2010年12月09日

其の四十六 第一回卒業生あれこれ

 第一回卒業生は28人である。
大正10年3月10日のことである。4年前の
大正 6年4月、「町立桐生中学校」は、第一学年と第二学年を募集した。
二年生を受験し入学したのは17人であり、その年転入扱いで入学したのは12人で、大正6年度は合計29人である。
但し、4年後に一人卒業せず28人卒業となったと考えると間違いである。

大正8年10月20日、校名を「桐生中学校」と改称し、10年3月1日、遂に「群馬県立桐生中学校」となり、3月10日、第一回卒業生28人を送りだしたわけだが、その内訳は
 二年入学生 17人の内  卒業11人
 二年次転入生12人の内  卒業 6人
 三年次転入生 8人の内  卒業 6人
 四年次転入生 5人の内  卒業 5人  合計28人卒業である。

 卒業年齢 満17歳 15人
       18歳  7人
       19歳  5人
       20歳  1人

 当時の現住所でみると、桐生市21人 境野村2人 相生村2人
           川内村 1人 前橋1人 伊勢崎1人
 原籍でみると、    桐生町及び周辺 21人
           岩手県3人、千葉、前橋、館林、佐波郡各1

この岩手県というのは、気になるところで、調べてみると、なんと
菊地 一教諭の関係者であり、菊地教諭の弟、師弟、知人の子であった。
 菊地 一教諭は、岩手県花巻出身で一関中から二高、東京帝大卒の動物学専門で岡山玉島中学・川越中を経て、大正7年4月、創立二年目の桐中に着任。弟の八郎を川越から桐中に転学させ、更に翌年関係者2人を桐中に転入させたわけであった。菊地八郎、瀧田健吉、平山坦である。
 菊地教諭は、8年12月突如木曽山林学校に転勤することになるのだが、関係生徒3人は、桐中を卒業し、二高・新潟高校等に進学した優秀な生徒であったらしい。菊地教諭のその後は不明であるが、水戸高校に奉職し、40歳台で逝去されたと思われる。
 前橋中学からの転入生徒の内3人が卒業しているが、一人は中里成で旧姓赤尾、同窓会名簿では中里勝治郎となっているが、東村小中の出身で父親は小学校教師である。残り2人は、4年次に桐中に転入した生徒で、佐波郡の医者の息子と前橋の製造業者の息子であり、共に桐中教諭の石井定雄が保証人となっている。
 なお、太中からの転入生は、11人。桐生町・町域の出身である。

父母又は後見人の職業
 菊地教諭関係者、前中・佐野中からの転入し卒業した生徒を除く21人の
 父母又は後見人の職業をみると、この後の桐中生の親等の職業の特徴が
 初めからあらわれていると言ってよいであろう。以下、
 織物製造関係 10人(相生村1人)
 材木商     1人
 商業・文具商  2人
 人力車営業   2人
 官吏      1人
 会社員     1人(境野村)
 代書業     1人
 農業      1人(相生村)
 神職       1人
 無職      1人

最後に、卒業生個人についてほんの少し触れよう。但し、直接、ご家族にあたり調べたことではなく、文献資料に基づくだけで、推測もあり誤りも有るかも知れない。
 暮田 福一郎 早稲田か?初代同窓会幹事長
        兵役期間長い。織物業・新宿
     祖父は俳人としても活躍した暮田柳圃だと推測する。
 下山 長一郎 第二代同窓会幹事長、
        長距離走で県内外にて活躍。
        卒業生総代。織物業・相生
 岩野 新三郎 第三代同窓会幹事長、幼名保吉。
        桐生市消防団副団長、機業
 大澤 國二  織物業 三吉町
 斎藤 総一郎 幼名熊太郎 織物関係
 根岸 時太郎 織物関係
 中里 勝次郎 旧姓 赤尾威 織物関係
 長  晴一  銀行員・織物関係
 星野 政一  織物関係
 下山 儀三郎 織物関係 相生出身
 常見 喜一  新宿出身、群馬師範卒……
        昭和10年以前に逝去。
 荒川 一   小学校訓導。
        昭和12年11月〜14年8月桐中教練教諭。
        転職後の後、応召、戦死との記載もある。
 荒川 榮一  昭和16年8月〜18年12月 桐中教練教諭、
     応召し20年8月までは、桐中に籍が有ったと思われる。
        織物関係
 小島 貢   群馬師範卒、桐生市教育界で活躍。
        親は常祇神社神官 小島吾妻
 蜂須賀 保  桐生市教育界で活躍。
        「無教会派」の桐生聖書研究会の中心人物の一人。
 柳田 保   本籍は千葉県。親は桐生町(市)の官吏。
        一高から東京帝大農学部を経て医学部卒、
        昭和19年桐生市本町6丁目に
        産婦人科開業後応召。
        戦後復帰し37年病気にて逝去。
*以上が桐生市域在住または帰桐した方々である。

 森田 晟三  戦前、横浜市在住
 相馬 一正  桐生町出身、
        東京外国語学校ドイツ語 学科卒、
        翻訳業を主とし1996年逝去 筆名 塩谷太郎。
 田辺 常一郎 戦後、富岡市在住
 高橋 善十郎 境野村出身、幼名好造。
        佐野中から転入。東京在住か。
 堀江 民之助 神奈川県警察関係・神奈川県庁
 森山 秀二  東京商大か?……三菱鉱業関係へ
 若林 勝   四年次前中から転入。
        早稲田か?……鉄道省関係のち三菱鋼材関係か
 平山 坦   新潟高校から…… のち 日本医師会
 菊地 八郎  二高から?帝大か、 大谷重工業、弁理士など
 瀧田 健吉  柔道強し。日大……岩手県に戻り土木関係
 小林 可人  成蹊実務専門学校から三菱製紙
        「校歌」制定前に、全校生で歌える歌を作詞、
        軍歌の曲を使用したという。
        原籍は館林で、桐生町生まれ。
 高野 藤甫  四年次前中から転入、慶応予科……
        佐波郡の官吏。親は佐波郡三郷の医師。

*中途 転退学・進学等は14人。その内8人の氏名は
確認しているが同窓会名簿に記載されているのは1人である。

追記   卒業は難し!

 第二回卒業生 32人
 第一回卒業生の大半が町立桐生中学二年生として入学したのだか、同時に一年生に入学したのが50人(志願者107)。5年後、
大正11年3月10日 卒業生32人 第二回卒業生となる。
内訳は、6年4月の入学生 25人
前学年の原級留置者     1人
9年4月以降の転入生     6人
 故に、当初の入学生50人の内 25人は、転学、落第、退学、又は四修ということになる。但し、四修で上級学校進学は、一人のみ確認。

 第三回卒業生 48人
大正7年4月8日 入学者81(志願者93人)、再入学・補欠1人
 *教務日誌抄では、85人入学許可(入学式前日発表)
大正12年3月8日 卒業生48人
        内訳は 7年4月入学者 39人
           前学年の原級留置者  3人
           8年4月以降の転入生  6人
 故に、当初の入学生82人の内、43人は、転学、落第、退学
または、四修。四修で上級学校進学は、3人のみであろう。

*野間清治顕彰会発行の「稲川東一郎伝」では、「東一郎が受験した時は、百二十一人が狭き門に挑戦して、九十五人が合格しました。」とあるが前記したように、志願者は93人、合格者は85人、入学者は81人である。
 この「稲川東一郎伝」には、小さな間違いがある。東一郎と同級の藤倉喜代丸が、桐高同窓会報創刊号の「回想記」書いてあるのは、
一「学年末に2番となり、第二学年の1学期末に甲級の正級長を命ぜられ、5年生の卒業まで甲級正級長を通しました」、なのだが、「稲川東一郎伝」では、藤倉が「私は一年生から五年生の卒業まで甲組の級長を通しました」としている。
 藤倉は非常に優秀な生徒であり、後に長く桐中・桐高教諭を勤めるのであるが藤倉自身一年から級長とされびっくりしていることであろう。「合格した時は、25番であった」と先の回想記に率直に述べ、一年からなどと書いていない。
 しかし、活字とされ一冊の本となると、それが全てとなってしまうこともあり、恐ろしいことでもある。
posted by 100年史編集者 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学

2010年08月12日

其の三十一 何期生か?

 8月5日 桐高3年生から、自分達は「何期生?」という質問が、「なんでも掲示板」にあり、一応の回答は済んだのですが、少し細かくここで触れます。
 まず、第一に、「何期生」「何回生」という呼称は、特別に行政によって定められていることではありません。
 第二に、学校や団体によりそのような呼称を使用している所も有るようです。
例えば、戦前の陸軍士官学校、海軍兵学校では陸士○○期、海兵××期と呼んでいます。新設の学校などでも、暫くの間は「第○期生」と呼ぶところが有るようです。
 第三に、期生・回生では、西暦何年なのか、元号で何年なのか分かりません。
ですから、何年に入学した第○期生で何年に卒業したとか、何年卒業の第×回生ですと言いませんと、はっきりしません。
 第四に、期生は、一期生入学とか、何期生が卒業、と使用され、回の方は第何回の入学式とか卒業式そして第何回の卒業生だ などと使用されている場合が多いようです。
 第五に、「期と回」の事からはずれますが、元号も大変です。
例えば13年3月卒ですというと、桐中・桐高の場合、大正13年、昭和13年、平成13年と3回有ります。
 第六に、西暦でも元号でも、「年度」と「年」が有ります。
例えば、平成22年卒業と言えば、22年の3月卒と普通理解します。ところが「平成22年度」卒業となると、23年の3月卒となります。
これは、非常に間違い易く、学校関係の書籍でも「何年」なのか「何年度」なのか判断出来ない文章や資料が多々あります。
 平成21年度卒業生の大学入試結果 とは?
 平成21年度大学入試の結果 とは?

*以上の事から 「何期生」の使用等についてはお考え下さい。
 一年ごとに生徒が入学してくれば、その学校の第一回入学を第一期生として
カウントすればすむことです。
 団体・機関によっては半年ごとに一定の集団が新たに入るところもあります。その場合、一年内で 一期生・二期生と当然なります。

**さて、そこで桐中・桐高外史として、以上で良いのかどうか触れます**

 1917(大正6)年4月11日、町立桐生中学校 第一回入学式挙行!
  入学生→ 一年生 50人 → この生徒が「第一期生」か!
  ところが、
  二年生 17人が同時に入学しているのです。
 さあ〜て 「何期生」と呼ぶとしたら どうしたら良いでしょうか?!

 そして、この二年生が大正10年3月 県立桐生中学校第一回の卒業生となります。
     一年生は大正11年3月の第二回卒業生となります。

次ぎに、1945(昭和20)年3月のことです。
  25回目の卒業式挙行。卒業したのは
昭和15年4月の入学生と
昭和16年4月の入学生で、2学年同時に卒業です
(中学校の修業年限が18年に5年制から4年制に短縮されたのです)
共に同じ第25回卒業生と言えますが、同級生では有りません。
もし、それぞれに「何期生」とあれば、「1」違いますが、卒業は一緒なのです。

更に、中学校については補足がありますが、省いて、高校「新制高校」に移ります。
 桐生高校の開校は、1948(昭和23)年4月10日です。
その桐高の生徒はどのような生徒がなったのでしょうか?
 三年生は← 昭和18年4月桐中入学生の凡そ半分
 二年生は← 昭和19年4月桐中入学生の大部分
 一年生は← 昭和20年4月桐中入学生の大部分で
         23年3月の時は、「桐生中学校併設中学校3年生」
 詳細は省きますが、三学年分の生徒が一斉に桐高生となったのです。
ですから、
 「桐高第一期生」と もし呼ぶとすれば………どうしましょうか!
しかも、4月10日の開校にあたっては、県立高校どこも「入学式実施」とは言っていません。みな「開校式、始業式」であります。
桐高第一回入学生と 敢えて呼ぶことも出来ないのです。

 更に、しかも、この4月、県立高校の多くは、若干名の生徒募集をします。
桐高の場合、高校一年生と三年生若干名を募集します。
その結果、4月末に試験を実施し5月初めに「入学式」を実施していますが桐高の場合は、ご存じのように昭和39年の学校炎上により公的文書が焼失してしまい、はっきりと分からないのであります。
 恐らく、三年生に若干名が入学したことは間違いありません。
     一年生にはどうか、まだ確証がありません。
そして、5月はじめに、「あるいは、第一回入学式らしきこと」が行われたかも知れません。
 しかし、まさか、この5月に入学した若干の生徒だけを「桐高第一期生」と呼ぶことも出来ないと思われます。

***以上、概略説明させていただきました。
 桐生高校はもちろん戦前の中等学校から継続してきた
 県立諸学校では、「何期生」という呼称ほとんど使用されていないと思います。
 個人的には「何期生」という呼称は「なじまない」と思います。**
posted by 100年史編集者 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学

2010年07月25日

其の三十 進学A

 1940(昭和15)年3月卒までは、前回の外史で触れたが、16年3月卒からの基本データはない。これは、桐高火災による特殊事情もあるが、多くの学校また専門学校においても無い。同窓会名簿等から推定すると、と言っても極めて不正確であるが
 昭和16年  高校進学 6人位  四修 1人
   17年       6人   四修 1人
   18年       3人   
   19年       7人
   20年       3人+5人

 戦争末期の進学
 学徒勤労動員が始まり、授業もろくろく無い事態の中でも、上級学校の入学試験はあった。どのように勉強し、どのような手続きして受験に辿りついたのかは、まだはっきりとはしない。なにせ勤労動員に明け暮れていた思い出が余りにも強いからである。

 昭和19年3月17日〜19日 桐生工専の入試実施
「急迫した戦時世相が反映したのと、文科系志望者らのなだれ現象があって、志願者総数は3600余名となった」(群大工学部75年史)。倍率は凡そ9倍であり550余名が入学した(前年度の志願は2084人)。しかし、工専に入学したからといって兵役、その他を免れたわけではない。入学式当日、学長は「…本校の教育方針は立身出世主義を飽くまで排除し、醜の御楯たる学徒を養成するものであり、意志薄弱の力なきものは、今日学校を去れ」と宣したのである。
 昭和20年2月21日〜24日 桐生工専の入試実施。すでに県内では太田地方を中心に空爆を受けていた時期である。3月17日硫黄島玉砕、4月1日
米軍沖縄本島上陸という事態の中、4月2日970人が入学した。
桐中からの桐生高等工業(桐生工専)への進学者は、20%前後と推定する。
19年卒からは定員150人であるから、30人前後であろう。

 ・東京高等師範は 20年2月 東京の大塚校舎で入試実施
  合格通知は3月上旬交付、各自動員先で待機。入学式は 7月23日
  日光高等女学校で実施
 ・浦和高校  20年1月頃、入試を実施。
  後に浦高の本館・講堂は空襲により廃墟と化していたと(20年卒藤掛)。
 ・千葉医科大学専門部の入学は、6月長野県飯田の阿南病院であった。(20年卒、山口) 
 ・群馬師範学校本科に入学した生徒は、33人であったが、在学していた
  中学校の動員先に通勤し、師範学校に入ったのは、20年9月であった。(桐中からの進学者は、若干名か?)

戦後、最後の「高等学校入試」は、昭和23年冬であった。
 昭和23年3月桐中卒は、11人が「高校」に合格した。恐らく桐中始まって以来であろう(浪人1人含む)。
 しかし、この先輩たちを待っていたのは「学制改革」であった。
その年の旧制高校の2・3年生は、24年・25年とすでに「帝国」の名前を削除した旧帝国「大学」への受験の機会は与えられたが、23年に入学した旧制高校生1年生は、24年春の「新制大学」への受験しか道はなかったのである。旧制高校に入ったのにも拘わらず、旧制高校から放り出されたといっても良いかもしれない。世に言う「白線浪人」溢れる。
しかし、桐中卒の「旧制高校生」からは、7人の東京大学合格者を出したと語り継がれている。

戦後、新制大学への受験のターニング・ポイントは?
1. 昭和31年度入試で、群馬大学が一期校から
  二期校に替わった時期
 (昭和24年発足した新制大学は、二つのグループに分かれ、当初群大は、旧帝大系の大学と同じ一期校のグループであり、旧帝大系をねらうには、浪人覚悟をしなければならなかった)。そして、ほとんど「大学の定員」  が増えなかった時期=「四当五落」「受験地獄」「灰色の青春」と言われた。

2. 団塊の世代が受験する昭和40年前後と
 高校紛争・大学紛争による東大・教育大の入試中止の時期

3. 昭和54年3月に始まった「共通一次試験」への対応、
 そして昭和末期のセンター試験の導入への対応

4. そしてバブル崩壊という社会的・経済的な大変動、
 「失われた10年」という平成初期の大学受験の変動

5. 平成13年3月、理数科の卒業生を出してからのこの十年。

 こうした長い眺望の基で「進学」も見てみたいのであるが、今、平成22年とすると、30年前の昭和末期頃からのことについては、まだまだ何かと差し障りのある事柄がありそうで、外史としても取り扱いにくいというのが正直なところであるが、また後の機会に触れよう。

 猛暑・酷暑が続き、「外史」担当者も熱中症寸前、少しの間「夏休み」としたい。同窓生諸氏のご健勝を祈る!  
 2010.7.23 am8:00 我が陋屋、30℃越える。
posted by 100年史編集者 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学

其の二十九 進学@

 <「大学」「上級学校」への進学は、旧制中学校時代にはどうであったのかということを説明するのはかなり難しい。複雑な教育制度のため、一冊の本が出来てしまうであろう。3〜4枚のレポートでは無理であるが、極めて簡略に基本・原則を触れる。しかし、桐中が第一回卒業生を送り出す1921(大正10)年以前の流れについては、ほぼ省略。また正式名称も多くの場合簡略化させてもらう。また外地の学校については省略する。
また戦時中の昭和18年〜名称その他変更があるが、ここでは基本的には触れない。
 
 「大学」は、「帝国大学」と「官立大学」「私立大学」である。
しかし、中学校卒業では、「大学」受験は出来ない。

 「帝国大学」←旧制高校から進学が基本で、3年制
         (医学部は4年制)

 東大・京大・東北・九大、大正7年に北大。全専門学部が有るのは、東大・京大のみ。(北大には「北大予科」にまず進学)
 阪大は昭和6年、名大は、昭和14年創立である。
 *専門学校からも受験の機会はあった。

「官立大学」
 大正7年の大学令により、「専門学校」の一部が「官立大学」に昇格した。
  東京高等商業が東京商科大に=大正9年
  新潟・岡山・千葉・金沢・長崎医科大学(大正11〜12年)
  東京高等工業が東京工業大学に=昭和4年
  東京・広島文理大、神戸商業大学=昭和4年
 これら官立大学へは、高等学校から受験、また医大を除き高等工業や高等商業学校=専門学校からも受験
 医科大学には、昭和14年附属専門部が設置され中学4年卒からの受験の機会もあった。医専―医学部へのコース。
 「公立大学」は、京都府立医科や大阪市立商科
  
「私立大学」
 大正7年の大学令により、それまで「専門学校」扱いであった私立も正式に大学に昇格した。9年の慶大・早大から大正15年までに22校、昭和18年までに6校である。
 私立大学へは、その大学の「予科」に入学し、大学に進む。あるいは「専門部」、早大の場合「高等学院」に入り、大学に進む。もちろん、高等学校や専門学校から受験することも出来た。
    
トップエリートへの道
 国立の「旧制高等学校」3年制への進学
 「一高〜八高」までの「ナンバースクール」と
 大正8年の新潟から始まり17校の旧制高校
 水戸・浦和・静岡など「ネームスクール」がある。
*この「旧制高校」が、国家の一握りの「トップエリート」養成学校と
 言ってよい。この「高校受験」が教育制度のなかでは、最難関で
 あったと言える(軍諸学校は除く)。
 高校の定員と「帝国大学」の定員はほぼ同じで、学部選択さえかまわなければ、帝大に入学出来た。逆に希望の多い大学・学部によっては、入試が課せられた。
将来のトップエリートを約束された高校生は「弊衣破帽」「バンカラ」風にして「栄華の巷 低くみて」、自由闊達な3年間を送ったのである。
旧制中学生は、たかだかそのマネをした「田舎エリート」の段階であった。
*もう一つの「旧制高校」は、七年制高校である。官立東京高校、
 私立では、成城・成蹊・武蔵に代表される。
 ここには、小学校卒で受験した。
*高校受験は、年代により全国統一試験と高校別の試験の時期がある。
 大正15年から高校を二班に分け、二回の受験機会を与えた。

専門学校
 現在でいう「専門学校」ではない。現在では「大学」である。

大学に準じた「高等の学術技芸を教授する学校」で、中学卒以上の入学資格 で修業年限は3年以上と規定された。一部の専門学校は先述のように「大学 」に昇格したが、薬・医・歯・水産・商船・外事・音楽・美術・体育・法学 ・経済等、多くは、「専門学校」として存続し、また農・工・商などは、「 実業専門学校」と呼ばれた。
 多くの専門学校は、戦後新制大学発足時の母胎の一つとなった。
 桐中にとって最も関係深い「官立」の「専門学校」は
大正5年の桐生高等染織学校で、9年に「桐生高等工業学校」となった。
昭和19年4月法令改正により、桐生工業専門学校(地元では、「工専」) となった。

「高校」進学状況
 1921(大正10)年から1940(昭和15)年までの20年間に
県立中学校から「高等学校」への進学者は、462人=年平均23人
 桐中は、34人=年平均1.7人
中心は、やはり前中で 164人=年平均8.2人
       高中は  88人=年平均4.4人
前中・高中で60%弱を占めていたことになる。

 この統計は、県学事統計であり、現役と一浪の統計数字のように思われる。
そのため、「四修」で高校へ進学した生徒数は加えられていないようである。
前中の同窓会名簿では、四修は準卒業者として記載されており毎年数人の高校合格者を出しているようである。
 桐中の場合、四修で高校に進み、東京帝大に進学した生徒四人確認しているが、34人中では、東京帝大に19人、その他は京都帝大・東北帝大である。

 桐中で最初の高校入学者は、大正10年3卒の「柳田 保」である。
太中から桐中に転入し、一高から東京帝大農学部に進み、医学部に入り、昭和10年代末、桐生市6丁目で柳田産婦人科を開院した(後に閉院)
 もう一人は、平山坦であるが、新潟高校から帝大の医学部に進んだと思われるが、不明である。
 東京外国語学校(現、東外大)には、相馬一正(大10年卒)
 東京美術学校(現、東京芸術大学)には、藤生宗三郎(大12年卒)
 「四修」で浦高→東大の最初は、野中義夫(大12年卒)

桐中の進路概況(県学事統計による→統計処理にやや疑問点があるが)
 大正10年3卒〜昭和15年3卒までの20年間
 卒業生数         1458人
 実業(就職・家業後継)  657人(45.1%)
 高等学校          34人( 2.3%)
 大学予科          36人
 専門学校         385人(26.4%)
 その他 兵役・浪人・師範学校、学校職員、官吏等で、
 40%程度が上級学校に進学したとして良いだろう。

*町立桐生中学校創立の際、実業と進学の両面を掲げながら、
「普通中学校」の開設となったが、結果的には、実業と進学の学校となったようである。



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2010年06月29日

其の二十五 卒業生数など

平成21年度の「学校要覧」によると
旧中学校 2,738名
高等学校 定時制834名 全日制18,826名 合計 22,398名

恩師松尾八郎先生から引き継いだ仕事の一つが、卒業生数であった。

まず新制高等学校である
群馬県立桐生高等学校の卒業生数は?

1949(昭和24)年3月に第一回の卒業生を送りだした。
その時から、卒業証書番号は連綿と繋がって来ているのか?
即ち、1964(昭和39)年3月2日の学校炎上により、昭和38年3月卒業生の最後の卒業証書番号の次ぎに、39年3卒の最初の生徒の番号が来たのか?
 繋がったのである。
「80年史」の黒崎史一(昭和19年卒、在職28.10〜50.3)は、
「…焼け跡の事務室金庫の中で黒焦げ状態であったが、第一回生からの通し番号が、かすかに読み取れことで、調達した即製の詔書用紙に正しく第○○号と明記することが出来た」と。
 卒業式を7日に控え既に卒業証書は完成し金庫に収納されており、その証書の一番上の番号が読み取れたということらしい(小林孝昭教諭在職37〜59年 証言)。
 しかし39年3卒に授与した卒業証書には、生徒の生年月日を記入する余裕は無かったという。
こうして桐高の卒業詔書番号は間違いなく繋がってきたのである。
 また、各学年並びに定時制卒業者数の検討をへて
2009(平成21)年3月卒業生までの群馬県立桐生高等学校の
卒業証書授与者数は、19660人であるとする。(「外史」担当者の判断)
  [内訳]全日制 18,872 定時制 788

次ぎに群馬県立桐生中学校の卒業証書授与者数は?
 これについても、詳細は触れないが、「県学事」「桐高経営要覧」等の検討
を経て、2619人である と「外史」担当者は判断する。その確率は99.9%であろう。
 但し、現物の卒業証書の「2619号」は、発見されていない。
 「2603号」は確認したが、その後の番号の証書は、発見されていない。

但し
 桐中時代の卒業証書授与者数については、厳密な数字を必ずしも確定できなくとも、ある面仕方がないことでもある。
なぜなら
@ 桐中第一回卒業当時から、既に「四修」という制度があり、四年修了時点で、上級学校に進学することが可能であった。四年修了で進学・入学した生徒には、卒業証書は授与されていないのである。
 同窓会名簿では、四修の者の多くは、元の学年に氏名が記載されているが、どの程度いたかどうかは不明であるが、20〜30人位と推定している。
 他校の同窓会名簿の例だと、四修者の氏名の無い学校、四修者を「準卒業」と扱っている学校など、様々である。

A 桐中昭和18年4月入学学年は、23年3月、桐中卒で卒業する生徒と新制高校の3年生となり、24年3月に卒業する生徒に分かれた。
 この24年3月高校卒となる生徒にも、23年3月桐中の卒業証書が授与されたのである。24年高卒は、桐中・桐高の二枚の卒業証書を貰ったのである。
 この23年3月中学卒に対して、中学の卒業証書を授与することは、必ずしも法律で制定したわけではなく、それぞれの学校の判断に委されたようである。県下の他中では、高校に進学した生徒には授与してない学校もある。

B Aと関連があるが、23年卒だけでなく、他年度に桐中を卒業した後、新制高校である桐生高校に入学(編入)し、桐高を卒業した生徒もかなり存在する。
 だから、桐高の卒業証書番号は、あくまで授与数である。
 同一人物が桐中・桐高の卒業証書を授与されているのであるから卒業証書番号は、一種の「延べ人数」であり、生徒の「実数」ではない。
 二枚の卒業証書を授与された生徒は、恐らく170〜180人と推定している。

C なお、同窓会名簿には、
 桐生中学校併設中学校、 23年3卒
 桐生高等学校併設中学校 24年3卒 の名簿も載っている。
 これは、桐中20年4月と21年4月入学の学年である。
 併設中学校として卒業証書は授与したが、桐中卒としての通し番号ではない。
 この2学年の生徒の多くは、桐高生となり、昭和26年3月、27年3月卒の同窓生たちである。
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其の二十四 同窓会発足

 今年も同窓会総会・懇親会が開かれる。7月3日(土)午後である。

桐中同窓会の発足は、いつか。
1921(大正10)年3月であった。
3月10日の第一回卒業式の直後に発足したと思える。
 ・会員は、卒業生と「半途退学者」で希望する者
 ・母校職員、旧職員は「推して特別会員」とする
 ・役員は、幹事3名、各年度2名の評議員
 ・入会金は、金一円 → 現在の5000円前後か?
次ぎに確認できるのは、
1927(昭和2)年8月3日制定の規則
 ・正会員として、四年修了で上級学校に入学した者が追加
  嘗て在学した者で希望者は、役員の決議を経て入会する
 ・役員は、
   会長は、母校の学校長を推戴
   副会長は、母校の主席教諭を推す
   「幹事長」は、幹事互選で選ぶ
   会計は、母校会計主任書記に委嘱し、一名は幹事より互選
 ・入会金は、2円とする。
  会費は、総会その他の場合、徴収する。
この後、旧制中学時代はこの規則が継続したが、改正等は今の所不明である。
また、東京にも大正10年に「在京同窓会」、昭和16年には「桐中東京同窓会」が再発足している。

在校生の扱い
 戦後新制高校になってから「准会員」「準会員」と位置づけられ、会費等も高校入学時点から徴収されていた部分もあったが、現行の会則では、在校生は、会員として位置づけられていない。会費等も卒業時点で納入する。

維持会費
 維持会費を会費の一つとして設けてある。平成に入ってからであろう。
卒業して7年目以降の同窓生が1口2000円以上の納入である。
会則では、維持会費の納入が、会員としての必要条件であるかどうかは明記されていない。一種の協力・賛助・寄付金のようである。

同窓会名簿
 同窓会名簿の発行は
1923(大正12)年の「校友会雑誌」に一部掲載、これが最初である。
1935(昭和10)年 冊子として名簿発行
1941(昭和16)年 25周年にあたり名簿発行。
1952(昭和27)年 35周年にあたり名簿発行、戦後最初である。
 この後 現在まで数回の改正・発行、現在は「平成19年度版」である。
 なお、すべての名簿は、事務局に揃っていない。

 同窓会名簿をみて、ついつい勘違いすることがある。
@ 名簿の同窓生が、「すべて卒業生」と思ってしまうこと。
  一部の転退学生の氏名もある。逆に卒業生でその氏名が
  無い場合もある。同窓会名簿は「卒業生名簿ではない」
A 逝去されると、住所らすべて消去されている場合が多い。
  非常に不便な場合もある。
B 旧制から新制高校への転換にかかわり、氏名が重複して記載されている。
 これは、見る者が判断する以外にない。その事情は、これまでの校史にある。
C 名簿から、大学等への進学資料の参考にする方もいるが、
  名簿は最終的学歴であり、入学した上級学校ではない。
  また、学歴については記載なしの方も多く、名簿で調べ○○大学合格何人などとすると、大間違いである。
D 誤字・脱字はもちろん、所属する学年が間違っている場合もある。
  こればかりは、特に、昭和38年卒以前については仕方がない。
  ただし、39年以降についても幾つかはある。
*今後も同窓会名簿が発行されるかどうか?
 個人情報保護の問題もあり、恐らく今後検討されるであろう。
 同窓会事務局のパソコンに保存され、同窓生から問い合わせがあった場合慎重に判断し、名簿の一部分を提供するシステムになるのかも知れない。

幹事長 → 会長
 初代 暮田 福一郎(大正10年3卒 第一回生)
 二代 下山 長一郎(    〃       )
 *それぞれ在任期間は、不明。昭和15年前後には、下山氏が幹事長の時期もあり、また暮田氏が幹事長として挨拶している時もある。恐らく、暮田氏が応召された期間が有るのではと推測する。
 三代 岩野 新三郎(大正10年3卒 第一回生)
 *幹事長就任の時期は、不明。新制高校発足の昭和23年5月には幹事長であり、昭和24年1月に桐高同窓会(別名 水明会)と改名し
   同窓会会長となった。
 四代 吉田 光夫(大正11年3卒 第二回生) 
 *昭和35年頃か?
 五代 寺内 恒雄(昭和2年3卒  第七回生)
 *昭和39年頃か
 六代 田中 愛雄(昭和8年3卒 第十三回生)
 *昭和41年〜53年
   田中氏から会長の時期は判明している。
 七代 杉野 昇(昭和16年3卒 第十六回生)
 *昭和54年〜
 途中体調崩し 前原正一(昭和19年卒 第二十四回生)引き継ぐ同窓会名簿では 「後半前原正一、副会長代行」とある。
 もし記載するならば「後半、前原正一副会長、会長代行」と書くべき。
 90年史では 「第7代後半 前原正一」とあり、顔写真もあり。
 八代 塚越 平人(昭和14年3卒、第十四回生)
 *昭和55年12月〜
 九代 宮地 由高(昭和41年3卒)現在〜

追記
 桐高同窓会の「総会」「懇親会」は、年一回である。
このことは、それで充分である。
 しかし、ミニミニ同窓会は、沢山行われている。学年単位、クラス単位、居住地区単位等あるし、部活動のOB会もある意味「同窓会」である。極端に言えば、同窓生が二人で一杯やったとしても「同窓会」かもしれない。
そんなミニミニミニ「同窓会」で出た話題などが、情報として提供されれば、大変面白いと思う。それが、桐中・桐高「外史」の内容を豊に、面白くさせてくれるのではないかと思う。またまた我田引水であった。
 もちろん、情報源については、固く固く「守秘」するつもりであるし、特定の個人に迷惑をかけることは断じて避けることなどは常識、良識である。
posted by 100年史編集者 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学