2010年11月25日

其の四十四 修学旅行B

 新制高校として1948(昭和23)年4月1日 群馬県立桐生高等学校発足。そして、遠足や旅行、関西方面への修学旅行も始まった。
 
 白石正男先生が、昭和29年12月の桐高新聞第31号に「雑感」を寄せている。
1.骨折り損のくたびれもうけ。
 法隆寺の金堂のバックに五十鈴川が流れていたり、渡月橋のたもとに清水の観音様が現れたり…二重写しのフィルムのように混乱して私の方寸のカメラに写っていた…これは遠い昔の私の頭の中にあった修学旅行直後の思い出のアルバムである。(注:白石正男は、昭和6年3月、桐中卒で4年に修学旅行に行っている)。
 昭和28年度春秋を通して新聞に報道された旅行中の事件だけでも枚挙にいとまがないのであるが、根本原因は、平常楽しく学校に通っている時の生徒の心理的な平衡状態を歪めてしまうまでに蓄積された旅行中の日々の疲労であると断ずることが出来るのである。
2.先達はあらまほしきことなり。
 頭になんの予備知識もなく、手に案内書も地図もなければ、或いは居眠りするより仕方ないかも知れない。これでは、誠に兼好法師にも笑われるプアーな旅行者と言わざるを得ない。
3.一生の記念。
 ある国宝建造物の柱にR・Sと、彫り跡が生々しい。その男が成人し新婚旅行で此処を訪れた時 新婦に自分がえぐった事を話すであろうか。老後の信心に数珠を掌に参拝に来た彼は、この文字を拭いさることの出来ないこの心の汚点を前にして、悔悟の涙を流さなければならない。
4.この気持ち分かるでしょうか。
 引率教師の心配は、
「おや!この宿は火事の時 非常口があるだろうか」
「衛生検査は保健所でやっておいてくれたであろうか」
「点呼の時生徒が一人便所に行っているというが、赤痢じゃないだろか」
「夜の自由外出で事故を起こさなければよいが」
「寝相の悪い奴ばかりで、風邪でも引かなければよいが、と懐中電灯つけて見回らなけりゃ」
 こうして、やっと教師は寝床にもぐる時がくる。先生方の話を聞くと
「十人中五人は、丸三日心配の為にウンコが出なくなってしまったとのこと」

 昭和6年3月 桐中卒、在学中は柔道部の猛者。22年6月〜49年3月桐中・桐高在職。その白石先生、40歳の頃の皮肉とユーモアを交えた「雑感」である。
まぁそれほど「修学旅行の引率」は気の休まる時がないのであろう。
酒 しかも急性アルコール中毒、タバコ 最も危険な寝タバコ、仲間うちの喧嘩、門限遅れで外から這い登って他校の部屋に珍入する者、他校生との喧嘩、危険なので奈良土産の「刃物」は一切纏めて学校送りにするなど、恐らく珍奇な事件、危うい事は、枚挙にいとまがないであろう。
 ただ、旅行中の生徒指導上の事柄は、すべて現地にて旅行団が処理し、学校に持ち帰るものではないという不文律が有ったと思われる。もちろん何十年間には、処理出来ず学校に持ち込まれ、顰蹙をかった学年団も有ったとは聞いているが、希有なことであろう。しかし、某女子校の如く、百人を越える飲酒事件で帰校後、その処理が大変で町に噂が立ったような事は、幸いにしてない。殆どの事は現地にて適切に「処理」「消去」されてきているのである。ただ、きわどい事件は、教師の記憶にしっかりと残っているのである。
 誠に教師にとってみれば「修学旅行」などというものは、出来たらやりたくないと思う教師もいる。
しかし、修学旅行の記録となれば、以下のように整理され、悪ガキの自慢話は出て来ない。

 昭和23年6月、「全校で希望別旅行 仙台 箱根・熱海 半月峠越え日光等」と90年史にあるが、出典確認出来ず。80年史では「23年春」。
 24年春、「仙台・松島方面が加えられた」(80年史)
 24年6月3日「全校遠足 赤城、浅間」(○○個人メモ)
24年11月2日〜三年生の修学旅行希望が強く
   伊豆・修善寺方面へ生徒50人前後
   京都・奈良方面へ生徒51人、
 1日に先発隊中澤教諭と生徒6人、2日本隊が金子教諭に引率され出発、車中2泊、旅館2泊し、11月6日に帰桐した。
 見学では、伊勢神宮には寄るが、御陵・聖地等の見学は無かった。
 新制高校の関西修学旅行実施は、多くは翌25年からであったが桐生女子高校がこの年10月18日から三泊四日で実施!しておりその事で桐高生の要望が強まったのかも知れない?
 25年10月6日〜11日 三年生修学旅行実施(26年3卒)
 26年 4月2日〜 7日 この年から3年の4月上旬出発となる。
   往復夜行で実施する。
 30年〜31年往路 朝出発 復路夜行
 32年 往復路 不明
 33年〜40年(34年3卒〜42年3卒) 往復東海道夜行列車
 「座席の下や通路に新聞紙や茣蓙らしき物を敷き、ダスターコートにくるまって寝たり、中には荷物棚に上った奴もいた」

「米持参 一人2升」そして「米を送る」
 米は、持参し旅館に着くたびに、靴下に分けて入れておいた米を出す。
 27年(28年卒)〜32年(33年卒)までは、資料未発見
 33年(34年卒)〜学校に持参に 前もって送る。いつまで行われたか確定出来ず。37年・38年卒までか?
二年生の秋 実施に移行する。
 昭和37年には、春三年生が実施、秋に二年生が実施した。
 太高は33年、前高は34年、高高は38年に、二年に移行した。
四国へ渡り、金比羅様参り
 昭和37年・38年の二カ年は、四国へ渡ったのだが、何故こうした企画が作られたのかは、不明である。
 なお、太高も37年のみ 四国へ渡っている。
新幹線利用
 昭和41年10月 復路 東海道新幹線利用。
 昭和45年5月  往復新幹線利用 大阪万博見学(47年卒)
        四泊(旅館)五日となる。
 往復新幹線利用 関西方面修学旅行は、1970年から1994(平成6)年まで、25年間続くこととなった。
一日自主見学の実施=昭和47年秋
 バスに乗っては降り、乗っては降りでの神社仏閣巡りでは、生徒の自主性や事前学習も進まない。そこで少しでも自由時間を定め、班別の自主見学を取り入れていった。昭和39年には、嵯峨野二時間半の自主見学実施、以降嵯峨野、奈良公園、西の京、京都市内などで大体半日単位で行われ、生徒が班別に朝旅館を出発し夕刻に戻って来るという京都一日自主見学は、昭和47年(49年卒)に遂に実現した。
 生徒は大喜びであったが、教師の方は、県下の高校では二、三の学校が実施しているだけで、マニュアルもなく、事前指導、当日の指導・チェック体制、危機管理等膨大な資料を県に提出すれども却下されたりしたのであった。
当日、見学を終了し3時頃に戻った班が一つ、途中喫茶店で時間を潰した班が一つ、時間に遅れタクシーで戻った班が一つであり、無事事故もなく終わった。
 この一日自主見学は、翌48年〜50年(50年卒〜52年卒)まで実施された。
一日自主見学中止
 1976(昭和51)年9月10日、県教委は各公立高等学校長に教育課長名で「修学旅行の改善について(内簡)」を通知した。
 宿泊を伴う修学旅行におけるグループ見学について基本的配慮事項、留意事項、指導例をあげ、指導の徹底を促した。その中で「見学時間は、一回につき半日以内とし、食事を含まぬこと」とされ、「一日自主見学」は中止となったのである。
 この県の内簡の背景には、自主見学、自由見学の際に若干の事故に遭遇する例があったこと、或いは、当時修学旅行に対してその効果は少ないとする無用論、経費の増大による保護者負担の問題等があったが、最も直接的な背景は、51年8月3日 高崎女子高校一年生2名が草津白根山で、硫化水素吸い込みにより死亡、6日後教諭1名が死亡された事件が起こった。高女万座山の家でのホームルーム研修の際の事故であり、これを契機に旅行や合宿等に県教委は厳しく対処したと思われる。

桐高に於いて京都一日班別自主見学が復活したのは、なんと1998(平成10)年の事である。
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2010年11月18日

其の四十三 修学旅行A

[旅行の目的は?]
 文化財としての神社仏閣等の見学というより、「お伊勢参り」「参宮旅行」の伝統を受けて、伊勢神宮や天皇陵の参拝に主眼が置かれたのは当然であった。
 原則的には、名古屋熱田神宮、伊勢神宮(外宮・内宮)、桃山御陵(明治天皇陵、乃木神社)、湊川神社(楠正成)等を参拝。国家の最高権威、絶対的権威である天皇、特に明治天皇を称揚し、また「臣民の道」を学ぶ旅行であったといえる。
 大正11年、生徒作成の旅行の栞では、桃山御陵について
明治中興の英霊を鎮め奉るに誠にふさわしい」 
 大正12年の旅行記では
「神武天皇以降の模範的君主明治天皇の英霊を奉安す。遙かに御須屋を礼拝する瞬間感慨無量思わず涙白砂を潤す。」
 昭和4年 旅行記
 「常に武等の幸福に御聖慮をなやまされ、我が国威を世界に御発揚なされた明治大帝の御聖業を偲べば新たに敬慕の生ずるを禁じ得ない。」
このように「明治大帝」へと表現も変化してくる。

 昭和初期以降、交通の整備、進展もあり、「建武の新政」という天皇親政の象徴である吉野山の後醍醐天皇陵参拝、「神武の創業」に還り「肇国の精神」が唱導される中、畝傍の橿原神宮・神武天皇陵参拝は欠くことの出来ない所となった。
 昭和10年〜12年には、桐生から夜半に直接東京へ向かい、未明に「宮城遙拝」が行われている。「真暗い中の二重橋前のザクザクと玉砂利をふむ足音…はっきりと耳そこに残っています」(昭和14年卒回想記)。
 昭和15年の天皇行幸、紀元2600年記念事業として橿原神宮整備にあたり、前年、14年の修学旅行団は、2〜3時間の勤労奉仕を行っている。
 昭和15年の旅行の諸注意には、旅行の目的が明確に書かれてある。
「皇紀二千六百年に当り、皇大神宮を始め神宮、御陵聖蹟…参拝し、皇祖皇宗を追慕し奉り、大いに国体観念を振起し、皇軍将士の武運長久を祈願し併せて、各地の人情、風俗…美術工芸の状況を観察し…健全なる中堅国民たるの教養に資せんとす」と。まさに太平洋戦争前夜であった。

 御陵・聖蹟の参拝以外では、現在でも馴染みのある寺社等を見学。
市電やバスの利用もあるが、多くは徒歩であった。幾つか注目したことを触れる。
1.法隆寺金堂の大壁12面→1949(昭和24)年、失火により焼失
  「…堂の四方の壁画が微かに光って見えます。剥げています。燻っています輪郭もわかりません。…一つ所をじっとみていると…だんだん其処が明るくなって…その大小12面の壁画のおぼろげな筆の跡を辿ってみるとその構図規模の大きさその色彩の華やかさが分かります。…最も滅びやすい絵画その中で奇跡的に残っているこの壁画…「薄き日は壁画に匂ふなつかしき 慈眼にすがり泣かまほしくも(佐々木信綱)」(昭和5年の旅行記)
本物を見た桐中生もいたのである。

2.金閣寺
  「10歳位の少年の案内で先ず第一層の説明を承ける…二層の仏像絵画をみて三層に登る。金の塗ってある所は此の三層だけで、それも今は所々削り取られて傷だらけである。」(昭和2年)
 「…池の中の島には小林が茂っていて、亀が平和の使いのように岩の上で遊んでいる 金閣寺はおもったより美しくない建物だ。…二三年前より二階以上は見学させぬことにしたのだそうだ」(昭和7年)
 「…白壁に鉛筆で無造作に落書きがしてある」(昭和8年)
足利尊氏(室町幕府)は、「逆賊」「人非人」という認識があるから、金閣寺はどうも人気が薄いようである。
 この金閣寺も1950(昭和25)年放火により焼失。再建されたのは昭和30年10月である。
 戦後最初の関西への修学旅行は、昭和24年10月、25年3月卒の約50人の希望者で、焼失前の金閣を見学する。
26年3月卒〜31年3卒までは、金閣寺には、当然行かなかったことになる。

3.薬師寺や唐招提寺は、ほとんど見学していない。最寄りの交通機関なし。
「薬師寺より二三町の間、壊れかかった土塀あり 蔓草茂り瓦かけ少しも見るべき所がない唐招提寺を出て奈良まで歩く」(昭和5年)

4. 大阪では、大坂城は勿論、大阪毎日新聞社又は朝日新聞社、そして造幣局が見学の定番コースであった。
京都では、寺社以外に日活撮影所を見学した年も一回ある。

5.夜間外出はいつの時代も楽しみ!
 「一日の疲れを浴槽に洗い流した僕達は外出許可を受けるやいなや籠から出た小鳥の様に夜の京都へ散って行った。…ふと気が付いて三条大橋の上に立って左手の方を眺めると大文字山の大の字が夜空にくっきりと浮かんでいた」
 「京都では京人形だ。…どの店にも綺麗な人形が棚に立ち並べられてあった。一つ二つ求め…宿に帰って来るものがみると、きっと幾つかの箱を抱えている」(昭和4年)
 「夕食後遂に街に浮かれだした。…享楽的気分に満ちた道頓堀を一廻りして
千日前の繁華に目を廻した。…人波に揉まれている内に…変に静かな裏町の方までまぐれ込んで西も東も分からなくなった。」(昭和3年)
「楽しき夕食の後、ひと風呂浴びて我らの若き心は夜の大阪。道頓堀へと繰り出したのである。ジャズが歌う…テナモンヤナイカナイカ道頓堀の…。おお浪速だ、道頓堀だ!人の泉、光の泉…いかに現代人のやるせない要求がこんな世界を作ったにせよ、これから後これがどういう風になって行くのか。ああ!ニヒリストの今日である」(昭和5年)

追補
 [修学旅行の中止]
昭和15年度 文部省より修学旅行制限の通牒あり、県議会でも質疑があった。
県は「中等学校生の伊勢参宮廃止は輸送力の関係から文部省が(鉄道省に)譲ったものである。また、時局柄見物の修学旅行はいけない、鍛錬的たるべし。それも二泊三日以上に亘ってはいけないとされている」と答弁している。
これに対して中等学校側からの強い働きがなされ、16年度は、厳しい条件をつけられたが多くの中学は実施したのであるが、桐生中学は、16年度から中止した。その理由や背景については不明であり、推測することも出来ない。

 16年7月14日 学務部長「県外にわたる教職員及び児童生徒の団体旅行は、特に文部省より指示せらるるものの外、当分の間之を中止又は延期すること」と通牒があり、9月25日 学務部長は公式に文書で指示した。
これは16年6月「独ソ戦」開始により、7月、日本は関東軍特別大演習=「関特演」実施。そのためには国内から40〜50万の兵力、物資等を輸送することとなったことが、直接的な背景の一つである。

こうして昭和13年入学生以降、関西方面への修学旅行は無くなった。
修学旅行の再開は、新制高校となり昭和24年の希望者による旅行から始まるのである。
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2010年11月07日

其の四十二 修学旅行@

1.六泊七日、七泊八日の関西方面修学旅行!と言っても「強行軍」だ!

  桐生駅午前1時8分出発、未明東京駅着、
「隊伍を整え宮城へ、」「大君います宮城の御前にぬかづき、聖寿の万歳を祈り奉り、皇室の弥栄をお祈り…日本国民と生まれた幸福をつくづく有難く思った。」
午前6時30分姫路行き乗車。
「列車は殆ど他団体、一般客に占領され、一つの車にクラスメーツのみ集って朗らかな中学生らしい旅行気分を味う自由も許されず皆意気消沈の態である。…大多数がスタンダップという訳だ。6、7時間同じ所で立ったまま、ダルマ式の修業を続けた者もある」
熱田神宮、名古屋城をみて、やっと宿泊地鳥羽へ向かう。
「宿に着くとすぐに食事。何しろ夜10時の夕食だ…床についたのは12時近く、皆穏やかに休むべくもない。瀬戸先生(配属将校)の一喝は、一時の沈黙から楽しい夢の国へと誘ってしまった」
 そして「朝5時半、一斉起床だ、7時港より遊覧船で島巡りに出発」といった強行軍である。

 朝6時桐生駅出発し上野まで4時間余り東京駅を正午頃出発し、京都駅着翌朝の午前4時 なんと16時間
 京都駅から東本願寺往復し、電車で伏見稲荷・桃山御陵礼拝し京都に戻る。
徒歩にて方廣寺〜三十三間堂〜清水寺〜円山公園知恩院〜平安神宮
 「…腹の虫も泣き出す、空腹を我慢して旅行するも一興と、関東男児、気旺盛なり。」インクラインから南禅寺へ。
 ようやく電車で北野天満宮〜金閣寺〜徒歩にて宿舎に到着。夜間外出といっても「今日の疲労に耐えかね9時前に帰りて寝に就く」有様である。
 貸し切りバスに乗車し、拝観場所の駐車場で降りて見学、またバスに乗ってといった「ところてん方式」の旅行ではない。ゲートル(巻脚絆)巻いて歩け歩けの旅行である。「京都七条から水田の様にごたごたしたぬかるみを進んでいく」「名古屋の道路は塵が多く、馬糞の山がある」大阪は「自動車や電車が右往左往に続けざま飛んでいる。人は皆そわそわとその間を急いで歩いている。迂闊に歩いていると突き飛ばされる様である」
 しかし、先生方も皆健脚であったなあ! 感服!

2.修学旅行は、1917(大正6)年の開校の年から全学年とも実施。
10月25日 「二日一泊」で「修学旅行を挙行」
 1・2年生が、足尾を経て日光中禅寺湖泊まり。日光を経て帰校。
これが最初の修学旅行である。
  * 全国では、1886(明治19)年、東京師範学校の銚子方面
「 長途旅行」が最初と言われる(教育学事典)。
全学年が揃った大正9年度は、
第一学年     唐沢山方面遠足    
第二学年     日光・足尾方面 泊        
第三・第四学年  水戸地方    泊           
第五学年     三重・京阪方面 (以上「県学事」)

「80年史」によると、大正11年に有志による関西旅行が実施され、五年生全員で実施したのは、大正12年であり、修学旅行が学校行事として行われるようになったと記載されているが、
最初の関西方面への修学旅行は、
大正9年5月17日〜23日の7日間。
 生徒25人、教師3人。この生徒は第一回卒業生28人の学年であるからほとんど参加したと言える。

 伊勢「参宮旅行」は、明治期に一高が伊勢参宮旅行を行ったのが最初と言われ、県下では
前中が明治45年、
太中が大正元年 
高中・沼中・藤中が大正2年に実施、
各学校積立を前もって行っていたと、ある。
桐中でも大正7年の教務日誌抄に「修学旅行貯金積立規程を制定す」とあるが、毎年、全員参加出来たかどうかは不明である。
大正11年の伊勢神宮前の写真には、生徒18人と教師2人が写っている。
12年3月の卒業生は、48人であるから、もし、この写真1枚が参加者全員の写真だとすると、参加者は大分少なかったと言える。
 この時の写真、旅行の栞などは「90年史」にある。
栞は生徒の手で作成されたと思われるが、発行所「桐中内 無資金出版社」、また「不許腹背」などと奥付に有り、桐中生のユーモアを垣間見ることが出来るではないか!

3.戦前の旧制中学時代の関西方面修学旅行データ
「80年史」「90年史」に詳細に記載されているが、一部補足、修正する。
また、「県学事」「桐中教務日誌抄」、個人「日記」等での食い違いもあるが一定の推定も含め、以下まとめた。
[旅行期間]
 1920(大正 9)年〜1923(大正12)年 7日間
 1924(大正13)年〜1937(昭和12)年 8日間
 1938(昭和13)年〜1940(昭和15)年 7日間
[実施学年]
 1920(大正 9)年〜1928(昭和3)年  5年生
 1929(昭和 4)年 3月(昭和3年度)
   3年・4年生で実施。この理由は、前年11月、「昭和天皇」の
   「即位大礼式」が京都御所にて挙行され、その大礼式跡を拝観する事が
   主たる理由であり、多くの学校が同様に実施している。
 1930(昭和 5)年〜1940(昭和15)年 
   4年生(3月では3年生だが)が、3〜4月に実施している。
   5年生は「受験」をひかえているという解説が多いが、それは今流の
   解釈であろう。各中学全員が進学でもない。
むしろ、最上級生の5年時には、教練や野外演習、兵営宿泊等の増加という背景があったのではなかろうか。

[関西までの往路交通経路の特徴]
 1920(大正 9)年〜1926(大正15)年
     大体は、早朝、桐生駅から上野・東京に向かう
 1927(昭和 2)年〜1928(昭和 3)年 
     桐生駅を午後出発し、長野〜金沢泊で京都に入る
 1929(昭和 4)年〜1933(昭和 8)年
     桐生駅午後出発し、篠ノ井経由で名古屋に入る
 1934(昭和 9)年〜1937(昭和12)年
     両毛線(臨時)又はバスで東京、そして名古屋へ。
 1938(昭和13)年〜1939(昭和39)年
     桐生を夜半臨時列車で出発し、横浜へ向かい
     横浜から「汽船」、船中泊で神戸へ向かう。
 1940(昭和15)年 最後の修学旅行は、
     往復夜行列車である。
  *昭和17年卒〜25年卒までは、関西への修学旅行なし。
   (25年卒は希望者で実施)

[関西からの復路交通経路の特徴]
 1920(大正 9)年〜 名古屋から興津に泊まり、最終日に
     東京で見学又は自由時間をとり、桐生に戻る
 1927(昭和 2)年〜1931(昭和6)年
     名古屋から夜行で藤沢乗換、江ノ島・鎌倉見学後 桐生へ
     *鎌倉に立ち寄らない年もある。
     *昭和6年は、詳細な記録なく、場合によっては異なる。
 1932(昭和 7)年〜1937(昭和12)
    神戸港より横浜港まで、「汽船」で船中泊
 1938(昭和13)年〜1939(昭和39)年
     往路汽船のため、復路は名古屋から夜行、
     東京経由で桐生へ
 1940(昭和15)年 復路も東海道線車中泊

[汽船の利用]
 なぜ「汽船」利用が始まったのかは分からないのだが、一般的には昭和4年からの世界恐慌で海運業界が不況となり利用が促され、「海無し県」群馬の生徒に体験させる良い機会と考えられたと言われる。
 県内では、高中が昭和5年に利用している。桐中は、昭和6年は不明だが
昭和7年から14年まで8年利用しており、恐らく県下中学校の中では最も多く利用したのではなかろうか。
 利用した船舶は、   ハワイ丸     9,000噸 
南米移民船である    リオデジャネイロ丸9,629噸、 
ブエノスアイリス丸9,600噸
太平洋航路等で活躍した豪華客船
            秩父丸 17,498噸 
龍田丸 16,955噸
太平洋の女王と言われた 浅間丸 16,975噸
 
「私どもの乗る巨船浅間丸は、真っ黒な船体からじょうじょうと水を吐いていた。真っ白なキャビン、黄色なマストは輝いていた。…大ビルディング同様である」 浅間丸は、長さ178m 巾22m、太平洋の女王といわれた豪華客船である。「三等(船室)といっても快いベッド、キャビン…甲板に飛び出した。
…空は青、海は緑、絵の如き船、沿岸の町、モーターボート、ジャンク船すべて私の心にひしひしと応えた。…スミトモバンク、ポストオフィス、床屋、売店…ホスピタルという表札まである」もちろん一等船客専用のプールもある。
 「(龍田丸)…売店に行ったり、艦首・船尾で大洋を乗り切る雄壮さを味ったり何度も廊下を往来した。…寝台に横たわる、だんだん動揺してきた。頭がすうっと下がる。地獄にでも落ちるような気持ちだ。…ドアが勢いよく開かれて先生方が我々を元気づける為にお出でになった。…しかし遂に方々で仁丹を求める声が起こった。嘔吐の用意に器を身近に置く者もいた。」
 戦後、高校時代に一時琵琶湖遊覧や四国に渡る場合に船が利用されたが、海難事故があり、船舶の利用が禁止されてしまった事を考えると、まさに逆の意味で隔世の感がある。
 なお、桐中生が乗船したこれら船舶は、太平洋戦争において陸・海軍に
「徴用」され、全て、まさに「戦没」したのであった。
(乗船しなかった船舶のうち「戦没」を免れた船舶では、
現、横浜にある「氷川丸」、そして舞鶴への引き揚げ船「興安丸」が有名である)。
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2010年10月29日

其の四十一 マラソンA

1.マラソン大会三連覇
31年卒 目黒幸男 35年卒 桜井淳一 41年卒 武井良明
46年卒 小暮勝巳 54年卒 新井一則 60年卒 西村和幸
 目黒は「運動会のマラソン」でも三連覇したという。
 桜井は、3年生の4月に棒高跳びで大怪我しダメだと思ったが「最後の運命と想い走り」「挫折と復活」を経験した、「この経験はその後の私の人生に役立ちました」と述懐する。

2.毎回ではないが、ツベルクリン陽転者や医師・教師の判断で、4〜6qのBコースが設定され実施された年が多い。
3.参加賞のリンゴは、30年前後に始められた。39年には2個となる。
 昨年?からか、「リンゴ」は終わったらしい。食べ粕をあちこちに棄てる者も多く、「清涼飲料カン」にしたらしい。時代は変わる。
4.ラッキー賞は、40年には設けられ、教職員の指定する順位に「賞品が与えられた。「ノート・ボールペン」等が一般的であったが、「袋入りインスタントラーメン」「参考書」「辞書」等もあった。いや「宝くじもあったかなあ?」

5.近道、抜け道してチョンボしようという生徒はいつの時代にも出てくる。
 正門(現西門)を出て、左折し昭和小に向かうのに、何故か右折し元宿橋を渡り桐生駅前通りに出て潜んでいたなどというのは、初期の頃にもあった。
故に?その後も様々な手段を考え、途中を間引くことをした者はいるし、マラソン大会終了後、何日かして放課後全コースを走らされている光景をよく見かけたものである。
   
6.先生も参加し激走 あっぱれ!!!
  35年 斎藤憲衛(国語) 14位
  41年 二渡 務(数学) 16位
  50年代には、小林隆(英語) 順位未確認 上位入賞
7.なお、走行距離については、同一コースでも、記載qが違っている場合もあり、大体は8〜11qのコースであるとしておく。

8.「80年史」の優勝者一覧において、欠落している年度等を補足する。
  24年 2月 4日 第 1回  優勝 星野光男
  24年12月 9日 第 2回  優勝 田村 収
  25年11月22日 第 3回  優勝 田村 収
  26年  阿部「元雄」は    優勝 阿部「元」
  31年11月17日 第 9回  優勝 佐藤勇五郎
  32年11月22日 第10回  優勝 桜井淳一  
  36年・37年の平野は     優勝 平野「義寿」
  42年11月22日 第20回  優勝 八木 嘉
  48年11月 2日 第26回  優勝 山同尚行
  49年11月 2日 第27回  優勝 金子 勉
  50年11月10日 第28回  優勝 阿久津慎

 これも半年あまりかかって判明し、ほっとしている。
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其の四十 マラソン@

 1917(大正6)年、桐中開校の年、6月7日 午前11時 「桐生町天満宮社前より新桐生駅まで長距離走を行い午後二時終了帰校す」と、教務日誌抄にある。いわゆる「マラソン」である。
この後、境野小から天満宮間、高津戸・桐生間、八幡宮・天満宮間など実施され、年三回実施された年もあり、また賞品授与もあったと記されている。
 「マラソン」は、初代渡部学校長が好んだと言われるが、渡部の浦中時代には、長距離走の記載はあまりない。また「町民への中学校アピール」の狙いもあったと言われるが定かではない。
 それにしても、当時の「マラソン」で大変だったのは、町内(市内)の道路状況であろう。本町通りは巾12m位で泥土の道、雨がふれば泥んこで、馬糞、牛糞など! 古老は「何処へ行っても馬、又馬であるから馬糞の山があちらにこちらに見られた。これが又、乾燥してきて名物の風でも吹いたら大変、馬糞の砂塵が舞い上がる。今の犬の糞害どころではない」と語る。
市内の舗装が始まるのは1932(昭和7)年以降であった。
 自動車の方は、心配無かった!
桐生自家用自動車第一号は、大正6年日本絹織(株)の社長が購入、しかも「群一号」である。8年に金木屋が2台購入しハイヤー業を開始、9年に回進社が新桐生駅までの送り迎えを開始したという。昭和7年には、85台になったが、交通事故の心配は無かったであろう。
 新桐生駅の開設は、大正2年。錦桜橋(吊橋)の架橋は4年である。それまでは、盛運橋から新宿上手を通り「後谷」の渡船により渡良瀬川右岸に行ったのであるが、駅開設により架橋と現桐生・伊勢崎県道が開通したのである。
古老は「…雷電神社前まで新道が出来て本町と通じたが、道の両側は雑木林で狭くて、石がごろごろしていた道であった。新桐生駅近くは土堤を築いて道を作り両側に小さな桜の木を植えてあった」と。
「…渡良瀬川には橋が架けられた。木材を組み立て八メートル位のピーヤを三箇所建て、半ば辺りに広い交換場所があった」と。
 その錦桜橋は、大正11年の出水で右岸が流失し、14年に鉄材・コンクリート・木煉瓦等使用した本格的橋梁として出来上がった。
 そのためか、12年頃には、「天満宮〜新桐生間」の長距離走の記録はない。

 さて、長距離走=マラソンは、前橋師範が明治33年開始以後毎年実施。
沼中では、大正2年11月 第一回長距離走 約9q。
前年の金栗らの参加したストックホルムオリンピックの刺激があったとも言われるが、前中では、大正3年10月16日、学校から駒寄小学校まで二里十数町の長距離走実施、上位30名を表彰したとあるが、その目的は、「欧州戦乱」「東洋に飛び火」「我が国民たるもの居常志気を養い身体を鍛錬し一致共同の精神を養成」としている。
高中が大正7年創立記念行事として実施、二里二十四町
太中は大正9年徒歩部の主催で始めて実施し、距離は8qと12qの二コースであった。

 桐中の記録は大正12年〜15年は不明、昭和2年以降の「教務日誌抄」には、「長距離走」の記載はない。実施はされていたが、重要な行事ではなかったのかも知れない。「長距離走」とは別に「遠足」「行軍」「夜間行軍」などがしはしば実施される時代となったのである。

 1936(昭和11年)県下男子中等学校駅伝競走が始まり、昭和14年には「山野横断競走」となり17年まで行われた(以降は駅伝どころではなくなった)。
桐中も参加しているが、競技部の生徒が中心であったと思われるが、その予行として「校内マラソン」が実施されたとある。
 16年
水道橋―水道山―光明寺―岡公園―天神様―昭和通―本校
約6q
 17年
校内5qマラソン並びに 水道山〜光明寺―盛運橋〜山野横断走
戦前の記録はこれまでである。戦後昭和23年3月までの旧制中学時代には
運動会は行われたが、「マラソン」の記載は未発見である。

[桐生高校時代]
  「80年史」では、運動会の一種目として実施されたマラソンと「校内マラソン大会」との区別が曖昧であるが、第一回「校内マラソン」大会は、昭和23年度、24年2月4日に実施され、当時陸上のホープであった星野光男君が優勝した。また運動会の一種目として各分団代表による「マラソン」があり、天満宮折り返し、昭和橋折り返し等で実施されている。

[マラソンコースは?]
 パソコン上で略図を描く技術を持っていないので残念なのだが、将来的には図示したいと思う。ただ、何時どのように変化していったのか、各年の図面が残っていないし、細かく走路が変更されているので基本走路のみを触れるしかない。

1.本町通り〜末廣町〜駅前〜赤岩橋〜……
 昭和34年4月一年生までは、本町通りを颯爽と駆け抜けた?!はずだ。
校庭の野球のホームベース側をスタートし正門(現在の西門)を出て左折、昭和小脇通りから、錦町(過去にはロータリー)、本町通りを北上し、五丁目交差点を左折、駅前を西へ向かい赤岩橋を渡り、相生小を過ぎ、左折し如来堂から桜木町へ、
→→広沢へ向かい昭和橋を渡り交番を左折し一路西上し、ロータリーをへて(この昭和橋経由は、第一回だけか?)
→→桜木町交差点を左折し、錦桜橋を渡り、ロータリーを左折
そして 
→→再び正門(現西門)からゴールへ
→→昭和小の角を右折し、東門(現正門)からゴールへ

2.赤岩橋経由、阿左美沼折り返し、または周回コース
昭和35年〜40年までは
 桐高東門(現正門)右折し陸橋を渡り白鬚神社…赤岩橋…
 上電冨士山下駅手前を右折し桐生機械(現ヤオコー)裏から
 一気に阿左美沼を周回し、北下し桜木小の通りを南進、
 新桐生駅前郵便局交差点を右折し錦桜橋、すぐ右折し
 厚生病院南側、警察、栄研の脇を通り
 桐高正門〔現西門〕からゴール。
  *厚生病院が現在地に移転したのは 昭和35年6月
  *桐生警察署が移転したのは、   昭和40年2月

3.赤岩橋にさようなら、渡良瀬川右岸を
  赤城を望み疾走、阿左美沼周回
昭和41年〜48年まで
 桐高正門(現西門)〜桐商脇・警察・厚生病院〜錦桜橋〜
 土手〜
 桐生機械裏に下り阿左美沼周回〜一気に北に下がり川の
 土手に上がり錦桜橋を渡り、商業脇から桐高正門ゴール。

48年優勝の山同君は、自分達が桐高校庭スタート・ゴールの最後ではなかったかと語っている。

4.桐高河川敷グランドスタート〜桐高正門ゴールへ
昭和49年・50年
 49年〜桐生大橋架橋、道路拡張によりスタートは河川敷
 に移った。
 また、阿左美沼から国道122号に出る手前で走路が一部変更。

「…スタートは河川敷だったため校庭裏門の時のトラブルもなく土手を駆け上がった。沼を半周し…桜井先生などが緑や紫のマジックを持って…掌を出させてチェックされる。…商業の脇を通って桐高の裏門を目指し…体育館の前あたりが確かゴールだった気がする。…ふらふらになって倒れ込むように…ゴールした。…リンゴを2個持たされたものの寝ることも立っていることも出来ず芝の植え込みの所に…しばらく四つんばいになっていた…9位と10位のトロフィーは明らかに大きさが違う…」と、51年卒9位入賞の高草木章君。

5.スタート・ゴール 河川敷グランドとなる。
昭和51年〜54年
 河川敷→左岸土手→錦桜橋→右岸→大橋手前から降りて
 桐生機械の先から左折・右折をして阿左美沼へ、
 沼を右回りして→足仲団地を通り→
 桐生機械裏から右岸に出て錦桜橋経由河川敷ゴール

6.渡良瀬川土手・サイクリングロード、
  桐生大橋・昭和橋折り返し。
昭和55年〜平成6年
 往きは、渡良瀬川右岸土手道路を桐生大橋下まで西進し、
 サイクリング道路におりて昭和橋折り返し
 復路の錦桜橋の横断が出来ず、
 橋の下をくぐり橋の西側土手を上がり
 錦桜橋〜左岸土手〜河川敷へ

7.桐生大橋を渡り河川敷ゴールへ
平成6年〜
 錦桜橋〜右岸土手〜桐生大橋から
 サイクリングロードなどを走り
 昭和橋を折り返し、錦桜橋下を駆け抜け
 桐生大橋の南詰を上がり
 大橋の歩道を走り河川敷のゴールに。
 錦桜橋の架け替え工事が始まったことにより
 コース変更となった。

8.平成10年〜
 理数科設置に伴い女子入学により、
 男子・女子二コースとなる。
 但し、平成13〜15年度は、錦桜橋新設架橋のため
 マラソン中止。
 距離やコースについては生徒会誌「山紫」に
 掲載されていないため、
 学校関係者に資料提供を依頼中。
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2010年10月07日

其の三十七 校内球技大会

 9月30日(木)、同窓会校内幹事の先生から「昭和42年卒の卒業記念アルバムが届けられた」と連絡を受け、42年版は資料としては欠けていたものなので早速学校に出かけた。
 学校では、小雨ぱらつく中「校内球技大会」が行われていた。
昔は、一学期末、夏休み前の7月に二日間で実施されていたのだが、いつの間にか「秋の行事」となっていた。
 球技大会が、二日間から一日となったのは、2002(平成14)年
       秋の一日に移行したのは、  2004(平成16)年である。

[桐中時代]
戦前の桐中時代には、例年武道大会が行われていた。
大正7年2月「武道競技会を催す」とある。例年、冬季休業明けから武道の寒稽古が始まり、納会の日に紅白試合等が行われ、また教師と生徒との対抗試合もあり、学校長が大活躍することもあった。
1941(昭和16)年1月 寒稽古 
職員・生徒対抗戦あり 剣道=山下・市川・岸・平野・湯沢教諭
          柔道=加藤・市川・今仁・門伝・中川教諭
          竹下校長の五人掛け
 「校長先生の技益々冴え生徒五人ともたちどころに薙ぎ倒された」と。
球技大会としては、
1940(昭和15)年 6月 校友会野球部主催の野球大会
  学年別対抗4年優勝 教員チームも参加
            11月 体力検定が雨天で中止となり
           組対抗ピンポン大会実施

戦後、昭和21年9月、学年対抗の野球試合が行われた。その結果をみて、生徒を選抜し県下の軟式野球大会に出場、優勝するという快挙があった。軟式野球部の成立でもあった。

[桐高時代]
新制高校の発足した23年11月〜24年・25年の桐高「文化祭」は、音楽祭・学芸大会・運動会などを実施、その中に「球技大会」があり運動会と同様に生徒の出身地区別の「分団」対抗で、野球・庭球・バスケット・卓球等が行われるようになった。
 26年には、生徒会の体育委員会が主催し、学年別クラス対抗で6月下旬野球と庭球が行われた。バドミントン・卓球・バスケット・柔道・体操・継走等は夏休み後に実施されることになったと、学校新聞にはある。
 28年には10月に実施、主に放課後実施、
 29年、2日間 残り3日間は放課後か
 31年度まで実施され、種目は剣道、相撲なども入ったが柔・剣道、相撲などは棄権するクラスが多かったという。二種目も三種目も出る者もいて「これは民主主義ではない 運動を楽しもう 得意で無い者も参加しよう」と。

これらの行事は「校内競技大会」と記されている。他校でも名称は同様。
 32年7月10〜13日には「校内球技大会」が実施
 34年7月7〜10日には「校内競技大会」
 35年7月11〜13日午後、14日「恒例の校内球技大会」実施
 37年6月27〜 変則的に4日間

 39年度から「6月末、或いは7月に二日間で実施する」と、職員会議で議論の末、球技大会を行事として定着させたのである。
 44年に「柔道」が種目として入ったが、80年史は「校内競技大会」の名残かと記すが、この年インターハイが群馬で開催、バドミントンの練習会場となり体育館の補修工事で使用出来ず、種目の変更をしたのである。
 種目としては、この後サッカーも入り、後にハンドボールに代わり水球を実施した年もある。

 この球技大会には教職員チームも卓球、バドミントン、バレー、テニス、ソフトボールなどに参加し、生徒チームと戦い、生徒の審判の判定に教員がクレームをつけ却下されるなどもあった。バスケットなどはまさに格闘技であるから生徒は教員に闘志をむきだし、ソフトテニスには(硬式)テニス部員の参加、ソフトボールには、硬式・軟式野球部員の参加もあり、激しく真剣にそして勝敗にこだわる激戦を展開したものであった。
 この球技大会で最も燃えた先生は、体育の小林孝昭先生(昭和37〜59年3月)であろう。生徒は先生の闘志に圧倒され何かを学んだかも知れない。
テニスでは、鉄人原田こと数学担当原田洋一先生と英文堂こと小野武雄(桐高24年卒)先生の熟年パワーコンビ、体育の萩原正美(桐高30年卒)の変化球サーブは、生徒を圧倒し翻弄したものであった。また事務職員・司書の女性も参加し黄色い声がこだましたものであった。
 各年度の「卒業記念アルバム」にも必ず「球技大会」の写真が取り入れられている。
 平成に入ってからの状況は分からないが、聞くところによると教員チームの参加は、行っていないらしい。そうだとすると、少しばかり残念なことである。授業などでの生徒との触れあいとはまた違い、愉快な楽しい交流であり、生徒の不断見せない諸相を発見したりもできるのだが。
 この9月30日 たまたま桐高での球技大会の場に行ったところ、今年は
ソフトボールで、生徒の優勝チームと教職員チームが試合を行うことになっていると聞いたのだが、お昼前後からあいにく雨が強くなり、果たしてどうなったことであろうか?
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2010年07月22日

其の二十八 夏休みA

夏休みが消える?!

 1938(昭和13)年 7月24日〜8月31日
 1939(昭和14)年 7月25日〜8月31日 新校舎へ移転
 1940(昭和15)年 7月25日〜8月31日 
                   8月21日から作業・授業
 1941(昭和16)年 8月 1日〜8月25日 
 1942(昭和17)年 8月 1日〜8月20日 
 1943(昭和18)年 8月 1日〜8月22日 

 昭和13年度から夏休みに入る前の7月14日前後から
「夏期特別指導期間」が設定され 集団作業・清掃・夜営・演習夜行軍、運動・授業等が集中して実施。後半も後期指導期間として実質的に休みは短縮されたと思える。14・15年度の8月下旬には、四年生は「赤城山開墾作業二泊三日」
18年度の夏休みはには、五年生は高崎操作場作り5日間、千葉県保田海岸にて「海洋訓練」6日間と、五年生は休み無し状態。
それでも、この年1〜2年の希望者は、二泊三日の尾瀬登山を実施していた。
 そして
 1944(昭和19)年度
農家への勤労奉仕、作業が中心となり、授業はその合間に行われた。
学校によっては、「月月火水木金金」の「艦隊勤務」並みとなったところもある。
 遂に、夏休みを前にして
 7月15日〜四・五年生は、中島飛行機尾島工場へ動員
 泊まり込み
       三年生は、市内工場へ通勤にて動員
       一・二年生、援農奉仕・作業・授業
 遂に、「夏休み」は無くなった。いや
「休みが消えた」だけでなく、「学校生活そのものが消えた」のである。
 もちろんこの間、軍隊へ志願し入隊する生徒も続々と出てきた。
 18年度の海軍甲種飛行予科練生は、県下中等学校から142人合格。
桐中は16人である。10月1日以降入隊が始まった。
 19年4月 「90年史」年表には、5年生は、50人強が軍部関係に行ったと書かれてある。
 一般に3修で志願する生徒が大部分であるが、2修(中学2年修了予定)で、甲飛や特幹へ行った者、予定の生徒もいた。実際に何人行き、何人学校に戻ってきて、卒業していったのかは、不明である。
   
 1945(昭和20)年
  五・四年生が卒業し、新四・三年生は市内の工場へ動員
 6月23日〜7月17日 一・二年生 宿泊農作業
 8月 1日〜8月 5日 一・二年生 作業等
     7日〜11日  一・二年生 休み
     12日    考査
     13日〜14日  空襲のため休み
     15日   二年生 吾妻への開拓のため桐生駅集合
        三年生、査閲予行のため久しぶりに学校へ
  正午「玉音放送」
  18日〜31日 「短い夏休みが始まった。しかし戦争中の重い気分からは解放されなかった。暑い、暑い夏であった」
   
 1946(昭和21)年、7月13日〜8月31日
「なが〜い 夏休みであった」


 徐々に、夏季休業日が減少し、その前後にも行事が組まれていくが、もちろん、年間を通して授業が欠け、演習・教練・勤労奉仕等が増加していく中で、遂に夏季休業日も減らされていった。
昭和18年、五年生の夏は、次には夏休みどころか、授業も何も無くなるぞという事態の到来を示す序曲であり、昭和19年「ど〜ん」と一気に学校教育崩壊に至ったのであった。
 この時期3〜5年生の動向は、少しは分かるのであるが、1〜2年生の動きがあまり記録に残されていないのが残念である。
18年入学〜23年・24年卒、19年入学〜25年卒の同窓生から、下級生であった時期の聞き書きも必要である。

 この昭和10年代のことは、生徒の置かれた状況から見ると
「太平洋戦争中の学校生活」として、学徒工場動員、農家への勤労奉仕、開墾・道路・排水溝作り、教練・合同演習等々としてひとまとめすることもできるのであるが、入学した年により中学校生活の体験には、異なることも多い。
 そのため、当時の記録以外で、思い出話・回想記となると、どうしても強烈な体験が中心となり、それ以外の日常的なことは捨象されてしまうことも有るし、同時期でも他の学年のことは分からない場合が多い。
 「○○年入学の5年間そしてその後の運命」として、入学年度ごとの生徒の軌跡を年表にする必要に迫られている。
 ただ、外史担当者には、今纏める余力はない。

*それにしても、今年(2010年)は、一気に猛暑・酷暑になった。
学校も大変だ!と思ったが、何と!「エアコン」が有るのだ
2007(平成19)年度に設置されたと聞く。。
posted by 100年史編集者 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活

2010年07月15日

其の二十七 夏休み@

 昭和9年夏
7月24日 柔道部7人、終業式後、東京講道館に向け出発。
  25日〜31日まで 午前8時半〜午後3時半まで 講義・練習
  28日には、三船八段の試合方法説明あり。
 「…宿舎への帰り道は疲れ切って自分の身体の様な気がしない。…兵量は
  一食15銭、足らないけど、費用は父兄の血と汗の固まりだと思い我慢する」

7月26日 野球 夏の甲子園県予選始まる。→北関東へ
  28日〜30 神宮での摂政杯予選〜  →神宮へ
8月 2日〜4日 北関東大会       →甲子園へ
  13日〜17日 甲子園、2回戦敗退
  21日〜26日 摂政杯争奪 神宮大会 →優勝
 「…正しき修練と純真なる努力とは、何よりも強き事を必々と知る」
 
 昭和10年夏
7月24日 剣道部6人、終業式後、国士舘専門学校講習に出発
  25日〜29日まで 午前5時半〜午後5時半まで 講義・練習
 「初めは、朝は腹がへり非常に目が回り苦しかった。午前は日本の名士のみならず印度人やラマ教徒等から講演もあった」
各運動部は公式戦並びに合宿の真っ最中である。

夏季休業日は、町立時代から県の規則に基づいていた。
1917(大正6)〜1918年度は、7月21日〜8月31日
1919(大正8)年度〜      7月25日〜8月31日
  *県 明治33年以来      7月26日〜9月5日 
     大正初期に変更か?    7月21日〜8月31日 
 詳細な教務日誌が残されていないため、一部を紹介しよう。

1.武道土用稽古 
 休みに入ると直ぐに1週間〜10日間にわたり武道稽古を実施!
 創設期の「質実剛健」の気風の育成を示すものであろう。
 「…忍耐力の養成、それ以上大切な事は礼儀である。…物事を細かに少しの隙間もなく観察する精神を作りあげていく」(昭3年卒小林清平)
 昭和初期まで実施されたらしい。

2.休業中の登校は、1〜2日有り、朝礼・清掃・作業であった。
 (記録としては昭和10年度以降である。)
 家庭にあっては、多くは5時〜6時には起床、ラジオ体操に行ったり、野菜の取り入れ、草むしり、上級生になると午前勉強、午後友達と庭球したり、桐生川に水泳に行く「胸の当たりまで水があり気持ち良かった」と。
 家にはもちろんエアコンなど無く「今日は発狂しそうな暑さだった(屋内33.8℃)」猛暑・酷暑と日記に記す

3.4年生で上級学校への進学を目指す生徒には、厳しい夏休みであった。
 学校からは、かなりの量の宿題が出され、宿題と個人的勉強が主な学習であった。また数日間学校での講習会もあったらしい。また先輩との懇談会もあった。「僕は持久性に乏しい、勉強しよう勉強しようとは常に思う。しかし意志が薄弱のため断行できない。そのうちにコオロギが鳴き出し秋風が吹き渡る」約一ヶ月の予備校通いの生徒もいる。
「和文英訳の時間は難しくてエスケープしようかと思ったこともあったが、聞かなければ尚分からなくなると思い返して頑張り通した。」

4.旅行など、家族・友人・一人旅も盛んであった。
 登山は、富士山、尾瀬沼、木曽御岳など海水浴は、千葉や茨城が多く、親戚の家を利用している。
北海道旅行、松島見物、須磨明石、近場では、赤城山、足利花火見物

5.登山、昭和3年度頃から休みと同時に
 校友会遠足部の主催による登山開始。
 それぞれ なからの強行軍である。現在で言えば、中学1年から高校1年が中心である。現在の生徒では、果たして踏破出来るであろうか。

 1928(昭3)年7月25日〜 教師2人・生徒16人
  水沼―徒歩―老神温泉の手前の穴原温泉泊 約30キロ
  老神―徒歩−菅沼・丸沼―金精峠―湯本温泉泊
  湯本〜バス〜中禅寺湖・日光〜

 1929(昭4)年7月25日〜 教師4人・生徒25人
  上越線後閑駅―徒歩―法師温泉泊 約28キロ
  法師―徒歩―三国峠越えー湯沢温泉泊 約30キロ
  湯沢―汽車―新津・会津若松泊
 1930(昭5)年 草津白根・志賀高原 教師2人・生徒10人
  中之条から川原湯温泉まで約24キロ
  草津香草温泉から草津白根山越えで渋温泉まで約28キロ

 1932(昭7)年 教師4人・生徒25人 尾瀬へ
  水沼の一の鳥居から―徒歩―根利南郷―穴原温泉泊
  約30キロ
  老神―バスー鎌田―徒歩で三平峠越えー尾瀬沼泊
  約24キロ
  尾瀬沼―尾瀬ヶ原―富士見峠―鎌田まで
  徒歩30キロ

 1933(昭8)年 教師2人・生徒40人 富士登山
  多摩御陵参拝後、富士吉田にて休憩
  午後6時半 登山開始―
  「八合目以上は雨にて眺望きかず困難を極む」
  翌日、川崎大師・泉岳寺・宮城・靖国神社参拝し帰桐

 1935(昭10)年 教師?人 生徒38人 尾瀬日光
  トラックで利平茶屋―赤城越えー老神温泉泊 徒歩24キロ
  鎌田の先から徒歩―富士見峠越えー尾瀬ヶ原―尾瀬沼へ 
  「泥土の路に丸太を二つ割りにして横に並べたるを
  渡りて進む。踏み外せば膝を没する泥土なり」
  徒歩26キロ
  「高山植物今を盛りと咲き乱れ、美観筆舌に尽くし難し」
  尾瀬沼―三平峠―大清水・根羽沢を遡り峠越えー丸沼泊
  18キロ
  丸沼―菅沼―金精峠―日光湯元―バスで日光へ
  徒歩24キロ

 1936(昭11)年 教師6人 生徒34人 富士登山
  二日目 午後6時半 馬返しから登山
  ―五合目午後8時―
  八合目午前3時―頂上午前4時半。
  吉田着午後1時―大正天皇陵遙拝―桐生着午後10時

6.昭和13年度から夏休み前後の動きは、変化してくる。
 それについては、次回に記す。

7.昭和23年新制高校発足。
二学期制となり夏休みの基本的日程も変わり7月11日〜8月25日までの間に、学校ごとに設定された。
 桐高の場合(多くの普通科男子校の場合)7月16日〜8月24日までが原則的に夏季休業となった。
 さらに、二学期制のため、9月末に3〜4日間の休業日を設けた。

9.昭和42年度に二学期制から三学期制となり、
 夏季休業は7月21日〜8月31日を原則とした。

10.現在はどうなっているのか?
 県の管理規則が改定され、年間の休業日数の上限以内で、学校ごとに定められるようになった。
 桐高では、
  2005(平成17)年度 7月21日〜8月28日
  2006      年度 7月21日〜8月27日
  2007      年度 7月28日〜8月27日
  2008      年度 7月24日〜8月28日
  2009      年度 7月24日〜8月27日
  2010(平成22)年度 7月23日〜8月29日
                (なお、土・日の休日を含む)

 こうして、桐生市域内の高校にあっても、統一されてはいなので、
夏休みが終わり、生徒が一斉に通学し始めるかと思うと、まだそうではない
学校の生徒もおり、世間は戸惑うこともあるわけである。

 

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其の二十六 水泳

 7月3日同窓会総会・懇親会が無事終了した。
 今年も幹事学年の51年卒が頑張ってくれました。
懇親会では、51・52年卒が大変多かったようです。しかし、例年再会する大先輩・小先輩、そして後輩並びに恩師が少なかったようで、寂しい面もありました。また来年元気に再会を期しましょう。

 総会もすみ、学校では定期試験もすみ次は球技大会ですが、何年前からか球技大会は、秋一日になったようであります。そこで暑い夏を迎え、「水泳」について触れましょう。

 水泳(古い時代には 水浴びと言っていたが)
 明治、大正時代、個人や家庭でも水浴びに行ったり、海水浴に行っている。
桐生周辺では、もちろん渡良瀬川で、赤岩の岩場あたりは勇気がないと飛び込めない場所であった。大間々の高津戸付近も水浴びの場所であったし、桐生川も1メートル位の水かさがあった時もある。ふるちん、越中ふんどしの時代である。
 有力人士の家庭では、新潟の鯨波や茨城の阿字が浦などに海水浴に行ったであろうが、桐生は他府県からの転入者も多く、親戚が新潟や千葉・茨城・神奈川などに有る家の子どもは、夏休みに海辺で過ごした生徒も何人もいたようである。
 限られた資料であるが、水泳が記録されているのは、
1920(大正9)年
7月3日 「本日より10日間、第四・第五学年生徒
…梅田村附近の桐生川にて水泳をなす」
 
8日「朝礼の際、…水泳に関する講話あり」と、教務日誌にある。

 その後の記録は未発見のため分からないが、水泳も行われていたであろう。
新川運動場の西北隅に「新川プール」が竣工したのは、1932(昭和7)年7月であるが、どの程度利用したかは分からない。
 昭和8年夏、植木松太郎(後、広島県教育界で活躍)は、泳げない生徒がかなりいたので、校長の許可をとって、川に連れていって訓練をしたと語る(桐中第19回同窓生還暦記念誌=昭和58年刊、植木松太郎=72歳の「近況と思い出」より)。
「…最後の日に赤岩へ連れて行った。川からまっすぐに崖が切り立ち、下は深い淵となっている。私は先ず淵に潜って岩等危険物のないことを確かめ、
『さあ、飛び込むんだ。俺が模範を示すから続いて来い』とダイブした。」
手伝おうといって一緒に来てくれた配属将校の生駒少佐が「ためらう生徒を次々と掴まえて突き落として下さる」。そして最後に少佐は「頭を下に真っ逆さまにともかく飛び込みの形で水面に落ち深く潜られた。…」と。そして「顔が浮かんで来たら、いつもはピンと跳ね上がって威厳のあるヒゲが、ドジョウのように垂れ下がっていて、大笑いした」と語っている。

 1938(昭和13)年7月の記録では、夏期特別指導で「水泳」があり、
桐生川の「第一遊園地」とある。現在の本町3丁目から菱に向かい、幸橋の附近に遊園地(個人が作ったもの)があり、ボートも浮かび水泳場もあり賑わったそうである。ただ小生の記憶にはない。
 学校では、新川プールも遊園地のプールも使用したと思える。
 1943(昭和18)年の8月31日には「校内水泳大会」を新川プールで開催。分団対抗、一般対抗あり、水球もあった記録が残されているが、その前後に水泳の記録の文献資料は未発見。運動会もなくなり修学旅行もなくなり、なんで「水泳大会」なのか分かりませんが、先生方も苦労して考えたのでしょう。
 なお、昭和18年度から「海洋訓練」と称して海での訓練が始まったが、それは学校行事ではなく、軍の要請で5年生が千葉まで出かけた。80年史には、田村輝夫(19年卒、母校在職25.9〜54.3)詳細な記録が記載されている。19〜20年は、希望者であろうか榛名湖で実施された。
「新川プール」は、22年9月カスリン台風で崩壊した。
 昭和30年前後に「水泳部」が活躍しているが、他市や近隣学校のプールを利用しているが、普段は「阿左美沼」であり、「冷たく、汚かったが、そこしか無かった」と!

 また、桐高にプールが完成し、その後取り壊されたのは、
1967(昭和47)年12月竣工〜2000(平成12)年3月取り壊し。
実質31年間ということになる。この間以外は、戦後「水泳」の授業は無かったと思える。水泳の授業をサボり秋になって、一面あおみどろに覆われたプールで泳がされた生徒もいたようである。
 夏休み中、部活動の合宿中に原則的には禁止されているが、夜に部員がプールで騒いでいたものである。
 また、プールを利用し、校内球技大会の一種目として「水球」が実施されたが、多分昭和40年代末からであろう。バスケットやハンドボールでの接触プレー、肉弾戦が少しは避けられるかもしれないという教員の親心であったが、悪ガキたちは水の中でもじゃれあい、陸に上がってからも角付き合わせていたものである。少なくともエネルギーだけはあの当時の若者は持っていた。

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2010年06月03日

其の十八 遠足など

桐生中学校草創期=町立中学時代の遠足等(関西方面への修学旅行は除く)
(下記に略年表を記す)

まず、相生方面に競馬を見に行ったというのがあるが、桐生町やその周辺には農閑期に競馬場が幾つか設置され賑やかに行われたらしい。正確な位置は確定出来ないが、現在の美原町の校庭から昭和小、その西側にかけて競馬場があった。
相生では、恐らく現在の相生駅南側の台地から笠懸にかけてか?足尾線と両毛線に囲まれた「二万坪」などと言われたあたりらしい。大正6年7月17日にアメリカ人のアート・スミスによる曲芸飛行が行われ近隣近在から多くの観衆が押し寄せたが、木曜日であり学校全体として見に行かなかったのであろう。後に医師としてまた社会活動のリーダーの一人前原勝樹=当時の桐生町長前原良太郎の子息で、桐生から太中へ通学していたが、学校を早引きしてサボって見に来たと書いている。

 赤城山登山は、創立二年目に初めて実施。後には、夏休み中の「校友会」(学校長を会長にした教職員と生徒の組織で、現在の生徒会よりも学校の管理・指導体制貫徹している組織であるが、校友会の主催とすると、県教委への手続きなど面倒でなく比較的自由に出来たらしい)主催で何度も行われているが、学校全体で赤城登山は、その後実施されていない。

一泊二日、中学1〜3年全員で踏破した。コースは、
 桐中→大間々→梨木→一の鳥居→利平茶屋→鳥居峠→
 大洞湖畔猪谷旅館着泊
   *旅館着後、10人ばかりは地蔵岳へ登る
 大沼湖畔→小沼→長七郎→不動の滝→三夜沢→大胡→新里→相生→桐中着
行き6里、帰りが7里と言われる(約52q)。

 戦後、全校赤城登山は、秋の学校行事として復活した。
昭和41年10月8日である。
水沼まで貸切りバスで行き 水沼→利平茶屋→鳥居峠→小沼→大胡駅まで、登って駆け下った。大胡からは上電利用。
 (この年には、利平茶屋から鳥居峠まで、東武のケーブルカーが営業していたが、恐らくそれは利用しなかったであろう。また前橋方面からは、この年「赤城・白樺ラインの有料道路が開通していた」。
 43年は、桐高からバスで水沼駅まで行き→利平茶屋→ケーブル撤去跡の階段を直登し、鳥居峠→小沼→忠治温泉から大胡駅までは、バス輸送であった。
 この「赤城登山」は、新たに浮上した行事であり年度当初から決定されてないため、その時の一年生は、同じ年に二度赤城へ行くことになってしまった。
 41年の一年生(44年3月卒)は、小旅行として、上電の大胡駅から、忠治温泉〜小沼〜大洞=バスで前橋へ 日帰り
 43年の一年生(46年3月卒)は、バスで大洞まで行き、黒檜登山という日帰り旅行を実施している
 44年は、足尾線の臨時電車で水沼駅まで→前回と同様
 47年は、上電で大胡駅まで行き→忠治温泉→牛石峠→小沼→大洞 帰路は大洞からからはバスで前橋→上電西桐生駅まで。

4回の日帰り赤城登山を実施したが、輸送機関の問題もあり、生徒の希望も秋の学校行事としては、文化祭や運動会の希望も多く、取り止めになった。
 (群大工学部が、桐生から利平茶屋まで夜間赤城マラソンを実施しはじめたのは、昭和34年からである)

日光へ
 1966(昭和41)年の同窓会報で藤倉喜代丸(1923=大正12年卒)は、当時、修学旅行の反省会で「阿世潟峠越えを面白おかしく発表した」と語っている。
 1918(大正7)年の足尾・日光方面の旅行は、足尾鉄道(大正元年開通)で間藤まで行く。当時の足尾の町は4万人前後の大きな町である。駅から久蔵沢を遡及し標高1,417mの阿世潟峠を越えれば中禅寺湖であった。しかしこの峠は銅山の煙害で斜面が崩壊し通行ができなくなってしまい、大正から昭和にかけては半月峠(1、581m)越えの道が利用されていたという。深沢を登り半月山の頂上南斜面をまいて半月峠を越える道である。
 昭和8年の桐中生の記録には半月峠越えが残されている。
 中禅寺湖に一泊し、翌日日光へ下り、東照宮などを見学し、東武日光線で栃木へ出て両毛線で帰桐するのが一般的であった。日光から再度足尾に戻る時は恐らく細尾峠を越え足尾に出たのであろう。後の(1936年)の国道122号である。
 なお、学校行事としての「遠足、修学旅行」以外に、主に夏休みに校友会遠足部主催の登山が盛んに行われているし、個人・家族での旅行、登山も盛んであったが、その詳細についてはあらためて記すことにする。

1917(大正6)年10月25日 日光へ一泊二日の修学旅行 全員
1918(〃  7)年 2月26日 相生方面遠足 競馬を観る。全員
          5月23日 2・3年 横須賀・江ノ島二泊三日
          5月24日 1年生 足尾・日光へ 一泊二日
          9月 2日 小俣村方面へ 遠足 全員
         10月 1日 赤城山へ 全校生 一泊二日
1919(〃  8)年 5月15日 3・4年生 箱根方面二泊三日
               〃    2年生   横須賀方面二泊三日
          5月16日 1年生   日光方面 一泊二日
         10月22日 茶臼山方面 遠足 全員
         11月 2日 鳴神山方面 遠足 全員
1920(〃  9)年 4月16日 貴船山に遠足 全員
          5月17日 京坂地方修学の旅に、五年生上る
            21日 2〜4年生 修学旅行
            23日 一年 唐沢山に遠足
          7月27日 赤城登山隊出発 一泊二日 希望者
         11月22日 菱村 仙人ケ岳に遠足 全員
          2月 3日 新里・笠懸方面 遠足 全員


 新制高校になってからの「日帰り遠足(小旅行)」
小旅行については、昭和30年まで 今のところ不明のまま。
30年代は、32・36〜38年度の一年生等について不明だが、31年度には一年生がユネスコ村、吉見百穴に行き、33年度秋には3年生も藤原ダムに行っている。
 小旅行については、同窓生の個人的アルバムに写真が残っていれば、分かる可能性がある。
 昭和39年度(火災の後)からは、一年生の小旅行は、判明している。しかし3年生で実施した分については、未調査でもあり、確定しがたい。
 小旅行については、40年代末から50年代初めの頃か? いわゆるレジャー施設を中心とした「日帰り修学旅行」は、充分再検討せよという話が、県教委から有ったような記憶があり 行き先も少し変化し始める。

 1998(平成10)年度、理数科設置に伴い、小旅行は改変され、普通科、理数科に分かれて、一泊二日の「研修旅行」なっている。また、一年生全体でオリエンテーションを兼ねての宿泊研修など実施しているようで、昔ながらの「遠足」といった気分の行事は、今はないかも? 

―最後に、遠足後日談だが、共に昭和30年代のことである。―
@ 遠足が終わり桐生駅で解散となり、二人の生徒が学校に自転車を取りに戻ったところ、女の悲鳴! 男が女性をつれこみ押し倒している。生徒は直ぐに警備員の市村さんに急報し、男を取り押さえ、一件落着。
20年代から30年代、浮浪者やアベック等が随分校庭には入り込んでいた時代であり、一部に柵を作ったこともある。
A 遠足が終わり、解散。数人の生徒が帰りにちょいっと一杯。その内一人が三丁目の交番でつかまり大騒ぎ、翌日一網打尽となったこともあった。その時ある部の一年生は、これで「部」は停止、解散になるのではと真っ青になったという。

参考文献 追加
 「皇海山と足尾山塊」 (増田宏 昭47年卒)

  

posted by 100年史編集者 at 12:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活