲衛教諭が良く認めたものである。細かく検証することは出来ないが、今までのクラブ活動間の交流ではなく、クラブ以外の交流が始まったのである。もちろんその参加生徒やクラス数は限られたものであっても、この田舎の高校の雰囲気は変化してくる。
後、毎日新聞の連載「教育の森」で村松喬が、男女別学での生徒交流を望む「独創的発想」であると持ち上げた。
合同HRは連綿と続き、昭和48年12月16日、3Aは日曜日の朝から夕刻まで実施という快挙?暴挙をやってのけた。
 また、運動会や文化祭の後片付け終了後、ファイァーストーム開始前にフォークダンスが行われたが、もちろん、大きな二重三重の輪が出来るまでには数年かかったが盛んになった(このような動きは、県下全体で起こったわけではなく、桐生地区と前橋地区が、或る意味先進的な地区であったと思える)。

 1960(昭和35)年頃は、国の大きな転換点期でもあったが、
高校も変わり始めたと言える。「男だけの世界」「質実剛健」「バンカラ」などと言われる高校生活、もちろんその実態は言葉の通りではなかったのだが、桐高も変化し始める。
しかも、昭和37年度から、いわゆる「団塊の世代」が、高校に入学してくる。
翌38年4月には、男女共学の桐生南高校が開校する。
そして39年、新幹線、東京オリンピック、高度経済成長の進展の中、いや進展前かな? さて桐高は?というところで、39年3月2日、学校炎上であった。

桐中時代に一気に逆戻りする。
創立2年目の大正7年、桐女に於いて軍事講話があり、職員生徒「参聴ス」とあるが、講演会で桐女に行くことはしばしばあった。翌8年の10月14日には、「高等女学校ノ運動会ヲ参観ス」とある。
 しかし、その後「桐高90年史」の年表には、桐中の生徒が学校行事として桐女に出かけた記録はない。「男女七歳にて、席同じゅうするべからず」であったのであろう。
桐女の運動会の日になると、桐中(高)は赤城登山を行ったという証言もあるが、確かに昭和2年11月3日は、桐女運動会、桐中全員薮塚方面遠足と確認したが、4年から11月3日は、新川運動場で市内合同の体育会となる。
桐中の先生が、わざと桐女運動会に学校行事をぶっつけたか? 不明。
昭和19年夏から、3年生以上の工場動員が始まるが、工場では他校の女子高生も来ており、昼食時などには、可愛がられた桐中生もいたらしい。ある意味正常ではない事態の中で、当たり前の交流があるという歴史のパラドックスかも知れない。

 最後に、平成10(1998)年4月、理数科の設置に伴い、毎年30人前後の女子が入学し、平成22年3月まで、300人を越える女子の同窓生が誕生している。一学年280人の定員の内30人前後、全学年で840人中100人位であるが、「東男の名に恥ちぬ……」と校歌を歌い軟弱な男子に激を飛ばしてくれているのだぁ、さすが桐生の女性である(と言っても、桐生市域出身はおそらく半分以下であろうが)。
平成13年度の生徒会長は、女子生徒であった!

 但し、女子の同窓生(特別会員である教職員の女性を除いて)は、この理数科の卒業生が初めてではない。
昭和25年10月、28年、30年に合計11人の女子生徒が、桐生高等学校を卒業しているのである。皆さん定時制課程の卒業生である。最近、何人かの方々と電話で話をしたが、同世代の男子よりやはり遙かにお元気である!
(ちなみに、同様に桐女においても若干名の男子卒業生がいる)

 おまけに
初めて女性の先生が来られたのは、
1948(昭和23)年10月、「シューテンザック」先生である。スコットランド生まれで40歳台、白髪(銀髪?)。なからナマリのあるイングリッシュであったという。生徒の橋本(故人・23年卒)君の2階に下宿しており、演劇部の生徒が何度か訪問している。部屋には、トースターらしき物、小型のラジオがあったとも言う。学校の英数研究室にいた松尾八郎 元青年教師に聞くと、「英語なんか話せねぇのだから、何も覚えていないね!」と。一年余りで居なくなり、とにもかくにも、何故来たのかどこへ行ったのか?????
他の幾つかの旧制中学の校史をみても、この時期に外国人の氏名はない。
 養護の先生は、1950(昭和25)年に、養護の神山まささんが着任、
昭和28年、養護教諭として景浦てい子先生が着任、昭和53年3月まで25年間である。随分お世話になったり、迷惑かけた諸氏も多いことであろう。保健の授業を少し教わった気もするのだが? 修学旅行の写真を見ると、景浦先生と事務の石原さんが生徒と一緒に写っている。
 この間、事務職員としては、23年4月着任の神山京子さんが最初である。
その後、
正規の教諭として初めて着任したのは、
1995(平成7)年4月着任の家庭科担当の中山先生であろう。これは、男子生徒の「家庭科」が必修科目となったからであるが、桐中開校以来、78年目であった。
以降、男女共学の理数科が設置され、女子の先生が増え、久しぶりに学校内に立ち寄ると、一瞬驚くものである。
平成21年度では、教諭48人中、6人が女子教諭で、地公臨や非常勤の先生も5人女性であった。


posted by 100年史編集者 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 生徒・女子