2010年06月03日

其の十九 追記 篠崎予十郎

 どうしても、校歌の作詞者 篠崎予十郎についてもう一つ触れる。

1872(明治5)3月 東京生
1919(大正8)4月 桐中 着任 47歳
1933(昭和8)3月 桐中 退職 61歳
 その後の事は、分からない。

昭和16年、25周年記念式典
 〃27年 35周年記念式典
二回の記念式典が有ったが、校歌作詞者 元、本校國漢教諭篠崎予十郎の表彰は無かった。いや、もし有ったとしても辞退していたかも知れない。
その篠崎は、少なくとも退職してから桐生市清水町にお住まいになっていたのではないかと思える。

 俳句なので縦書きにしたいが、横書きでご容赦!

 緑は居や 主人は在らで 棕櫚の花    星野渡水
 句師さると きいてさびしい 晩の春    小山梧郎
 君行かば 熱田の若葉 色映えん     松島松風
 春行きて 句会淋しく なりにけり       〃
 畏れ師の 今なごやかに 老いにけり   白石まさお
 友さると 云わるさびしき 衣更え      和田まさ女
 両毛の 寄せてはかえす 緑はかな    石井岳南
 行く春や 老いて別るる 人ありき      萩原紫紅
 この夏は 赤城も見えぬ 別れかな     魚らん
  (緑は 漢字変換出来ず 失礼 篠崎の「号」。
   仲間達の送別の句会での句である)

1951(昭和26)年5月 篠崎が名古屋の子息龍夫氏の元に転居する。
篠崎 79歳である。この年、魚らんの記すところによれば、篠崎夫妻共に肺炎となり「地獄の一丁目」まで行って戻ってきたとある。それが契機となり桐生の住まいをたたみ、名古屋に移ったのかも知れない。

 この句会の後、篠崎が魚らんの所へ送ったと思える句では
年毎に 増す淋しさや 老いの秋

 この句会は、昭和26年、「緑は」を宗匠として、病気療養中の魚らんが
同僚たちを集め、白石まさおが印刷などの下働きをして始まったらしい。
もともとは、戦前の「緑は」を中心とした桐中「無名会」、その延長である。
そしてこの句会は「花桐」と名付けられている。

 星野渡水=星野辰雄 在職大10.2〜昭7 昭12・14講師
           英語 「おぼん」である。
 小山梧郎=小山聡作 在職大11.12〜昭24 
           地理・音楽等 「アンパン、卵」
 松島松風=松島利一郎在職大10.12〜昭和17。26〜40講師
           体育 「万年伍長」
 萩原紫紅=萩原英雄 在職大9.6〜12。昭3〜21
           図画 「カタキン」
 石井岳南=石井坦  在職昭3〜8 数・理  「さる」
 和田まさ女=小山聡作の姉
 魚らん  =館内光 在職昭2〜13。17〜34。「雷、マユ玉」
 白石まさお=白石正男 昭6中卒、在職昭22〜49 国語
   (在職期間等の詳細略)
 その他 多くの先生方が「花桐」句会に参加するようになった。
 昭和30年前後から数年の間である。
 その恩師達の「俳号」のみ記す。一体だれであったでしょうか?
 右の恩師名と線で結んで下さい

  翠嵐    山児   恩師名 中曽根敏夫  阿形一三
  汀城    凡平         宮前定四郎  佐藤龍治
  桃水    風外         吉永邦広    斎藤雁夫
  源氏蛍   臥龍         志村源太郎  小野辰雄
  龍雨    蕗村         太田隆善    和田邦男
  桐男    子庸         原勢芳太郎   森芳一
 恩師の皆さん なかなかしゃれていますが、何人かは検討つきます。
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2010年05月20日

其の十四 校旗

 1920(大正9)年10月11日、桐生中学校「校旗」が学校に届いた。
デザインは、長沢時基講師の手によると言われる。制作所・費用等すべて不明である。この校旗には、断定できないが、桐生中学校という文字は入っていないようである(他中学の場合も学校名は入っていない学校もある)。
 10月12日に、校旗の推戴式を行い、町内各神社へ参拝、帰校後校庭で分列式を行う。町長・助役・書記、小学校長も来校したらしい。
 10月17日、第一回運動会にて、「校旗」入場が行われ、町民等に披露された。
 校旗の制定も、校歌と同様に中学校では、主に大正時代に入ってから制定された。
 この校旗は、第一回卒業の集合写真撮影の際、生徒(総代)の手に抱えられ写っている。
 校旗に係わる感想などは未発見であるが、前中では「嗚呼燦れる哉、我校旗よ、六百の学徒は茲に其精神を社会に標するものを得たる也」と記す(大正5年)。
富中では「…わが富中の象徴であって、吾等の意気と力を示すものである…校旗を中心に…校風を一新し以て本校の光輝ある歴史を一層光輝あるものにして…」と、校長訓辞があった(昭和7年)。

 「校旗」は、入学式、卒業式、記念式典等の時に、壇上に置かれたが、桐中の80年史によれば「校旗を卒業生代表の手で抱きかかえられて撮影されている光景は、本校の伝統となり校旗が焼失されるまで続けられた」とある。
確かに、各年度そして昭和20年3月の中学五年制・四年制生徒卒業の二枚の卒業写真には、共に校旗が生徒の手に抱えられている。
ところが、21年四年制卒、22年の五年制卒の卒業写真には、「校旗」は無い。
20年8月15日を以て「校旗」は「日の丸」と一緒に消えたのか?
そして、新制高校になり「校旗」と共に写っている卒業写真は、今のところ未発見であり、多分そうしたことは行われなかったのではなかろうか。

 23年4月1日、新制高校発足。
「中」字が「高」となった新たな校旗が作られたが、いつ、どのような経緯で作られたか、分からない。「そう言えば、デパートに注文したかな? ロータリーを下った所の周東旗幕店? だったかな?」という記憶しかないという。
他高も新制高校発足以降の校旗制定に関しては、全ての高校が経緯を記載しているわけでもない。
そして桐高は、39年3月の学校炎上。
 この時、二代目の校旗も焼失し、恐らく校長室に保存されていたであろう初代の校旗も焼失したと考えられている。
 まさか、昭和8年の神宮大会優勝の時、主催者の時事新報社長から副賞として贈られた「刀」、そして10年三連覇の際の「楯」のように、ひょっこり生きのびて、火災の後に姿を現すようなことは、ないであろう。
 現在の校旗は、昭和40年に製作されたと言われているが、これまた、今のところ その経緯についての記録は未発見で、今後調査をしたい。

別記 学校改革
 外史其の十は、4月末にまとめ5月7日にパソコン上に記載された。
その最後に「のうてんき」に外史など書いてはいられないということを書いた。
今日5月13日、県教委は、2009年に設置した「県高校教育改革検討委員会」の提言について発表した(毎日新聞群馬版)。
 提言は、生徒数減少に伴う現在4学級未満の13校の統廃合、男女別学の16校の共学化の推進を求めているとある。
 桐生市、市周辺では、「桐生女子高校」、「大間々高校」が挙げられている。
果たして今後どうなるか? もし、改革があれば、上記二校の改革に止まるものでなく、市内高校の改革、改編等に波及することは、火を見るより明らかである。
桐高は「男女共学による理数科設置」を実施したから変化はないだろうと考えていると、また、サプライズ! てなことになるかも知れない。
 今、同窓会が桜基金を募集し、桐高に桜の名所を作ろうという計画が進行し始めたが、成長した桜の花の下を通学する生徒は、どのような生徒達になるのであろうか。(5月13日 記す)

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其の十三 続々 校歌誕生

校歌 二番
     草むす屍 大君の  
     御楯となりて 薨るとも
     背に矢をば 立てさりし
     健く雄々しき 上野の
     丈夫の こころもて
     学ひの道に いそしまむ

 昭和20年8月15日終戦、敗戦という事態の中で、国、県は次々と指示をだす。11月8日、県内政部長の通牒
 「終戦に伴い学校経営上留意すべき諸件」15項目のうち
  校歌校訓 その他教室等に掲載の掛図等に付 戦時色あるもの再検討を要す。不適当のものは訂正、或は削除の必要あり

 この通牒により、恐らく「校歌二番」は、歌われなくなった。
多分昭和20年4月の入学生が歌ったかどうかというところであろう。
それ以降の生徒は、二番を知らない。 そして、学校の公文書あるいは準公文書類は当然、校歌は、制定された一番と三番を、一番二番としている。
但し、「幻の二番」は、最近の同窓会名簿や70年史、80年史、90年史に記載されている。

他校の例では、
前中は、「文武の誉れ」を「文化の誉れ」とする。後に戻す。
沼中は、「皇国に尽くすべく」を「青春の志をなすまでは」とする
    (「皇国に…」は、昭和14年県への申請の際、「清俊の資をなすまでは」を変更し
     提出したもの)
館中は、三番の復唱部分がどうなったか分からないが、昭和36年新校歌制定
桐工は、二番を削除し 新たに二番を作る。
渋中も、戦後新校歌を制定する。

 さて、問題の二番であるが、
改めて記すこともないが、この歌詞の元となっているのは、
万葉集の
「海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」
「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜のみ楯と 出で立つ我は」
であろう。

「背に矢をば立てざりし」は、未だ確定できないでいるが、平安時代の警語として「額に立つ矢はあれども、背に立つ矢はなし」が挙げられ、江戸期にかけ使われたとも言われている。

「海ゆかば」は
明治初期、海軍、また陸軍で曲が作られ、愛唱されていたようである。しかし、この「海ゆかば」が国全体に広められていったのは、
昭和12年、「国民精神総動員強調週間」に組み込まれラジオ放送で、「君が代」につぐ歌として流され始めたからである。
16年12月8日、開戦の臨時ニュースの後、夜6時半から、まず合唱の第一曲目が「海ゆかば」で、「武人の決意」を表明したのか。しかし
17年、ハワイ攻撃の特殊潜行艇によるよ9人の死亡=軍神を伝える時に、
「黙祷用伴奏曲」として「海ゆかば」が流された。
さらに19年前後から「玉砕報道」の曲として流れ、遂に鎮魂歌となった。

「…醜の御楯…」の万葉集の一首が、「愛国百人一首」と一つに選定されたのは17年のことである。

 篠崎予十郎が、万葉の歌や警語や言立を織り込み、作詞することは、明治、大正時代を過ごし、その教育を受けまた研究してきた篠崎予十郎にとっては、あるいは、容易であったかも知れない。しかも「上野」「丈夫(ますらたけお)」を配し、(しかし、中学生は)「学びの道にいそしまん」で結んだのである。感嘆する以外にない。
 果たして、篠崎は、強い天皇制賛美、軍国主義・超国家主義的思想を持ち合わせていたのであろうか。
当時、篠崎の書かれた吟行、紀行文、俳句等々には、そのような政治的、思想的な言辞は一片もない。昭和8年退職後の生徒宛通信(先述)も
「諸君もどうか正直に素直に朗らかに真面目に学業に精励して国家の有為な人材となって下さい 勿論健康にも注意して…」と。

 しかし、日本が戦争への道を歩むことにより、天皇制軍国主義下における
「臣民の本分」を顕す恰好の「歌詞」の役割を果たしてしまったのである。
篠崎も自らの歌詞が時代というものにはまりこみ、そして「幻の二番」なることを予想していたであろうか。88歳の長寿を全う為された先生のお話をお聞きしたかったが、遅かった。
 また、今週のことであるが、篠崎先生は、なんと昭和26年夏頃まで、市内の清水町にご夫妻でお住まいなさっており、その後名古屋のご子息のもとに移られたという記事を発見した。戦後、先生を俳句の「宗匠」として交友(交遊)されていた桐中時代の同僚(先生)の方々も、皆逝去され誰もいない。

付記
 森平三郎(森宗作の子で、羽仁五郎の兄。桐高工教授、
米沢高等専門学校校長)晩年の随筆集「雑草苑」によると、
 「校歌は、その学校の精神や意義・主義、理想や主張などが出て、高らかに歌えればそれで充分。また精神教育の手段でなく、機械的にお題目のように歌わせたところで効果が上げられるとは限らない。
  卒業して歌ったり聞いたりした場合、まず心に浮かぶのは、その歌った「若き日にまつわる思い出」であり、それが我々を楽しませ鼓舞し励ますのであって、「りきみかえった歌詞は、我々にとって特にどういう程度の必要性もなく、思い出のきっかけであれば足りるのだ」「問題は、その切っかけによって思い起こされる学校生活そのものの質や量にある」と。
従って「自分の学ばない他校の歌は、それが詞曲に優れたもので有ってさえ、格別の感興は湧くはずもない。要は歌ではなく、中核たるべき生活そのものだと私は思いたいのである」と語っている。

 *「校歌」については、28年卒の久保田穣氏に「ちょぼくれ」60号で書いていただいています。群馬文学集団の発行です。
 *「幻の二番」は、歴史的事実としては、明記して置くべきでしょう。また、その時代に過ごした同窓生が、何かの機会に歌うことも、自由であります。しかし、歌って来なかった同窓生が歌わされることはないし、個人の自由であります。当然、現在の学校にとやかく言う問題ではないと、個人的には考えます。
 「幻の二番」がなくても、校歌は素晴らしく永遠であります。

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2010年05月13日

其の十二 続、校歌誕生

 校歌の作曲者は、東京音楽学校(現、東京芸術大学)の教官である岡野貞一であった。岡野に作曲を依頼した経緯は分からないが、当時多くの校歌、寮歌など、音楽学校に依頼する学校が多く、桐女も、桐生高等染織学校(現、群大工学部)も、学校に依頼している。その経緯で、桐中も、学校あるいは直接岡野貞一に依頼したと思われる。
 但し、岡野が「春の小川」「故郷」などの唱歌・童謡歌として活躍していたからとするのは、間違いである。当時文部省唱歌の作曲者は明らかにされておらず、また現在でも多くの文部省唱歌の作曲者は100%確定されてはいない(唱歌の作曲者名が明らかになるのは、戦後である)。
また、現在保存されている芸大の資料には、正式に音楽学校を通して桐中が依頼した依頼文等(桐女の依頼文)もなく、恐らく、岡野に直接依頼したものであろうと推測される。当時、そのような事が多く有ったといわれるので不思議なことでもない。

 現在80年史や同窓会名簿に有るのが、「原曲」の写しではないかと考えられている。これは、80年史編纂の時期に、故 河原井源次氏が提供されたものであるらしい。
 このコピーの楽譜、文字等を検討すると、岡野が関与した他校のものに類似しているし、あるいは岡野の直筆ではなく音楽学校の庶務係なり事務官が次々と書き、送ったものである可能性がかなり高い。
 そして、この曲風であるが、
斉唱ではなく合唱曲として作曲されていること
教会音楽のコラールのような響きを持っていること(これは、岡野が熱心なクリスチャンであり、教会で聖歌隊を指揮していたことは知られている)
また、この楽譜のような編曲能力を持った人は、相当なレベルの人でなければ出来ないこと等々、
 恐らく、岡野の直筆かどうかは別として、岡野貞一の作曲、その楽譜と判断して大きな間違いはないだろうと思える。
 以上の多くは、桐高吹奏楽部顧問の加藤恵氏より紹介された、平成11年卒業の周東美材氏の調査並びに私見による。
 なお、過日桐高応援団OB会の小倉氏より問い合わせ、依頼があり、岡野貞一の記念館「鳥取県わらべ記念館」に持ち合わせの資料を送り、且つ学芸員の方に桐中校歌の検証をも依頼した。未だ回答はないが。

 さて、その校歌の曲風であるが、時代の変遷と共に変化してきたらしい。
一つには、音楽の専門家など桐中にいなかったこと
二つには、式場歌として歌われるだけでなく、運動会、遠足などでも当然歌われ、更に、合同野外演習やその帰還時の行進等の時にも歌われていく中で曲風は大きく変化していく。
三つには、変化していくなかで、幾つか音符も変化して記載され、微妙に旋律が変わっていく。
 現在一般に歌われるのは、昭和53年春夏甲子園に出場した時の音楽教師常葉純の編曲したものをベースとして、その後、高橋龍右の編曲したものが「学校要覧」「桐高ホームページ」等には記載され、使用されているのである。だが、現在の曲風の細かな部分について、若干異論をもつ同窓生もいるのである。

 願わくば
原曲に近いと思われる楽譜に基づいた校歌を歌い録音して欲しい。
学校の式典、学校行事で歌う曲を最終的に決定して欲しい。
 もちろん前奏等は原曲にないのだから、編曲して欲しい。
日常のテーマ曲、応援歌として使用する場合は、当該の音楽教師や吹奏楽の顧問などの編曲等に委ねて欲しい
 と考える。
勿論、学校当局の判断による。

posted by 100年史編集者 at 15:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 校旗・校歌

其の十一 校歌誕生

 校歌については、後で纏めて触れるつもりであったが、急遽少しだけ触れておこう。
というのは、この四月初め上毛新聞の「心のふるさと 群馬の校歌物語」という企画記事で桐高の校歌も取り上げられた。内容については特に問題はなかった。ところが、4月29日の上毛「ひろばワイド」という読者の投稿欄に「私の中の校歌物語」と題して原沢礼三氏の投稿が採用されている。原沢氏は、桐中の大先輩であり且つご本人も書いているように「桐高80年史の刊行の時、校旗と校歌を担当。桐高の校舎火災で資料は焼失しており、まとめるのに苦労」されたわけである。
 ところが、校歌は「1923(大正12)年に生まれた」とお書きになっている。また、桐女の校歌についても、「大正5年ごろ」とされている。
 しかし、原沢氏が執筆した80年史では、桐中の校歌は「大正10年の秋」とし、桐女は「大正7年5月ころ」と書かれているのである。
それが、なぜ今回変更されたのか?
 誤記か、誤植であって欲しいと願わざるを得ない。

 桐中・桐高に関する資料は、昭和39年3月の学校炎上によりその資料が無くなり、細かな部分は判明できない事が多く且つ「校史」編纂ということが、それまでほとんど行われて来なかったことにもよる。
 一般的に言えば、「通史」らしきものは、毎日新聞社前橋支局が長期連載企画で「高校人脈」を連載。桐高編は、昭和50年10月から49回に及んだ。それを基に増補改訂し「高校人脈―群馬県立桐生高等学校編」として昭和52年1月に刊行されたのである。
 それは、初めての「通史」であり、新聞社という組織の力を遺憾なく発揮し、多くの旧教職員、同窓生の聞き書きなどもふんだんに取り入れたものであった。
しかも昭和50(1975)年前後と言えば、大正10(1921)年卒業の同窓生も70歳過ぎた年であり、充分取材などが可能であった。
「80年史」は、2000年の刊行で「高校人脈」から25年後である。桐中時代の初期については、大変資料収集が困難と思える中で更に厖大な資料、聞き書きを行い、学校として「校史」である「80年史」の刊行にこぎ着けた労作である。
 そうした経過もあり、80年史にあっても、エピソードなど聞き書きの部分は、「高校人脈」参考にしている部分も少なくないのである。
 そこで「校歌」について「高校人脈」は、「大正10年の秋、
…校長の斎藤重保…篠崎予十郎を呼んで
『キミ、ひとつ作詞してくれ。ただし、大和言葉で雄健なものを頼む』と念をおした。」「その年の暮れ、全員が講堂に集められて校歌発表指導会が開かれた。」とある。これはもちろん新聞記者が書いたものであるが、その取材源は? 
考えられるのは、「89歳でご健在」であった石井定雄先生ご夫妻からであろうと推測できる。
と同時に、「高校人脈」より古い昭和41年8月発行の「桐高同窓会報―創刊号」である。そこに、大正12年卒で、昭和3年〜24年まで母校の教壇にたった藤倉喜代丸先生の回想記があるのだ。そこで藤倉が「斎藤校長が…篠崎先生に依頼して今の校歌を作詞させたと云います。…校長は大和言葉で雄健なものをと注文した…」と書いているのです。大正10年当時、藤倉は生徒でしたが、母校に奉職し、当然篠崎先生とも接触があり、また、昭和15年7月、不意に桐生に姿を現した元斎藤校長と夜を徹して談笑したとも書いており信憑性は高い。
「高校人脈」の記者は、明らかにこの藤倉回想記を土台にして書いたのだと断定していいのかも知れない。

 こうして、作詞・作曲が行われ、「秋に」そして「年の暮れ」に発表会という流れが定着したのであるが、「校友会誌」の創刊号が、島田一郎(昭和24年高卒)氏により発見、その中に大正10年10月10日「桐生高等女学校教諭伴氏来校校歌ヲ本校生徒ニ教授ス」とある。年の暮れどころか10月であった。
斎藤校長が桐中に着任したのは、6月11日そして作詞、作曲で4ヶ月後には発表、練習である。音楽専門学校の岡野貞一には、手慣れたものであったかも知れないが、「苦吟の末」(藤倉)と云われる篠崎先生は大変であったと思うが、素晴らしい校歌が作られたのである。
 
 なお原沢氏が、校歌作成について「創立間もなく校歌がないことをふびんに思った斎藤校長が…」と書かれているが、この「ふびん」という文句は、どのような文献に、誰が書いたものなのか? 分からない。
詳細は省くが、旧制中学の「校歌」「校旗」の制定、作成というのは、基本的には、大正時代に入って始まったと言って良い。個人に於ける「自我」の確立、個人の自覚と同じように、平易に言えば、教育勅語のもとにその存在と意義を求められていた中学校にも、自分達の中学は、俺達は、という個性、あるいは今流に言えばアイデンティティが芽生えて来たという時代背景の中に、校歌・校旗等の成立を位置づけるべきであろうと考えたい。
 すでに、大正8〜9年?に、生徒の小林可人が歌を作ったし、大正10年4月1日の市制施行の祝賀会の後の市内提灯行列では、原口清吾教諭の作った歌が歌われたと有るように、「校歌」制定の気運は盛り上がっていたといえよう。
 ちなみに、前中、前中から独立し10数年の歴史を持つ他の中学の校歌は
    前中 大正 7年
    高中 大正 8年(応援歌「すいらん」)
            (大正4年の校歌に曲をつけたのは昭和5年)
    太中 明治37年 行軍歌と式場歌
    藤中 大正 3年
    富中 大正 6年 行軍歌と室内歌
    沼中 大正12年

 最後に、作詞の篠崎予十郎について触れる。
篠崎先生は、沖縄第二中から赴任、そのためか生徒は「ハブ」と名付けた。
先生は、1972(明治5)年3月8日東京,下谷の龍泉生まれ
無試験検定で資格を有し、高松、真岡、神奈川の中学教諭を経て、
明治43年群馬県立農業学校に一年、更に川越中から大正6年沖縄第二中に赴任、2年後の大正8年4月桐生中学に國漢の教師として着任する。47歳
この間、東京帝大の公開講座に参加している。
 ホトトギス派の俳人として号は「緑は」。「は」は、「波」の さんずいを、土偏にした文字。
桐中在職中、大変厳格で、ご子息の達夫(大正12年卒)氏は、「激しい気性で生徒はもちろん私でさえいつもピリピリ感電したように首をすくめていた。…晩年はおとなしくなり好々爺でした」と、語っている(高校人脈)。なお、達夫氏は同級生から「子ハブ」言われている。館内光教諭(昭和2年着任)は「古武士的な風格のある頗るつきの厳格な先生でした」しかし「ユーモア」もあった(桐高同窓会報第2号、昭和42年刊)と。
 当時の校友会誌でみると、職員仲間で句会をしたり、毎年のように吟行、そして紀行文を残している。大変格調高く、落ち着きのある文体である。しかし、自ら作詞した「校歌」については、何も書き残していない。昭和8年3月御退職61歳であった。生徒は惜別の辞を述べているが、何故かこれまた「校歌」については触れていない。
篠崎は退職直後の生徒宛通信で「…御校在職の唯長かったというだけで何一つお土産らしきものを遺さなかった事は誠にお恥ずかしく存じますが今更致し方がございません。…寝たい時に寝起きたい時に起き読書…散歩…下手な俳句をひねってみたり…出鱈目な文を書いてみたり…腹が膨れれば大ッ平らで屁も放たれるし…楽しい日を送」り「最初は著述でもと思ってみたが…浅学非才…もしか嘘を書いて後進を過るようなことがあっては死んでも申訳がありませんからやめました。私は偏屈な男ではありますが、インチキは大嫌いです随って有害な嘘と坊主の頭とはゆったことはありません(諸君を導く方便にはちょいちょい言いますがこれはお釈迦様でも咎めますまい ご自分もお言いだから)。
諸君もどうか正直に素直に朗らかに真面目に学業に精励して国家の有為な人材となって下さい勿論健康にも注意して…」(昭和8年)
「山紫にあけそめて……学びの道にいそしまん」この永遠の校歌の作詞者
篠崎予十郎のお人柄、教育理念をこの手紙は はっきりと示しておられるのではなかろうか。
先生は、1960(昭和35)年、88歳で逝去された。

 追記 
幻の2番と言われる「草むす屍大君の…」については、あらためて記す予定
また、作曲についても稿をあらためる。

posted by 100年史編集者 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 校旗・校歌