2010年12月24日

其の五十 もう幾つ寝るとお正月

 2010(平成22)年の師走、世の中は迷走するかのようにして新年を迎えようとしている。これでは一年の計も立たないかもしれない。
 学校は冬季休業に入る。
冬季休業は、明治時代から12月25日から1月7日までというのが基本になっている。もちろん、学校の始業が4月から始まり、三学期制をとり始めたのも明治時代からである。
 1月1日は、当時、皇室行事の「四方拝」にちなみ「四方節」と呼ばれ、紀元節・天長節と合わせ三大節と呼ばれ、一月一日は「休日」ではなかったが学校で式典が挙行された。また1927(昭和2)年、明治節が制定され四大節となった。
1918(大正7)年1月1日 新年拝賀式挙行(教務日誌抄)、毎年元日には学校に登校した。
 式次第
  一 生徒職員順次入場
  一 校旗入場
  一 一同敬礼
  一 御真影開扉 最敬礼
  一 国歌合唱
  一 学校長以下御真影奉拝
  一 勅語奉読 前後最敬礼
  一 御真影閉扉
  一 学校長式辞
  一 一同敬礼
  一 校旗退場、職員生徒退場
  一 神宮参拝
     (館高五十年史)
   
「元日の朝、登校の途中、色々な事が頭に浮かんできた。先ず第一に此のお正月をどんな風に過ごそうかなどとつまらない考えが浮かんで来た…」(昭和4年「桐中校報」、二年井田勢猪蔵=  代桐高校長)。
「君が代、校長先生の訓話があって後、解散した。家に着いたのが昼頃であった。…夜はカルタ・双六等をして楽しく第一日を過ごした」(二年大澤秀寿)。
多くは学校に登校したが、地元の小学校や青年団と共に祝ったり、中には、実家・故郷へ戻ったり、スキー場で新年を迎える生徒もいた。上級生は?
「…既に陸士の試験は始まり海兵・高師の試験を目前に控えて死にもの狂いで奮闘する人々の事を思えば、如何に無神経な者といえども頑張らざるを得ない。…これからの三月がものを言うのだ。だから今の僕には歳末も正月もない、僕の正月は四月だ」(昭和11年「桐中校報」四年沢辺正治)
「あと僅か五十日程の勉強が運命を支配するのだ。…この冬も正月気分を味わずに奮闘した」(四年前沢実)

 1941(昭和16)年の四方拝拝賀式には、陸海軍諸学校の先輩、高専先輩等多数参列する。
「皇紀二千六百第一年の元旦にも多数の先輩が、軍靴の音も厳かに本校に臨席せられた」とあり、昭和15年元日も諸先輩が臨席したことが窺える。
「…軍装きらびやかに陸海軍諸学校在学中の諸先輩がわざわざ列席せられて、一段と光彩を発って下さることは、本校近年の微笑ましい恒例である」と。
この日参列した陸軍士官学校在学生三人の内、二人は後に散華した。

 昭和20年は?
4・5年生は、尾島工場に動員、3年生は市内工場に動員という中で、
19年12月30日 「正月に帰省出来ないという話がありがっかりしていたが、帰れるようになったので嬉しかった」
20年1月1日 「十時四方拝に参列するための登校、校長訓話あり」
   1月2日 「中番(早番・中番・遅番という三交代制のことか)なので九時四十九分発の電車で尾島に帰る」(四年、藤掛日記)
*この年末「正月休みに帰省なしの連絡を聞き、集団脱走を企画・実行した者があったが直ちに召集され、奉安殿の前に土下座させられ厳重注意を受けたと聞く」(四年藤沼博、「80年史」)。この件に関しては何人かの進路変更が迫られたという証言も聞いているが、詳細は不明。

21年は、太中の記録では「挙行、外套使用許可」とある。
前年の12月26日に、御真影奉還に関する通達に係わり、
「来る一月一日の式場には奉還すべき御真影は奉掲せざること」とあり、式は実施されたと思える。

22年・23年、新年拝賀式は、挙行されなかった。
また、両年とも紀元節・天長節も挙行されず休日となった。22年の明治節は、新憲法が発布され、学校では桐工との野球試合があったという。
明治節の式典、或いは憲法発布の式典が有ったかどうかは不明である。
23年7月、以前の「休日」に係わる勅令は廃止となり、新たに「祝日」に係わる法律が制定され、一月一日は「祝日」となったのである。

追加 
国の祝祭日で休暇日とされたのは、1973(明治6)年の太政官布告に始まり、改正が重ねられ昭和2年の勅令による「国の祝祭日」で「休暇日」は、
 元始祭    1月 3日 (学校は冬季休業中)
 新年宴会   1月 5日 (   〃    )
 紀元節    2月11日 学校、その他で式典等あり
                           →建国記念の日
 春季皇霊祭   春分の日 (学校は休日) →春分の日
 神武天皇祭  4月 3日 (学校は春季休業中)
 天長節    4月29日 学校にて式典あり→みどりの日
                           →昭和の日
 神嘗祭   10月17日 (学校は休日)
 明治節   11月 3日 学校、その他で式典・体育行事あり 
→文化の日
 新嘗祭   11月23日 (学校は休日) →勤労感謝の日
 大正天皇祭 12月25日 (学校は冬季休業中)

旧制中学時代に実質的に休日となったのは祝祭日の内、3日であり、開校記念日(創立記念日)は、主に休業日とした場合が多い。
現在は、祝日は15日、また土曜・日曜日が休みである。
*なお、旧制女学校などにあっては、更に「皇后陛下御誕辰日」が、「地久節」と呼ばれ、昭和前期では3月6日であり、休業日となっていた。
年間授業日数を挙げると
  昭和10年前後   255日 プラスα
  昭和30年代    244日 前後
    最近      200日 前後

***桐中・桐高外史を4月から9ヶ月、50本の記事を掲載させていただき有り難うございました。
同窓の皆様から何かと御批判、御感想をいただけると思っていたのですが殆ど無く、何か一方通行のようでもありました。
同窓会のホームページであり、100周年誌の下書きの様な面もあり余り情緒的に、或いは個人的感慨として触れることは、出来るだけ避けてきましたので、面白みに欠けたかも知れません。これが個人的ブログであれば、事実・史実に基づきながら、ハチャメチャな事を書くことが出来たのかもしれません。難しいことであります。
来年(2011年)からは、どうしたら良いものか、小生も
「一年の計」が立たないかも知れない。とりあえず

皆々さま、
皆々さまは、ぜひ良いお年をお迎えください。

           2010(平成22)年12月24日
            桐中・桐高外史担当 木本 富雄
                      (昭34年卒)
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2010年10月07日

其の三十八 帽子・帽章

 2〜3ヶ月前になるが、桐高事務室に、帽子・帽章、特に昔の帽章は手に入りますかというお電話が同窓生から有り、事務室では、現在は、ないのですと答えたということであった。

 1917(大正6)年4月11日の町立桐生中学校開校、第一回入学式の時に、新入生が決められた帽子を被っていたかどうか、それは不明である。渡部初代校長が着任したのは3月30日であり、その時に既に細則が制定されていたとしても、入学者の発表が4月8日であり、制服・制帽等を保護者が準備するのは、かなり難しいと推測する。
 開校当初の「生徒心得」の「第一章 服装」には、
「一 登校のときは、必ず制服制帽靴を着用すべし」とある。
翌大正7年度の初め頃、教職員と生徒全員の集合写真が残されている。
その写真では、生徒は全員帽章のついた帽子を被っている。面白いのは、教職員もすべて帽子を手にしており、教練の坪内鋒三郎は軍服軍帽を着用し写っている。
 この後、帽子は登下校の際、着用は義務づけられていた。戦争末期、昭和20年3月の卒業式集合写真を見ても、生徒は帽子を被っている。一部の生徒が帽子を被らず、また「戦闘帽」などを被っているのは、戦後初期である。

 「旧制中学」から「新制高校」に移り、帽子は変化なく帽章の「中」が「高」に作り替えられた。
 昭和31年の入学生への通知には
「帽子は本校規定の型でなければならない。帽章、学年章、バッジは本校規定のものを規定の位置に附けること」
 昭和34年の「学園生活の心得」には「帽子は本校所定の型のものを着用する。無帽で通学してはならない。」とある。
小生の同級生の一人は、頑として無帽で通し、一年の頃は大分上級生にこづき回されたようであった。最期の写真撮影の時は多分来なかったと思う。

 これが変化し始めるが何時かは断定出来ないのだが
昭和38年の「学園生活の心得」では、
「帽子は本校指定の型のものを着用する」とだけある。
昭和43年の修学旅行の写真では、約半数の生徒が帽子着用
    45年の修学旅行では、約三分の一位か?
    46年の修学旅行では、1クラス数人か?
昭和49年の「学園生活の心得」では
 「帽子は本校指定の型のものを着用する」
生徒手帳が全て保管資料として無いので、「帽子」規定が何時消えたのかは分からないが、実際には、40年代半ばには、帽子着用を生徒はしなくなったと思える。

 それ故、桐中・桐高の帽子・帽章を手に入れようとしても、なかなか困難である。
 もちろん、現在の「生徒心得」には、「頭髪・装身具について」の規定はあるが、「帽子・帽章」についてはない。

なお、帽子等については、戦後であろうか? 指定業者があった。
桐高新聞(1号〜100号)縮刷版の新聞広告で見る限り
 「洋傘と帽子はゼヒ当店へ サトウ帽子店」昭和24年7月の第6号に始まり、「サトウ 帽子洋傘専門店」昭和46年3月の第82号で終わっている。
長い間、お世話になりました!

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2010年06月17日

其の二十二 学校長直筆の訴え

 父兄保証人殿
 「皆々様、益々御健康の御事と御喜び申し上げます。……私達教職員は本校に職を奉じた以上は皆さんの御期待に添う事の出来る生徒を作りたいのであります。…御家庭に於いても…何分の御配慮を御願い致します…」
       
 B4版約7枚に及ぶ学校長直筆の訴えである。
直接の引き金となったのは、9年2月、新聞に発表された事件である(上毛新聞昭和9年2月14日付)。
「暗闇に潜んで通る 女を脅かす少年」「桐中四年生で親は官吏と宗教家」「桐生の学生風紀頽廃」との三段抜き見出し四行。どこまでの犯行か明確ではないが、昨年12月頃から3人が一緒に又は個々に「逃げる娘を追いかけて悲鳴をあげさせて不都合な悦に耽っていた」と。
 そして最近桐生の中学生が制服制帽で映画館やカフエ等に出入りするものが相当あり「着任以来鋭意風紀刷新に力を入れていた伊藤校長はこの不始末の暴露に驚き断固とした方針で軟派分子を一掃する」と。
 何と言っても旧制中学生は、エリートとまでは言えないが、エリートの卵だ。一小学校から何人も入れない時代で、新制高校とは違う。大変なスキャンダル事件だ。勿論前中をはじめ他中でもしばしばあり、桐中だけではない。
この事件は、前高103年史には「桐中女性脅迫事件」とあり、桐高80年史には記載がないので、外史として書いておく。

 学校長伊藤は述べる。
「…残念な事に後から後から同じ様な悪行為を繰り返す者が出て…試験の際の不正行為、上級生が下級生にリンチ、喫茶店にカフェに出入りする、活動を見に行く等々……鋭意苦心し…校風も稍改まりましたが…永い永い間の悪風習は中々一朝一夕では改むべくもありません。」
 学業については
永年の悪習慣の為か自学自習の美風が欠けているのであります。学科の予習復習をやらなければ決して実力を養うことは出来ません。…三文辞書を見たり他の生徒のノートを借りて一時をゴマかす様では…。本年は、陸士一名、桐高工二名、三重農林一名だけでした。高等学校は残念ながら一人も入学できませんでした。」
 生徒の体質について
「…生徒の体質が前任校と比較し、大変な相違で月とスッポン程の違いであります。…多いときで25〜26人、少ない時でも10名を降ることのない(欠席者)、(その原因は調査中)。…校庭で5分間も訓示しますと1〜2名は脳貧血で倒れる、…寒い時にもドシドシ倒れる、驚かざるを得ない」
 学校と家庭の連絡について
教師の家庭訪問は全てにわたり実施はできないが、必要の際はやりたい。
家庭の方も進んで学校にお出でください。
家庭では、学習状況、交友の選択とその状況・通信、夜間外出と服装、教科書以外の読み物、禁煙禁酒、興業的観覧と飲食店への出入り、小遣い銭の支給など、特に気をつけて欲しい。
 更に勉強について縷々述べ、
「…学校は遊ぶ場所ではない。1年生だから余り勉強させなくても好い、勉強させては可愛想だなどと考えて…子供の気ままに委せて遊ばせて置く、之が間違いの第一歩であります。見通しの付かない目先の小さな愛が子供の気ままなヤクザにするのだと申しても過言ではありません。…自学自習は本校の校是であります」
伊藤学校長は「臭い物にはフタ主義を廃して赤裸々に申し述べ」
「学校と家庭とが打って一丸となって指導しても…なお学校の名誉を汚すような行為があった場合…断固たる処置をする、少数の為に多数の生徒が犠牲になることは、悪の極みであり」
「私校長個人としては本校の為に自分の身は捨てて居るのであります。本校の為に身を捨てることが出来れば本望であります。職責も充分に尽くさずして職に恋々たる者ではありません。自分の所信は断行致す決心であります」と。
   昭和9年12月27日 群馬県立桐生中学校長 伊藤梧楼

 学校教育における「不易流行」の「流行」は、いつも一時脚光を浴びるが、
実は原点は「不易」の部分かも知れない。時代による差違はあるが、やらなければならない事に変わりはない。

 昭和11年3月発行の「校友会誌」では、上記の事件を受けて、4年生の神田忠五郎は記す。
「本年度始業の最初に当たって、本校には校風がない、目標として猛進すべき信念がないと明らかに耳にしたときに、私は何とも名状し得ない衝動を深く深く感じたのであります。おお、それは悲しむべき事実なのであります。この弱点にくい込んだもの、それは過去の某不詳事件でありました。…我々の覚醒であらねば…。この空虚な校風の中に立派な充実した精神的校風を造ったでありましょうか」と。旧弊を棄て、信念の確立、利己心を棄てよ「この伝統薫る迫力の中に新しい校風を打ち立てよ」と。
 5年生の礒正浪は「…桐生市民は我が校を指して何と非難しているか。…彼等の非難は、一部は当たっているが大部分ははずれている。…校風の確立は我らの団結と相俟って近き将来実現されるべく努力されつつあります。木村君はかく言った。桐中校庭を市の大道に延長せよ。桐中校庭に培われた厳正なる規律の精神一到何事か成らざらん市民の胸にたたき込めと」
「団結せよ、桐中健児」と。

 学校長伊藤は、これを契機として、築50年近くになる老朽化した校舎の全面的な改築も述べる。「同じ県立の学校でありながら…こんなミジメな状況の下で授業を受けて…僅か5萬や6萬の金にはかえられません。父兄の方が充分与論を喚起されて本校の改築が一日も早く実現することを希望します」と。
伊藤から始まった改築、移転事業は、昭和14年の美原町の新校舎落成、移転として実現する。
 また、こうした事態が生まれている中、野球は「第一期黄金時代」を築いていたのである。歴史の明と暗、光と影が、同時期を微妙に織りなすのも歴史であるが、その暗、影の部分も見逃すことは出来ないであろう。
なお、この昭和9年は、11月11日から「陸軍特別大演習」が群馬県を中心に行われる予定であり、天皇陛下も大元帥として御統監し、桐生市にも行幸される予定で、様々な準備が行われていた時期であり、一年も前から県全体で風紀粛正が強く叫ばれていた年であった。
その11月16日、桐生市への行幸の際いわゆる「ろ簿誤導事件」が勃発するのである。桐生市民は22日一斉に黙祷しお詫び申し上げたのである。(先導の警察官は自殺を図るが、命はとりとめる)。

 最後に、桐中開設の時期、1917(大正6)年4月、
開校2年目を迎えた桐生高等染織学校(現、群大工学部)の生徒入学宣誓式で、米沢高等工業校長と兼任した校長大竹多気は「…協同新事業の振起する土地、経済界の活動する土地には、勢い又風紀を汚濁するもの、少くも青年を誘惑するもの…盛んに行わるるものの如し。桐生の土地にも青年を誘惑すべき機関はなかなか尽くしおるようなり。斯くの如きは学生にとりては 決して喜ぶべき事に非ざるなり…」と、桐生町の特異点を喝破し、学生に「規律の核守」を覚悟せしめている(「書上タイムス」より)。
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2010年06月10日

其の二十一 校史資料整理

 最近は、「80年史」を読み解くことを諦め、資料収集も聞き書きも
たいして捗らず、徒然なるままに「外史」などという走り書きを、同窓会ホームページに連載しているだけであります。

 さて、基本的な資料を整理する(パソコンの印刷の関係で元号のみ)
大正 6年4月〜12年3月 「校友会誌」創刊号の「教務日記抄」有り
     このあと  → 欠
大正15年1月〜昭和5年12月  「教務日誌抄」有り
     このあと  → 欠
昭和 7年1月〜12年12月  「教務日誌抄」有り
     このあと  → 欠
     但し、13年1月〜14年6月 「○○氏日記」あり。
昭和14年4月〜17年 1月  「桐中校報」の「教務日誌」有り 
     このあと  → 欠
     但し、16年4月〜18年12月 「◎◎氏日記抄」あり
     
 旧制中学に係わる「群馬県統計書の学事之部」は、昭和14年度まで有り
19年度・22年度は一部分のみ。15年度は前高史に引用有り。

新制高校となる昭和23年4月以降〜39年3月2日学校炎上までは
 @ 基本的な資料としての「教務日誌」はないらしい。
 A 27・29・37〜38年度「学校経営要覧」、有り。
 B 但し、昭和20年5月〜27年3月まで 「△△氏メモ」有り。
昭和39年3月以降については
 @ 会議録等は保存されているらしいが、「教務日誌」は?
 A 各種資料に、断片的に欠落している年度 あるいは部分がある。

 *** 見つけたい資料、知りたい事柄など ***
 @ 昨年、昭24卒島田一郎氏により発掘された「校友会誌」創刊号に続く
  「校友会誌」2〜4号、9号の発見が待たれる。
 A 昭和19年1月〜20年4月までの「個人的日記・日誌・記録・メモ」
 B 卒業写真について、旧制中学は大正6〜(昭和23年を除き)全てあり。
   新制高校〜39年まででは、28・34年有り。その他全体写真はない。
   定時制は32・35あり、その他30年代なし。
 C 「桐高新聞」は、昭和30年代の43〜45 47〜48 53〜55
   57 67号が未発見である。
 D 修学旅行については、
  ・昭和32年、34〜37年(33年卒、35年〜38年3月卒業生)
   38年(40年3月卒)まで、日程等 充分に分からない。 
  ・50.3卒〜52.3卒の行程表不明
  ・定時制の 昭和33年、35年〜37年 日程など全く分からず
   行ったかどうかだけでも情報が欲しい。昭和48年 全く不明。
 E 入学式について 
  ・ 昭和20年4月の入学式の日付、どのような状況下で挙行されたか
   を知りたい(26年卒業生)。
  ・ 昭和27年4月入学式(30年卒業生)は、4月6日とあるが
   6日は、日曜日であったが? 日にちを覚えていますか
  ・ 昭和32年4月の入学式4月5日とあるが?(35年卒業生)
 F 通知表・通知簿では、特に昭和23年〜30年の定時制の
   実物が見たい。
   この時期の本校の定時制の教育課程が全く分からないでいる。
 G 運動会・文化祭関係では
  ・ 33年10月12日の火祭りの時、「後味の悪い事故」とは何か?
  ・ 34・36・38年の運動会は「分団対抗」であったかどうか
 H 卒業式関係
  ・ 昭和46年3月5日の卒業式の様子はどうだったか。
 I 卒業記念アルバム(初期のものはアルバムだけで写真なし、らしい)
   1955(昭和30)年のアルバム有り。表紙に校章・校名のみ
   1960(昭和35)年3月 定時制のアルバム有り。同上。
   1968(昭和43)年3卒のアルバムあり。写真あり。
   1970(昭和45)年3卒〜現在、記念アルバム全てあり。
 J 写真は、部活動で関東や全国大会参加の写真を入手したい。
 K 昭和30年代の個人的日記・日誌・メモが提供されれば
   最高の発見となる。

 最後に、恩師の先生方の「回想記」が非常に少ないことが気にかかっています。以上、結局たいした「外史(20)・(21)」には、なりませんでした。
次回以降 乞うご期待。

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其の二十 閑話

 この外史も(其の二十)となった。其の十で打ち切ろうとしたが、思い直して継続してみたわけである。どうしても、昭和39年学校炎上以前の事柄が多くなる。それは、旧制中学校時代や新制高校初期のことならば、既に「時効」であろうという「一種の安心感」も心理的にあり取り上げやすいからでもある。しかし、その時代の同窓生にはパソコンを操作しブログを見る人は、ほとんどいないのではないかとも思う。
 恐らくブログを見る世代は、学校炎上以降の、60歳以下の人が多いのであるが、炎上復興以降の事になると、学校関係者も同窓生も、皆現在それぞれの場で活躍中だからその時代の事についてうっかりしたことは書けない。
また、いわゆる「現代史」は、たかだか「桐高」といった極めて小さな世界の歴史であっても、その「評価」も定まっているわけでもなく、膨大な資料がもし有ったとしても難しいものである。
 といっても、たかだか「一中学校・高等学校」の歴史であり、天下国家を論ずるものでもなく、歴史に名をとどめた偉人、天才達の物語でもなく、なにも大上段に振りかぶって論ずることもないと思っている。歳を取るとともに
若い時の事がやけに懐かしく思い出されて来るのが凡人の常で、その時、思い出す切っかけの一つに「外史」もなれば幸いと思う位で良いかなあと思うと、またこの外史も継続してみるか!と、我田引水、独りよがりの結論に達するのである。

 それにしても、ついうっかり記念誌(史)の仕事を引き受けてしまったものである。大体2017年まで生きてはいられない。
 一般的に「何十年史」が刊行され次ぎの「100年史」などは、前史の誤記・脱字を訂正し、若干の補足と、次の10年、20年を追加すればOK!となるか、或いはグラビアに写真をふんだんに取り入れた「略史」「小史」を作成する場合が普通である。校史作成には大変な時間と労力並びに出版費用が必要とされるので、どうしてもそうならざるを得ない、と軽々に思っていたし、第一、70年史・80年史・90年史は、どこかに放り込んだままで読んだこともなかっただからまったく始末が悪いことであった。
 そこで取り敢えず、大変な労作、汗の結晶とも言える校史をひもといた。
ただただ敬服するのみである。いままで実現出来なかった「桐高校史」を作成していただいただけで感謝しなければならない。
 しかし、資料として読む以上は、「読み解」かなければならない。
第一は、具体的な一つ一つの事実の「出典」は何か? その出所が判明した場合、その出所が更に以前の書籍からの引用かどうかも考え 出典を確認していく作業が必要と考えた。
第二に、「聞き書き」も当然多い。電話で聞いたことなのか、直接会って聞いたことなのか、手紙などで書かれたものなのか。そしてその内容を別の手段で確認したものなのかどうか。これまた気になるところである。
第三は、「叙述」が、出典・聞き書きに基づくものだけなのか、それとも執筆者の個人的感慨や思いが入り込んでいるのかどうか、区別して読まなければならないとも考えた。
第四は、そして、何が書かれ、何が書かれていないのかを区別すること。
 簡単に言えば「史料・資料批判」であろう。ところがこれを始めると直ぐに「青木ヶ原の樹海」のような脱出不可能な「迷路」にはまりこむことがわかった。元となる史料・資料がなかなか見つからないのである。

 これまでの校史編纂で収集され、参考にされた資料は、昭和50年代初めからの物で、野球部関係約10箱、同窓会関係約10箱、その他約30箱で、それらが積み上げられている。これを整理しないと先には進めない。ようやく「山紫会館」の一室を借用し、荷物が運びこまれたのが、100年史(誌)に着手し始めてから1年半後で、この5月末から仕分け人としての作業を始められるようになった。誠に長い2年間であった。
これからようやく資料整理と並行して「読み解く」作業も始められそうである

 過日、大先輩のご来校をうけ、どこまで進んでいるのか、もう目次立て位は
出来ているのであろう、学校側にもどんどん協力をしてもらい、同窓などのスタッフを揃えてしなければ、間に合わないことになるぞと、叱咤激励をされた。
本当のところ、全く暗中模索で、何一つ進んでいないのですが、まあ少しずつやろうと思っている所ですと、場合によっては100年に間に合わないかも知れませんが、それはそれで良いと考えております、とお答えしますと、怒りを通り越して呆れられてお帰りなされました。平身低頭あるのみ。

 *** 補遺 ***
@ 桐高ホームページの桐高日記で、音楽教室である群馬交響楽団の演奏を聴いたとある。
 そこで、桐中・桐高として全生徒がオーケストラの演奏を聴いた最初は何時だったのか、ということが気になった。しかし、何も思い出せない。戦前の中学時代には、ハーモニカの演奏、琵琶の演奏を聴いた記録はある。
戦後は? 20年代の小学生の頃 群響の移動音楽教室(「ここに泉あり」だ)有ったかな? 音楽教室というのは 全く記憶にない。
 「学校新聞」29年12月号では、「巖本真理」のヴァイオリン演奏会のことが出でくるが、個人的なことか、学校でのことか不明。
昭和41年9月 教育大オーケストラ演奏会有り。
群響による最初の音楽教室は、昭和50年10月であった。
A 外史 其の四で ピアノの事を書いたが
 昭和21年6月「ピアノ購入代として15円寄付」とあった。生徒から寄付金を集めたらしい。当時4月の月謝は10円であった。
 とすると、ピアノは、新制高校になってからではなく、桐中時代に購入したと思える。ピアノの前でヴァイオリンを持つ「中島善治」の写真も見つかった。
posted by 100年史編集者 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | その他・閑話