2010年10月29日

其の四十 マラソン@

 1917(大正6)年、桐中開校の年、6月7日 午前11時 「桐生町天満宮社前より新桐生駅まで長距離走を行い午後二時終了帰校す」と、教務日誌抄にある。いわゆる「マラソン」である。
この後、境野小から天満宮間、高津戸・桐生間、八幡宮・天満宮間など実施され、年三回実施された年もあり、また賞品授与もあったと記されている。
 「マラソン」は、初代渡部学校長が好んだと言われるが、渡部の浦中時代には、長距離走の記載はあまりない。また「町民への中学校アピール」の狙いもあったと言われるが定かではない。
 それにしても、当時の「マラソン」で大変だったのは、町内(市内)の道路状況であろう。本町通りは巾12m位で泥土の道、雨がふれば泥んこで、馬糞、牛糞など! 古老は「何処へ行っても馬、又馬であるから馬糞の山があちらにこちらに見られた。これが又、乾燥してきて名物の風でも吹いたら大変、馬糞の砂塵が舞い上がる。今の犬の糞害どころではない」と語る。
市内の舗装が始まるのは1932(昭和7)年以降であった。
 自動車の方は、心配無かった!
桐生自家用自動車第一号は、大正6年日本絹織(株)の社長が購入、しかも「群一号」である。8年に金木屋が2台購入しハイヤー業を開始、9年に回進社が新桐生駅までの送り迎えを開始したという。昭和7年には、85台になったが、交通事故の心配は無かったであろう。
 新桐生駅の開設は、大正2年。錦桜橋(吊橋)の架橋は4年である。それまでは、盛運橋から新宿上手を通り「後谷」の渡船により渡良瀬川右岸に行ったのであるが、駅開設により架橋と現桐生・伊勢崎県道が開通したのである。
古老は「…雷電神社前まで新道が出来て本町と通じたが、道の両側は雑木林で狭くて、石がごろごろしていた道であった。新桐生駅近くは土堤を築いて道を作り両側に小さな桜の木を植えてあった」と。
「…渡良瀬川には橋が架けられた。木材を組み立て八メートル位のピーヤを三箇所建て、半ば辺りに広い交換場所があった」と。
 その錦桜橋は、大正11年の出水で右岸が流失し、14年に鉄材・コンクリート・木煉瓦等使用した本格的橋梁として出来上がった。
 そのためか、12年頃には、「天満宮〜新桐生間」の長距離走の記録はない。

 さて、長距離走=マラソンは、前橋師範が明治33年開始以後毎年実施。
沼中では、大正2年11月 第一回長距離走 約9q。
前年の金栗らの参加したストックホルムオリンピックの刺激があったとも言われるが、前中では、大正3年10月16日、学校から駒寄小学校まで二里十数町の長距離走実施、上位30名を表彰したとあるが、その目的は、「欧州戦乱」「東洋に飛び火」「我が国民たるもの居常志気を養い身体を鍛錬し一致共同の精神を養成」としている。
高中が大正7年創立記念行事として実施、二里二十四町
太中は大正9年徒歩部の主催で始めて実施し、距離は8qと12qの二コースであった。

 桐中の記録は大正12年〜15年は不明、昭和2年以降の「教務日誌抄」には、「長距離走」の記載はない。実施はされていたが、重要な行事ではなかったのかも知れない。「長距離走」とは別に「遠足」「行軍」「夜間行軍」などがしはしば実施される時代となったのである。

 1936(昭和11年)県下男子中等学校駅伝競走が始まり、昭和14年には「山野横断競走」となり17年まで行われた(以降は駅伝どころではなくなった)。
桐中も参加しているが、競技部の生徒が中心であったと思われるが、その予行として「校内マラソン」が実施されたとある。
 16年
水道橋―水道山―光明寺―岡公園―天神様―昭和通―本校
約6q
 17年
校内5qマラソン並びに 水道山〜光明寺―盛運橋〜山野横断走
戦前の記録はこれまでである。戦後昭和23年3月までの旧制中学時代には
運動会は行われたが、「マラソン」の記載は未発見である。

[桐生高校時代]
  「80年史」では、運動会の一種目として実施されたマラソンと「校内マラソン大会」との区別が曖昧であるが、第一回「校内マラソン」大会は、昭和23年度、24年2月4日に実施され、当時陸上のホープであった星野光男君が優勝した。また運動会の一種目として各分団代表による「マラソン」があり、天満宮折り返し、昭和橋折り返し等で実施されている。

[マラソンコースは?]
 パソコン上で略図を描く技術を持っていないので残念なのだが、将来的には図示したいと思う。ただ、何時どのように変化していったのか、各年の図面が残っていないし、細かく走路が変更されているので基本走路のみを触れるしかない。

1.本町通り〜末廣町〜駅前〜赤岩橋〜……
 昭和34年4月一年生までは、本町通りを颯爽と駆け抜けた?!はずだ。
校庭の野球のホームベース側をスタートし正門(現在の西門)を出て左折、昭和小脇通りから、錦町(過去にはロータリー)、本町通りを北上し、五丁目交差点を左折、駅前を西へ向かい赤岩橋を渡り、相生小を過ぎ、左折し如来堂から桜木町へ、
→→広沢へ向かい昭和橋を渡り交番を左折し一路西上し、ロータリーをへて(この昭和橋経由は、第一回だけか?)
→→桜木町交差点を左折し、錦桜橋を渡り、ロータリーを左折
そして 
→→再び正門(現西門)からゴールへ
→→昭和小の角を右折し、東門(現正門)からゴールへ

2.赤岩橋経由、阿左美沼折り返し、または周回コース
昭和35年〜40年までは
 桐高東門(現正門)右折し陸橋を渡り白鬚神社…赤岩橋…
 上電冨士山下駅手前を右折し桐生機械(現ヤオコー)裏から
 一気に阿左美沼を周回し、北下し桜木小の通りを南進、
 新桐生駅前郵便局交差点を右折し錦桜橋、すぐ右折し
 厚生病院南側、警察、栄研の脇を通り
 桐高正門〔現西門〕からゴール。
  *厚生病院が現在地に移転したのは 昭和35年6月
  *桐生警察署が移転したのは、   昭和40年2月

3.赤岩橋にさようなら、渡良瀬川右岸を
  赤城を望み疾走、阿左美沼周回
昭和41年〜48年まで
 桐高正門(現西門)〜桐商脇・警察・厚生病院〜錦桜橋〜
 土手〜
 桐生機械裏に下り阿左美沼周回〜一気に北に下がり川の
 土手に上がり錦桜橋を渡り、商業脇から桐高正門ゴール。

48年優勝の山同君は、自分達が桐高校庭スタート・ゴールの最後ではなかったかと語っている。

4.桐高河川敷グランドスタート〜桐高正門ゴールへ
昭和49年・50年
 49年〜桐生大橋架橋、道路拡張によりスタートは河川敷
 に移った。
 また、阿左美沼から国道122号に出る手前で走路が一部変更。

「…スタートは河川敷だったため校庭裏門の時のトラブルもなく土手を駆け上がった。沼を半周し…桜井先生などが緑や紫のマジックを持って…掌を出させてチェックされる。…商業の脇を通って桐高の裏門を目指し…体育館の前あたりが確かゴールだった気がする。…ふらふらになって倒れ込むように…ゴールした。…リンゴを2個持たされたものの寝ることも立っていることも出来ず芝の植え込みの所に…しばらく四つんばいになっていた…9位と10位のトロフィーは明らかに大きさが違う…」と、51年卒9位入賞の高草木章君。

5.スタート・ゴール 河川敷グランドとなる。
昭和51年〜54年
 河川敷→左岸土手→錦桜橋→右岸→大橋手前から降りて
 桐生機械の先から左折・右折をして阿左美沼へ、
 沼を右回りして→足仲団地を通り→
 桐生機械裏から右岸に出て錦桜橋経由河川敷ゴール

6.渡良瀬川土手・サイクリングロード、
  桐生大橋・昭和橋折り返し。
昭和55年〜平成6年
 往きは、渡良瀬川右岸土手道路を桐生大橋下まで西進し、
 サイクリング道路におりて昭和橋折り返し
 復路の錦桜橋の横断が出来ず、
 橋の下をくぐり橋の西側土手を上がり
 錦桜橋〜左岸土手〜河川敷へ

7.桐生大橋を渡り河川敷ゴールへ
平成6年〜
 錦桜橋〜右岸土手〜桐生大橋から
 サイクリングロードなどを走り
 昭和橋を折り返し、錦桜橋下を駆け抜け
 桐生大橋の南詰を上がり
 大橋の歩道を走り河川敷のゴールに。
 錦桜橋の架け替え工事が始まったことにより
 コース変更となった。

8.平成10年〜
 理数科設置に伴い女子入学により、
 男子・女子二コースとなる。
 但し、平成13〜15年度は、錦桜橋新設架橋のため
 マラソン中止。
 距離やコースについては生徒会誌「山紫」に
 掲載されていないため、
 学校関係者に資料提供を依頼中。
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2010年10月14日

其の三十九 身長・体重(男子)

 現、桐高2年生の平均身長は、169.7p、体重63.2sである。
(2007=平成19年、桐高保健室調べ)

  それでは、以前の生徒は?
残念ながら資料はほとんど無かったが、この夏、半分は炭化した焼け残り資料が見つかった。それを慎重に整理、調査し、生徒の体格検査結果を纏めつつある。もちろん、昭和2年頃までは尺貫法で表記されているがメートル法に換算した。
そして、旧制中学5年生の記録であるので、現高校の方も2年生記録である。

              身長=p   体重=s  資料数=人数
 1920(大正10)年卒 157.1  49.9    17
 1921(大正11)年卒 158.1  50.3    20
 1937(昭和12)年卒 159.8  52.1    82
    [昭和12年全国] 160.1  51.5

  全国でみると戦前の平均値の最高は昭和14年前後であるが、
桐中のデータはなく12年のデータを記載した。

    [昭和23年全国] 157.9  48.7
    [昭和24年全国] 158.7  49.6
 全国のデータは、15〜22年までないが、恐らく低下し、大正時代まで
の平均に後退してしまったと考えられる。
 戦時中そして戦後数年間続いた様々な食糧不足、食糧統制の結果、即ち「戦争」の一断面であると言ってよい。

 1952(昭和27)年  161.6  51.4   381人
   (桐高発行の「補導の栞」より)
    [県統計27年]  160.1  50.1

 「終戦後、著しく低下した学徒の体位も既に戦前を凌ぐ域に達しております」と、養護教諭の景浦先生が述べたのは昭和28年であった(桐高新聞より)。

 1967(昭和42)年  167.2  57.3
 1977(昭和52)年  169.2  59.9
 1987(昭和62)年  169.9  61.0
 1997(平成 9)年    データ未発見
 2007(平成19)年  169.7  63.2
このように、桐中創立期から身長10p以上 体重10s以上の体位となったのである。

[余談 戦前編]
一、昭和11年、第13回春の選抜甲子園 桐中準優勝
 この第一期黄金時代を築いた青木らの身長・体重は?
  青木正一 170.0p  68.4s  ピッチャー
  塚越源市 157.0p  53.5s  キャッチャー
   (二人とも年がちょいっと上だけど) そしてショートストップ
  皆川定之 155,0p  52.0s である!!
   皆川は阪神で活躍する頃には160p位になったらしい。

二、昭和18年 五年生千葉保田海岸における学徒海洋訓練 五泊六日
 八月十八日 朝食 ナス汁、干し大根煮物
       昼食 三目飯 キュウリの漬け物
       夕食 コロッケ二個 ジャガイモ トマト
   十九日 朝食 コブの煮物 コブの汁
       昼食 アジの煮物 唐茄子の煮物 ナスの塩漬け
       夕食 三目飯 ネギの汁 ナスの塩漬け二片
 *これで戦争に勝てると思えたか?!
  「欲しがりません勝までは」

 そして更に、
三、昭和19年 夏〜 中島飛行機尾島工場への勤労動員
「金属の食器に乾燥イモ、或いは大豆に米が付いている盛り切り…
夏には、水を飲みながら硬い大豆飯をたべ、下痢で苦しんだ」
「赤イヌの肉が旨い ということで庭に迷い込んだイヌを食べようと捕獲を試みたが失敗した。ネギ焼いて食べたが美味だった」

四、報国農場
昭和15年3月から、現テニスコート〜小中学校にかけての荒蕪地を借用し悪戦苦闘の農地造成が始まり、遂に馬鈴薯・甘藷の収穫を得るにいたった。
開墾地は、他にも平井、水道山、相生にもあった。

[余談 戦後編]
  戦後の社会状況は、外史で触れることではないので、衣食住すべてに係わり想像を絶する時代であったと述べるに止める。食糧についてだけでも、食べる物が手に入らない、いわゆる代用食、麦飯は当たり前、さつまいもにトウモロコシが主食になった。或いはヤミ市で手に入れるか農村部へ買い出しに行く。金がないからそれまでタンスに仕舞っていた衣類を持って「買い出し」である。
「タケノコ生活」という。一枚一枚着ているいるものを剥いで食い物を手に入れる生活である。

一、「…校庭は掘り起こされ …森喜作氏の厚意により平井町の山林、相生村の竹林合わせて10ヘクタールの開墾が為された。9月の残暑の中で泥と汗の苦闘であった」(宮前定四郎「在職30年の思い出」より)。
20年10月 平井農場開墾→生徒は薩摩芋一本ずつもらう。
 (前中では10月、生徒のストライキ。その要求の一つに「学校農園耕作目的の明示と収穫物の処理方法如何」とある。同じ10月太中でも教師排斥のストライキが起こる。その背景の主たる要因ではないが、物資不足の問題もあったという)。

二、硬式野球は、22年春、戦後初出場、常見・川端の時である。
 何とか寄付金も集まり、米等は在校生の農家に頼み幸いにして集まったのだが、当時食料品等は移動禁止で見つかれば没収されてしまう。そこで、渡辺後援会長が桐生駅長に掛け合い、専用の貨物列車に人目をはばかり積み込み封印して宿舎に送ったという。米八俵、ジャガイモ、蝋燭、燐寸、枡等であった。蝋燭は停電対策用、枡は旅館に渡す米を正確に量るためであったという(ここまで 松尾八郎先生談)。
この年夏の大会でも、貨車でヤミ米11俵を送ったが、初戦小倉中に敗れ残った米を小倉中に提供したという「有名な話」がある。

三、戦後も米麦はもちろん日常生活の必需品は一切配給の統制下に置かれ、25年に藷類が解除され、米穀は30年産米より自主供出制になり、配給であるが日々の主食として確保できるようになったのだが…。
    一ヶ月当たりの配給基準は、
  昭和28年 内地米 12日分、外米3日分
  昭和31年 内地米10日分・準内地米1日分 外米14日 希望5日
 一人一日当たりの基準
  14〜25歳未満    402g
  25〜60歳未満    385g
 31年10月から 一律に 365gとなった。
  (米一合は 凡そ140〜160gであるから、3合に満たない)

四、◎桐高生の寄生虫卵検査 昭和27年6月 生物部の検査による。
 検査人員472人
 回虫卵保有者 受精卵 132人
        未受精卵 36人  計 168人   36%
 鞭虫・蟯虫卵保有者           40人    8%
 ◎虫歯の未処置の数 昭和27年の定期身体検査
      337人 全体の36%
 ◎トラコーマ13人 結膜炎12人
 ◎蓄膿症  46人(23%)
 
* 「食糧メーデー」「米よこせデモ」1946(昭和21)年5月1日
    「朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ臣民…」不敬罪適用される。
  「東京地裁山口判事、配給生活を死守して栄養失調死」
                  1947(昭和22)年10月11日
  「貧乏人は麦飯を食え」     1950(昭和25)年12月
    大蔵大臣 池田勇人の発言
  「もはや戦後ではない」     1956(昭和31)年
    経済企画庁「経済白書」
 思い出される先輩、学兄もおられることでしょう。

   
posted by 100年史編集者 at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球

2010年10月07日

其の三十八 帽子・帽章

 2〜3ヶ月前になるが、桐高事務室に、帽子・帽章、特に昔の帽章は手に入りますかというお電話が同窓生から有り、事務室では、現在は、ないのですと答えたということであった。

 1917(大正6)年4月11日の町立桐生中学校開校、第一回入学式の時に、新入生が決められた帽子を被っていたかどうか、それは不明である。渡部初代校長が着任したのは3月30日であり、その時に既に細則が制定されていたとしても、入学者の発表が4月8日であり、制服・制帽等を保護者が準備するのは、かなり難しいと推測する。
 開校当初の「生徒心得」の「第一章 服装」には、
「一 登校のときは、必ず制服制帽靴を着用すべし」とある。
翌大正7年度の初め頃、教職員と生徒全員の集合写真が残されている。
その写真では、生徒は全員帽章のついた帽子を被っている。面白いのは、教職員もすべて帽子を手にしており、教練の坪内鋒三郎は軍服軍帽を着用し写っている。
 この後、帽子は登下校の際、着用は義務づけられていた。戦争末期、昭和20年3月の卒業式集合写真を見ても、生徒は帽子を被っている。一部の生徒が帽子を被らず、また「戦闘帽」などを被っているのは、戦後初期である。

 「旧制中学」から「新制高校」に移り、帽子は変化なく帽章の「中」が「高」に作り替えられた。
 昭和31年の入学生への通知には
「帽子は本校規定の型でなければならない。帽章、学年章、バッジは本校規定のものを規定の位置に附けること」
 昭和34年の「学園生活の心得」には「帽子は本校所定の型のものを着用する。無帽で通学してはならない。」とある。
小生の同級生の一人は、頑として無帽で通し、一年の頃は大分上級生にこづき回されたようであった。最期の写真撮影の時は多分来なかったと思う。

 これが変化し始めるが何時かは断定出来ないのだが
昭和38年の「学園生活の心得」では、
「帽子は本校指定の型のものを着用する」とだけある。
昭和43年の修学旅行の写真では、約半数の生徒が帽子着用
    45年の修学旅行では、約三分の一位か?
    46年の修学旅行では、1クラス数人か?
昭和49年の「学園生活の心得」では
 「帽子は本校指定の型のものを着用する」
生徒手帳が全て保管資料として無いので、「帽子」規定が何時消えたのかは分からないが、実際には、40年代半ばには、帽子着用を生徒はしなくなったと思える。

 それ故、桐中・桐高の帽子・帽章を手に入れようとしても、なかなか困難である。
 もちろん、現在の「生徒心得」には、「頭髪・装身具について」の規定はあるが、「帽子・帽章」についてはない。

なお、帽子等については、戦後であろうか? 指定業者があった。
桐高新聞(1号〜100号)縮刷版の新聞広告で見る限り
 「洋傘と帽子はゼヒ当店へ サトウ帽子店」昭和24年7月の第6号に始まり、「サトウ 帽子洋傘専門店」昭和46年3月の第82号で終わっている。
長い間、お世話になりました!

posted by 100年史編集者 at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | その他・閑話

其の三十七 校内球技大会

 9月30日(木)、同窓会校内幹事の先生から「昭和42年卒の卒業記念アルバムが届けられた」と連絡を受け、42年版は資料としては欠けていたものなので早速学校に出かけた。
 学校では、小雨ぱらつく中「校内球技大会」が行われていた。
昔は、一学期末、夏休み前の7月に二日間で実施されていたのだが、いつの間にか「秋の行事」となっていた。
 球技大会が、二日間から一日となったのは、2002(平成14)年
       秋の一日に移行したのは、  2004(平成16)年である。

[桐中時代]
戦前の桐中時代には、例年武道大会が行われていた。
大正7年2月「武道競技会を催す」とある。例年、冬季休業明けから武道の寒稽古が始まり、納会の日に紅白試合等が行われ、また教師と生徒との対抗試合もあり、学校長が大活躍することもあった。
1941(昭和16)年1月 寒稽古 
職員・生徒対抗戦あり 剣道=山下・市川・岸・平野・湯沢教諭
          柔道=加藤・市川・今仁・門伝・中川教諭
          竹下校長の五人掛け
 「校長先生の技益々冴え生徒五人ともたちどころに薙ぎ倒された」と。
球技大会としては、
1940(昭和15)年 6月 校友会野球部主催の野球大会
  学年別対抗4年優勝 教員チームも参加
            11月 体力検定が雨天で中止となり
           組対抗ピンポン大会実施

戦後、昭和21年9月、学年対抗の野球試合が行われた。その結果をみて、生徒を選抜し県下の軟式野球大会に出場、優勝するという快挙があった。軟式野球部の成立でもあった。

[桐高時代]
新制高校の発足した23年11月〜24年・25年の桐高「文化祭」は、音楽祭・学芸大会・運動会などを実施、その中に「球技大会」があり運動会と同様に生徒の出身地区別の「分団」対抗で、野球・庭球・バスケット・卓球等が行われるようになった。
 26年には、生徒会の体育委員会が主催し、学年別クラス対抗で6月下旬野球と庭球が行われた。バドミントン・卓球・バスケット・柔道・体操・継走等は夏休み後に実施されることになったと、学校新聞にはある。
 28年には10月に実施、主に放課後実施、
 29年、2日間 残り3日間は放課後か
 31年度まで実施され、種目は剣道、相撲なども入ったが柔・剣道、相撲などは棄権するクラスが多かったという。二種目も三種目も出る者もいて「これは民主主義ではない 運動を楽しもう 得意で無い者も参加しよう」と。

これらの行事は「校内競技大会」と記されている。他校でも名称は同様。
 32年7月10〜13日には「校内球技大会」が実施
 34年7月7〜10日には「校内競技大会」
 35年7月11〜13日午後、14日「恒例の校内球技大会」実施
 37年6月27〜 変則的に4日間

 39年度から「6月末、或いは7月に二日間で実施する」と、職員会議で議論の末、球技大会を行事として定着させたのである。
 44年に「柔道」が種目として入ったが、80年史は「校内競技大会」の名残かと記すが、この年インターハイが群馬で開催、バドミントンの練習会場となり体育館の補修工事で使用出来ず、種目の変更をしたのである。
 種目としては、この後サッカーも入り、後にハンドボールに代わり水球を実施した年もある。

 この球技大会には教職員チームも卓球、バドミントン、バレー、テニス、ソフトボールなどに参加し、生徒チームと戦い、生徒の審判の判定に教員がクレームをつけ却下されるなどもあった。バスケットなどはまさに格闘技であるから生徒は教員に闘志をむきだし、ソフトテニスには(硬式)テニス部員の参加、ソフトボールには、硬式・軟式野球部員の参加もあり、激しく真剣にそして勝敗にこだわる激戦を展開したものであった。
 この球技大会で最も燃えた先生は、体育の小林孝昭先生(昭和37〜59年3月)であろう。生徒は先生の闘志に圧倒され何かを学んだかも知れない。
テニスでは、鉄人原田こと数学担当原田洋一先生と英文堂こと小野武雄(桐高24年卒)先生の熟年パワーコンビ、体育の萩原正美(桐高30年卒)の変化球サーブは、生徒を圧倒し翻弄したものであった。また事務職員・司書の女性も参加し黄色い声がこだましたものであった。
 各年度の「卒業記念アルバム」にも必ず「球技大会」の写真が取り入れられている。
 平成に入ってからの状況は分からないが、聞くところによると教員チームの参加は、行っていないらしい。そうだとすると、少しばかり残念なことである。授業などでの生徒との触れあいとはまた違い、愉快な楽しい交流であり、生徒の不断見せない諸相を発見したりもできるのだが。
 この9月30日 たまたま桐高での球技大会の場に行ったところ、今年は
ソフトボールで、生徒の優勝チームと教職員チームが試合を行うことになっていると聞いたのだが、お昼前後からあいにく雨が強くなり、果たしてどうなったことであろうか?
posted by 100年史編集者 at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活

2010年10月01日

其の三十六 戦死・戦病死

 1931(昭和 6)年 9月18日 満州事変勃発
 1937(   12)年 7月 7日 日華事変(日中戦争)勃発
 1941(   16)年12月 8日 太平洋戦争勃発

 戦争の勃発、泥沼化、局面の変化の過程で、桐中卒業生の応召(或いは志願)も数をました。また、卒業時点並びに中途修了で軍部諸学校へ進学する生徒も増え、ある期間を経て実戦部隊に配置されていった。
 桐中関連資料は、極めて限られた資料しかないが、最初に「戦死」が報じられたのは、昭和12年9月7日「浅野正寛君の戦死を弔う。『偉丈夫浅野正寛君』という印刷物を全校生徒に配布」とある。故浅野氏は、桐中7年の卒業であり、法政大学へ進学されていた。
 昭和14年5月15日「野原大尉の遺骨迎え」後に学校・分会の合同葬。
故野原義雄先生は、桐中同窓生ではないが、12年8月教練科教諭として着任、10月に応召、14年1月7日中国山東省に於いて戦死。本校在職中に応召され、戦死された教職員は、野原先生一人であるかも知れない。退職或いは転勤後に応召され戦死・戦病死された教職員は二〜三人おられる。
 昭和14年10月3日 戦死者慰霊日として教職員・生徒代表は、故野原先生をはじめ、7人の戦死された同窓生のご遺族を訪問、御墓に詣でる。
 昭和16年11月7日〜「改築落成、創立記念式典」挙行。
記念大展覧会開催し、「慰霊室」を設置する。その中に「十二先輩の御祀り」を行ったとある。太平洋戦争勃発まで12人の同窓生の戦死を確認していたと思われる。

 昭和17年1月8日 陸鷲隊 森純一大尉戦死(上毛新聞より)。森大尉は硬式野球部員で昭和3年卒。以前に母校での講演もあった。
 「卒業生、桑原秀安君(飛行兵曹長)が真珠湾攻撃で戦死されたことは始業式で学校長より生徒に知らされた。」12年3月の卒業で14年4月甲飛合格し霞ヶ浦航空隊に入隊した。(艦爆機蒼龍による第二次攻撃で敵艦に突入)

 昭和17年12月9日、本校関係者の慰霊祭実施
   18年12月4日 慰霊祭実施 具体的内容は不明
  この後、卒業生に係わる文献資料はない。なお上記三人の氏名は、多くの関係書籍に記されているので敢えて載せる。

 昭和27年11月2日 桐中・桐高35周年記念式典挙行
 岩野新三郎同窓会長は、「…十数年ぶりで会員名簿を刊行……ただ悲しいかなこの十年のブランクの間に我が同窓会も第二次世界戦争の犠牲者として百余名の会員を失いました。…戦没会員にたいして…近き日を期して一大慰霊祭を挙行し…霊を慰めるべく既によりより協議を始めております。…」と述べている。
 その後慰霊祭実施の有無は文献資料などからは、不明である。
また、戦争犠牲者については昭和27年度版の同窓会名簿には百名を越える同窓生に印が付されている(但し、筆者は、未だ27年度版名簿を手にしていない)。
 今回、その名簿情報を基に調査をして、不充分ながら、卒業生(修了者を含む)の戦死者・戦病死者数を記す。(修了者は、卒業予定学年とする)
また、具体的人名については、記さない。
 1917(大正10)年3月卒〜1929(昭和5年)3月卒 11人
 1930(昭和 6)年     9人
          7年     5人
          8年     6人
          9年    12人
         10年     6人
         11年     7人
         12年    14人
         13年    13人
         14年    14人
         15年    17人
         16年    13人
         17年     3人
         18年     2人
         19年     4人
            合計 136人

6年〜16年まででは 卒業生数889人中116人で13.04%であり、特に15年卒業は77人中17人 22.07%!!!
(20人という説もある)。
 殆どの「校史」は同窓生の戦死者数については触れていない。
[参考]
 ・太高90年史は、一部資料を提供している。それによると桐中と
  前記同時期 卒業生1280人中 戦死者220人 17.2%
 ・桐生工専(現 群大工学部)では、昭和20年10月現在 129人
 ・慶応義塾大学の最近の報告では、二千数百人
 ・桐生工業高校 昭和14年第一回卒業生
  46人中14人戦死 30.4%

 桐中戦死者の調査は、極めて限られた資料の基に行ったもので、その実数はかなり増えると思われるが、調査能力に限界もあり、2010年夏現在である。

 外史(32)で、昭和20年5月予科練に中学3年生で入隊した「寄せ書き」のある「日の丸」の旗が有ったことを触れたが氏名以外の「語句」の一部を記して置く。
 「祈武運長久」「大義大勇」「尽忠報国」「撃ちてしやまん」「神州不滅」「行け特攻隊」「つづくぞ」
 そして「君之為明日は召されて行くぞ ガンジー」
これは、恐らくガンジーこと八田有親先生ではないかと思う。
当時、入隊する生徒に対して「生きて還ってこい」と言っただけで、急遽
召集され前線に送られた教師もいたと、他校の話で有るが。
一枚の寄せ書きには「虎」が大きく描かれている。これが何を意味するか?
やはり「虎は、……還る」という願いであったか! そうだとすると、よく描くことが出来たと思うのだが…。


 「戦争」に関しては、まだ触れなければならぬ事があるが、取り敢えずここで中断する。
posted by 100年史編集者 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 野球