2010年10月01日

其の三十五 教員の応召

 「桐高80年史」には、日中戦争勃発した昭和12年以降の教員の応召について記載されている。若干修正を加え纏める。(敬称等略。年号は昭和。年齢は召集時点での推定。 嘱託であった場合、除隊後桐中への復帰は基本的にはない。また、配属将校については除く)。

上条(須貝) 盛 11.7 着任 数学 29歳召集 12.8〜14.10
松島 利一郎        体育 40歳   12.9〜14.12
野原 義雄   12.8 着任 教練      12.10〜 (戦死)
井土 良二   10.4 着任 歴史    13.4〜 短期間で除隊
大塚 文栄   16.4 着任 國漢 25歳?  16.4〜18?
                      (18年3月の卒業写真にいない)
村沢 肇    16.4 着任 柔・國      16.7〜18.3
湯沢 茂平次  15.6 着任 教練      16.9頃? 不明
中川 良一   15.4 着任 英語      16.9〜16.10
鈴木 茂雄   16.4 着任 柔道 24歳   16.10〜
                    (後に戦病死)
公下 幸次   16.7 着任 柔道      16.12〜
湯本 聰一郎  17.1 着任 國漢 26歳?  17.3 〜17.8
若林 栽一   17.1 着任 柔道      17.9〜

 18年度以降
荒川 榮一   16.8 着任 教練      18.12〜? 除隊
金井 正夫   13.4 着任 英語 33歳   19.6 〜20.9
太田 龍善   18.12着任 教練 30歳?  19.7〜20.9
岸  恒雄   15.10着任 数学 36歳     〜20.9
新川 高重   16.4 着任 歴史    〜21.3 中国より復員
松島 実    20.4 着任 国漢 32歳     〜20.9
阿形 一三   17.4 着任 理科 29歳     〜20.9
田島 博卓   18. 数学 28歳  19〜21.3 ビルマより復員
飯村 星明   20.5 着任 書記 29歳   20.6〜20.9

 もちろん、この間応召されなかった先生、既に転勤された先生方、また昭和20年8月以降桐中・桐高に赴任なされた先生方も以前に軍隊経験を持っておられる先生が多い。
 最大、昭和23年3月中学卒(18年入学)まで軍隊に行く可能性があったと考えると、1991(平成3)年3月までにご退職された先生方の何割かは、軍隊経験をされていたと推測してよいと思う(現在満80歳以上)。
 しかし、昭和30年代〜桐高で過ごした私達は、授業その他でも、先生方の軍隊経験の話を聞くことなど全く無く、恩師の戦争経験に思いを馳せることもなかった。

 故太田先生は、昭和8年桐中卒で、大学卒後12〜18年まで兵役、中尉で除隊した後、桐中に着任、一年後に再度召集でした。陸軍中尉で恐ろしい(おっかない)「教練の教官」であったのです。私達にとってみると、新里のお坊さん・「里芋」で、地理の先生でした。
 「万年伍長」こと、故松島利一郎先生(体操)は、大正9年桐中に赴任、その12月から一年志願兵を勤め復帰、昭和7年約二ヶ月の充員補充召集、12年は三回目であった。生徒は「万年伍長」と言っていたが、「曹長」に昇進していた。
 「へいたん」こと、故田島博卓先生(数学)は、桐中9年卒で桐生高等工業を卒業後民間に勤め、18年に桐中に赴任、19年には召集されたと推測する。戦後21年にビルマより復員するのだが、あの「インパール作戦」の部隊にいたのではないかと思うが、まだ確認はしていない。
 「おばけ」こと、故吉田宏蔵先生(英語)は、前中―浦高―東京帝大卒の秀才です。先生は帝大卒後、半年間幹部候補生として入隊、除隊後民間企業に勤務し、16年9月応召〜中国北部を転戦し、戦後20年11月に大尉として復員。23年4月 桐高に着任したのでした。
 「おさら」こと、故斎藤雁夫先生(社会)は、群馬師範卒業後、4年に「短期現役兵」として高崎15連隊に入隊し、5ヶ月で伍長として除隊、その後兵役は有りませんでした。
小学校の教員養成を主とする師範学校卒業生の兵役は一般と違い極めて短期の入隊で且つ小学校教員を7年以上務めるとその後の応召も免除されていました(詳細は省きます)。昭和14年の兵役法改正があり、実質的には以前の慣習が続き、昭和18年の師範学校の専門学校への昇格や学徒動員の開始に伴い、師範学校卒業生への応召も一般の人達と同じ様になり、学校の教員も召集されていったのである。
 「満州」こと、故川口正巳先生の軍隊経験は不明であるが、13年12月〜満州國佳木斯の学校に勤務、戦後22年に引き揚げ 釜石の教員となり、翌年桐高に赴任されてきた。だから「満州」だったのである。
 「台湾」こと、中澤孝一郎先生(歴史)は、親の関係で幼少時に桐生広沢から台湾に渡り、台北帝大を卒業、台南師範などに勤め、19年6月から召集、20年9月除隊、21年日本に引き揚げ、5月桐中に赴任したという。

 大学生は、在学中であれば、26歳まで「徴兵猶予」であったが、昭和18年からは廃止され「学徒出陣」で応召(20歳→19歳)、または徴募に応じて入隊した。
 「八ちゃん」こと、松尾八郎先生は、18年3月桐中卒で桐生高等工業学校に入学(翌年桐生工業専門学校に改名、現 群大工学部)、19年5月以降、本格的に「学徒勤労動員」が始まり、20年5月頃学校に戻ったが、卒業後の就職先が指定され、希望であった教員には成れそうもなく、「特別甲種幹部候補生」に徴募し相馬が原の部隊に伍長として入隊、胸突かれ首絞められての訓練、そして終戦。学校は9月に繰り上げ卒業となり、10月に桐中に着任したという。
 故中曽根敏夫先生は、20年東京高等師範学校生で、3月以来の大空襲の連続で命からがら自転車をこいで郷里高崎に戻ったところ「召集令状」が届く。
「…日の丸タスキガケで挨拶まわりをした。8月20日、宇都宮野砲隊入営であったが、15日終戦となった」と。そして6ヶ月後、桐中へ新米教師として赴任したと。

 先生方の履歴は、人事記録に記載されているというが、それを私どもが閲覧することは出来ませんし、まして桐高の場合学校炎上により記録そのものが有りません。先生方御本人或いはご家族の記憶によらなければ、戦争中の先生方の軌跡も分からないのが実態であります。先述したように、先生方から「戦争」の話をほとんど聞くことがないうちに、多くの先生がご逝去されていった。

 桐中の現職で戦死されたのは、1人か? 退職或いは転任後戦死・戦病死された方は3人と思われる。富中では、5人、太中では5人、桐工では3人である(いずれも嘱託を含む)。




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2010年09月23日

其の三十四 配属将校

 陸軍現役将校配属令は、1925(大正14)年2月公布された。
桐中には、4月24日、第14師団下の高崎15連隊から長谷川貴夫大尉が着任した。
以下、配属将校は
昭和2年 4月 〜 5年3月  月野大尉
   5年 4月 〜 7年1月  青山大尉
      (病気の為か 臨時に百瀬保赴任 〜7年1月)
   7年 1月 〜 8年8月  生駒大尉 (後に 戦死)
  (7年2月〜10月召集、臨時に萩原清三郎)
   8年 9月 〜11年8月  瀬戸少佐
  11年 9月 〜12年8月  薄井大尉
  12年 9月 〜12年12月 原田中佐(臨時)
  12年12月 〜15年1月  広瀬大佐(後に少将。桐生市長)
  15年 1月 〜16年3月  清水大尉
  16年 4月 〜19年3月  柴崎中尉
  19年 4月〜 20年7月  岡部中尉
以上と推定し、桐生教育史の記載と若干異なる。
なお、昭和12年〜現役将校だけでなく予備役の将校も着任した。

配属将校は、他の中等学校等との兼務もあり、また地域諸団体の指導もあった。
また、配属将校は、勿論「教練」の指導にあたったが、学校には「体操科の教練教諭」「嘱託の教練教諭」もおり、更に配属将校の助手もいた。この教練教諭等と助手的教諭の区別が、資料がなく判然としない。もともと配属将校や嘱託教練教諭に関しては人事記録が県にもない。14年の金子勘之助は嘱託か?
16年からの中島源吉は教練助手である。但し、生徒からみれば全て先生、教官であった。

 現役将校を配属することにより、教育に軍事的な指導が直接加えることになり、授業では「教練」の増加、「行軍、野外演習、合同演習、兵営での宿泊訓練」等々の学年別、全校行事が徐々に増加、特に「満州事変、日支事変」を契機に増加した。もちろん「学校の軍国主義化」は、単に「教練、関連行事」の増加によって推し進められただけではないことは、付言しておく。
当初、陸軍省の文書では、
1.教練施行のため、学生・生徒に成るべく経費の負担を重からしめざること。
  教練の参考書の購入を勧めたり、雨天に教練を強行し彼らを泥濘中に伏臥させ、
  被服の汚損を考慮しないようなことはするな。
2.「軍事教練」または「軍事教育」なる語を平然と使用するな。
  教練の目的を誤解されることになる。「学校教練」である。
3.配属将校は、教練の教官として学校長の指揮下に入ること。

軍縮の進行という状況の中で、しかも余った将校の働き先の確保という事もあり、陸軍当局は初め頃は世論の風当たりを気にして慎重であった。

 教練の授業は?
「体操」の内容は、桐中開校当時は、「普通体操(体操)」と「兵式体操」から呼称を変えた「教練」で、一般には週3時間であるが、桐中では「唱歌」1時間を実施しないで「体操」を4時間としていた。教練以外は、主に器械体操・柔道・剣道であった(後に柔剣道も入る)。
大正14年 配属将校配置により「体操」は週5時間(5時間以上も可)
昭和 2年〜体操科は「教練」と「体操・武道」なった
昭和 6年〜体操科は「教練」・「体操」・「武道」となる。
昭和18年〜体操科を「体練科」とし、教練・体操・武道とし「国防能力の向上に努める」とした。
授業としての「教練」は、週3時間程度が普通であった。
教練の評価は、生徒が入隊した後の昇進にもかかわり、また、年一回大佐以上の査問官による「査閲」があり、配属将校の勤務評定の面もあったが、「学校評価」がなされ、卒業生の軍隊での昇進にもかかわったと言われる。

 学校と配属将校とのトラブルは他校「校史」にも有ったと書かれているが、具体的には書かれていない(有名な事件は、伊藤整や小林多喜二に関係のある「小樽高商事件」。また昭和19年前後の五高=熊本の学校長が、満州最前線の学校に左遷された事件など)。
 また、旧制中学でも生徒の「ストライキ」が有ったが、その際に配属将校が乗り出してきたという記載は、他校の「校史」にもなく、少し不思議に思っている。
 桐生中学では、教練中には厳しかったが普段は優しく気をつかってくれたという回想もあり、生徒は教練助手などを陰では綽名をつけたり、「ちゃん」づけで呼んでいた時もあるらしい。

 昭和57年前後に昭和14年卒同窓生による「山紫抄」という冊子が刊行されている。その中に植木松太郎先生の「思い出」の記がある。植木先生が古稀を過ぎられた頃書かれたと思われる。
「…生駒少佐は如何にも軍人らしい軍人で私は大好きだった」そして水泳の話をするが、それは外史(26)に書いた。
「これに反してS中佐はいやな奴だった。…位階勲等が校長より上だと威張り、天皇陛下の御命令で来たと公言した。忠孝を自分の専売の如く説き夜は酒色に耽溺した。」植木先生は何度か衝突しそうになり「非国民」と、怒鳴られたり、酒席では「…酔った中佐が私の前に憤然と来て指揮刀を抜いて畳みに突きたて、お前は生意気だ、位階勲等はこれだけ違うのだ!」と。
ある時、伊藤校長に呼ばれ一枚の文書を渡される。「高崎連隊司令官より、貴校には植木という非国民の教員がいるとのことだが、実情を詳細報告せよ、とあった。」
また すぐに校長に呼ばれ「出された文書をみると、本校教育のためには、S中佐より植木教諭が大切だという旨の(校長)報告だった。私は何の咎めもなく4月に広島文理大に帰った。」
 植木先生20歳台なかばのことである。ニックネームは「だんご」であった。
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其の三十三 陸士・海兵等への進学

外史(32)で「予科練」について触れたので、少しの間、戦争に係わることを触れておこう。

 陸軍士官学校(陸軍経理学校その他)へは、中学四修或いは五年生で受験、予科士官学校から士官学校に進学した。中学一〜二修程度で幼年学校を経て予科、士官学校という進路もあった(幼年学校には3人の入学を確認している)。
 海軍では、海軍兵学校・海軍機関学校・海軍経理学校など中学四修程度以上が受験、進学した。
 それぞれ卒業後、士官となり、更に一部は陸軍大学校(陸大)・海軍大学校(海大)に進み軍隊でのトップエリートになっていった(海軍の場合、海大が必要条件ではなかったが)。
旧制中学校からの進学は、日露戦争直前の明治35年頃から始まり、第一次大戦、その後の相対的安定期、軍縮の進展の中、地方からの進学は激減。
昭和5〜6年頃から再び受験する生徒が出でくるのである。しかし、陸士や海兵の合格は、旧制高校の一高や浦高受験と同等の難関であり、桐中のトップクラスでも、浪人して入った場合もある。
 桐中からの進学数(合格数ではない)を記す。昭和5年3月以前の卒業で、何年か後に陸士に入学した者も2名はいる。また、四修で入学した者、浪人して入学した者もいるが、下記の数字は、卒業(予定)年である。
 但し、調査に限界があり、実数はやや増えると思える。

1931(昭和6)年3月卒  陸士1           
       7       陸士1           
       8       陸士1    
       9       陸士1 海機1       
      10       陸士1           
      11       陸空1           
      12           海機1       
      13                     
      14       陸士1 海兵1       
      15       陸士1 陸空1       
      16       陸士1           
      17       陸士2 海兵2       
   
    18年度以降陸士入学生、19年度以降海兵入学生は、
    終戦時には、在学生であったと思われ、それぞれ
    5人位いたと思われる。また上記の内、確認した戦死者は2人。
桐中から軍諸学校への進学は、県下の他中学に比較して多いか少ないかは
他校の「校史」の資料も乏しく分からない。また、桐中卒業生で大佐・少将以上の軍人がおられたかどうかは不明である。

*「富中史」が詳細な資料を記載しており、それによると
昭和6年〜17年まで 陸士18人 海兵16人で、そのうち13人が
戦死されている。大佐・少将以上のものは15人いるが、全て明治から大正初期の卒業生である。
20年終戦時に軍学校在学の富中卒業生は、陸士16人 海兵22人であった。

*桐中同窓生で陸士・海兵、また予科練での体験記は、手元にほとんど資料がない(同窓生の戦争体験は、「古老の回想記」として何冊が出版され、その中に同窓生の戦争体験記が幾つかある)。
 「桐高80年史」には、昭和18年10月、桐中三修で予科練に入隊した加藤榮一氏の投稿が載せられている。
また、20年5月、桐中二修で予科練に入隊した田村元治氏の回想記は、氏の同窓生グループ「桐京会」の小冊子に載せられている。
昭和20年3月卒業予定であった廣田秀夫氏が、海兵時代を振り返ったエッセイ「消耗品であった人間」は、市退職教育関係者の小冊子にある。
「(海兵に入校して)一番先に言われた言葉は、『貴様等は、消耗品である』…。…週番生徒が放送で『心に恥じる者は全員集合せよ』と号令がかかる。…一号生徒(三年生)の『修正』を受ける。つまり鉄拳制裁である。…夜昼きれる間がない。…二百回を越える頃から面倒になり数えることをやめにした。…先輩の乗った特攻機が飛来し翼を振って別れを告げ、特殊潜行艇が出撃前に湾内に司令塔を表し挙手の礼をして別れを告げに来たりした。私はその先輩方に帽子を振りながら『私もきっと後に続きますと誓った』。
まさに消耗品の叫びであった。」

 昭和14年、桐中四修で予科士官に進学、18年陸軍航空士官学校を卒業された町田一郎氏(陸軍中佐)の墓碑には「…二十年五月二十四日狂瀾既倒に回すべく特別攻撃隊義烈空挺隊として沖縄飛行場に強行着陸を敢行す 部隊全滅散華する……時正に二十三歳 愛児一郎往きて還らず…」とある。
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2010年09月19日

其の三十二 予科練など

 7月下旬からの猛暑! 先輩、後輩、諸学兄の皆さん、お元気でしょうか。
 7月25日に外史を載せ、途中現役生の「何期生?」という質問に、8月12日に外史(31)で回答を記しましたが、一月半にわたり外史を中断してしまいました。熱中症による脳細胞の弛緩が原因であります。
 9月8日(木)台風と前線の影響で夜半より久しぶりの雨となり、気温26℃! ホット一息ついた後、断続的な猛暑に揺さぶられ、15日夜半からの雨にてやっと秋となったようであります。

 さて、連日の記録的猛暑の中、今年も8月6日、9日、15日と過ぎていきました。戦争に係わる新たな事実・証言・動きが様々新聞などでみられました。既に65年の歳月が経過しているのですが、まだまだ色々な傷痕は残されたままで、一定の歴史的総括が為されない側面が多々有ることが、今年もほんの一時ですがクローズアップされました。その中で、昭和18〜19年頃の旧制中学校における「予科練志願」強制割当てに関するテレビドラマが有りました。

 予科練=海軍の飛行予科練習生は、昭和5年6月創設。その中に「甲飛」が昭和12年創設、16年には中学4年一学期修了程度の16歳〜20歳まで
採用資格となり(後に3年修了、2年修了となる)、修業期間は1年2ヶ月(18年8月より6ヶ月!に短縮)。航空搭乗要員そして下級幹部である特務士官の養成が目的であった。卒業時には一等兵となり、短期間で上等兵そして下士官に昇進する道であった。(20年5月25日に入隊した本校の一予科練生は、一ヶ月後に一等飛行兵に昇進、特攻出撃命令を待たず8月15日終戦、9月1日上等兵で除隊、桐中に復学)。

 昭和14年、練習基地が横須賀から「霞ヶ浦」に移管、15年土浦に移管され、17年以降17箇所に基地が設置されたが、「霞ヶ浦」が予科練の代名詞となった。士官養成の予科練が、戦局の推移の中で結果的には、「特攻」の主力兵士となっていったのである。一説には、予科練の卒業生約2万4000人の内
18,564人戦死、特攻としての戦死は2,534人と言われる。
 陸軍は18年12月、下士官養成として陸軍特別幹部候補生=「特幹」を
創設し、15〜19歳の志願兵を徴募、卒業時には一等兵となり更に4ヶ月で上等兵に昇進した。一般には「少年兵」と呼ばれた。(陸軍少年飛行兵、少年通信兵、少年戦車兵等もある)

 この「甲飛」や「特幹」として入校したのは主に中等学校生徒であった。
昭和18年、19年戦局転換の中で、農工業の補充労働力としてだけではなく
中等学校生徒を本格的に戦力として捕捉していったのである。
 「…今や武力戦の中核は諸士の双肩にあり、19歳より既に徴兵である諸君、全校生徒を挙げて特幹に志願せよ…右顧左眄することなく直ちに志願して聖戦完遂の先駆とならんことを望む」(上毛新聞昭和19年1月12日付け)。
 これは陸軍の徴募講演であるが、海軍も同様な講演活動を実施。
ついに「強制割当て」となったのである。しかし、何時から始められ、学校側がどのように対処したのか、各「学校史」はほとんど叙述していない。
「太高90年史」が、「19年には、本校にも軍部諸学校よりの強制割当てが通知され、甲飛については86名の割当てがあった。太田憲兵隊からも志願状況などの調査などもあり…学校長も生徒に対して特幹、甲飛に奮って応募するよう朝礼時に話した。更に進学係の先生も…軍部諸学校へ受験をうながすこともあった」と記す。
 「前高103年史」は、昭和19年に入り、「陸士・予科練・特幹等は学校に割当てて人員を供出させることとし」と記すのみである。

 さて、桐中から「甲飛」に入学したのは、「桐高80年史」によれば、
 16年4月 四修で    1人(17年3月卒業予定)
 17年4月 3月卒    1人
 三修で 1人(19年3月卒業予定)
 @18年   採用数 桐中16人
 A19年3月卒業生のうち  9人
 B20年卒(四年修了卒) 10人 

@は、他校史に掲載されている県内予科練採用者数一覧による。
それによると、高中42人 太中20人 桐中16人 前中14人など
中学校145人。 前商15人 高工13人など実業学校78人である。
A、Bは出典が不明であったが、調べると19年3卒の桐中同窓生の証言によるものらしい。

 前高史では、18年以降8人が予科練に行く。
 太高史では、19年に予科練21人 特幹2人
       20年に予科練7人、 特幹1人
        但し人数不明の壮行会が4回あったと記す。
他校「校史」では、富高史には 海兵等・陸士卒業の氏名一覧
         藤高史には、16年3卒〜軍諸学校への入学者数がある。
一般には、軍諸学校への具体的入学者数は、「校史」上、一部の数字しかない。

 さて改めて桐中の場合、予科練に入校したと思われる生徒数
(多くは、桐中3年・4年修了で入校している)
 12年4月桐中入学者   2人
 13年4月  〃     2人
 14年4月  〃     6人
 15年4月  〃     7人
 16年4月  〃     2人
 17年4月  〃     4人  (陸少年飛 1)
 18年4月  〃     2人  (特幹1)
ここまで確認しているが、例えば16年入学生では、19年に3修で7人位桐生駅から見送られたという証言もあり、実際には、この倍位の生徒がいたのかも知れない。
 また、桐中における「強制割当て」についての資料または証言は、全くない。
但し、20年3卒(五年制)の予科練志願に関しては、何人かは工場動員中のトラブルが背景にあって、予科練志願をさせられたのでは?という微かな記憶を語る同窓生もいる。
 また、18年4月入学で、20年4月に二修の満15歳になったかならないかの生徒が、予科練に入校していたとは、全く考えてもいなかったが、少なくとも2人(この9月13日現在、他に2人いるかも知れない情報もあるが未確認である)は、同窓の友に送られ桐生を後にし、終戦により除隊、復学されたのである。その二人とも友人・教師による「日の丸」の旗に書かれた寄せ書きを「保存」されていたことが判明した。どのような思いで友人、教師たちは寄せ書きしたのか、また、ご家族はどのような思いで、その寄せ書きを手元に置いていたのであろうか。65年を経過しつつある今でも、あの戦争は終わっていない。

* 海軍の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」第一陣が出撃したのは、
19年10月25日、あの戦艦「武蔵」が轟沈し連合艦隊が事実上消滅した
レイテ沖海戦から始まり、20年4月からの沖縄戦では特攻機・のべ2393機(陸軍954機、海軍1439機)で、出撃機全体の三分の一弱であった。
 桐中同窓生で「特攻」で「散華」された方々は、判明しないが、数名の方々のお名前は確認している。
 人間魚雷「回天」は、19年11月7日、山口県の大津島基地から出撃した。「回天」に関係した戦死者は145人と言われる。

*余談だが、昭和18(1943)年9月 戦意昂揚映画「決戦の大空」の主題歌「若鷲の歌」の一節「…七つ釦は桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ…」
この予科練の歌はあっという間に大ヒット。作詞 西条八十 作曲 古関祐而
歌 霧島昇
 もう一つは「同期の桜」―
「貴様と俺とは同期の桜 同じ部隊の庭に咲く…」この作詞者も西条八十とされているが、西条八十の作詞は、昭和13年の「少女倶楽部」に載った「二輪のさくら」で「君と僕とは二輪のさくら……」。この歌詞を変えたのは、人間魚雷=特攻隊の生き残りの帖佐裕とされている。「回天」出撃の時に全員で「海ゆかば」を大合唱し、潜水艦側から「轟沈の歌」が歌われ、つづいて基地に残る士官たちが「同期の桜」を歌ったという。全国に広まるなかで「部隊」は「航空隊」「兵学校」「戦車隊」の庭にかわった(半藤一利「ぶらり 日本史散策」より)。
 戦後も軍歌の代表として歌い継がれてきたのだが、半藤は、あの戦艦大和の生き残り、「戦艦大和の最期」の作者吉田満の歌う「同期の桜」を聞いたという。
「…なにものかに対する抗議と怒りと、悲しみと死の覚悟と、すべてを押し込めて一つに固めた、腹の底から絞り出されてくる声であった」と書いている。
 戦争を知らない世代が、酒の勢いでチャラチャラ唄う歌ではない。
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2010年08月12日

其の三十一 何期生か?

 8月5日 桐高3年生から、自分達は「何期生?」という質問が、「なんでも掲示板」にあり、一応の回答は済んだのですが、少し細かくここで触れます。
 まず、第一に、「何期生」「何回生」という呼称は、特別に行政によって定められていることではありません。
 第二に、学校や団体によりそのような呼称を使用している所も有るようです。
例えば、戦前の陸軍士官学校、海軍兵学校では陸士○○期、海兵××期と呼んでいます。新設の学校などでも、暫くの間は「第○期生」と呼ぶところが有るようです。
 第三に、期生・回生では、西暦何年なのか、元号で何年なのか分かりません。
ですから、何年に入学した第○期生で何年に卒業したとか、何年卒業の第×回生ですと言いませんと、はっきりしません。
 第四に、期生は、一期生入学とか、何期生が卒業、と使用され、回の方は第何回の入学式とか卒業式そして第何回の卒業生だ などと使用されている場合が多いようです。
 第五に、「期と回」の事からはずれますが、元号も大変です。
例えば13年3月卒ですというと、桐中・桐高の場合、大正13年、昭和13年、平成13年と3回有ります。
 第六に、西暦でも元号でも、「年度」と「年」が有ります。
例えば、平成22年卒業と言えば、22年の3月卒と普通理解します。ところが「平成22年度」卒業となると、23年の3月卒となります。
これは、非常に間違い易く、学校関係の書籍でも「何年」なのか「何年度」なのか判断出来ない文章や資料が多々あります。
 平成21年度卒業生の大学入試結果 とは?
 平成21年度大学入試の結果 とは?

*以上の事から 「何期生」の使用等についてはお考え下さい。
 一年ごとに生徒が入学してくれば、その学校の第一回入学を第一期生として
カウントすればすむことです。
 団体・機関によっては半年ごとに一定の集団が新たに入るところもあります。その場合、一年内で 一期生・二期生と当然なります。

**さて、そこで桐中・桐高外史として、以上で良いのかどうか触れます**

 1917(大正6)年4月11日、町立桐生中学校 第一回入学式挙行!
  入学生→ 一年生 50人 → この生徒が「第一期生」か!
  ところが、
  二年生 17人が同時に入学しているのです。
 さあ〜て 「何期生」と呼ぶとしたら どうしたら良いでしょうか?!

 そして、この二年生が大正10年3月 県立桐生中学校第一回の卒業生となります。
     一年生は大正11年3月の第二回卒業生となります。

次ぎに、1945(昭和20)年3月のことです。
  25回目の卒業式挙行。卒業したのは
昭和15年4月の入学生と
昭和16年4月の入学生で、2学年同時に卒業です
(中学校の修業年限が18年に5年制から4年制に短縮されたのです)
共に同じ第25回卒業生と言えますが、同級生では有りません。
もし、それぞれに「何期生」とあれば、「1」違いますが、卒業は一緒なのです。

更に、中学校については補足がありますが、省いて、高校「新制高校」に移ります。
 桐生高校の開校は、1948(昭和23)年4月10日です。
その桐高の生徒はどのような生徒がなったのでしょうか?
 三年生は← 昭和18年4月桐中入学生の凡そ半分
 二年生は← 昭和19年4月桐中入学生の大部分
 一年生は← 昭和20年4月桐中入学生の大部分で
         23年3月の時は、「桐生中学校併設中学校3年生」
 詳細は省きますが、三学年分の生徒が一斉に桐高生となったのです。
ですから、
 「桐高第一期生」と もし呼ぶとすれば………どうしましょうか!
しかも、4月10日の開校にあたっては、県立高校どこも「入学式実施」とは言っていません。みな「開校式、始業式」であります。
桐高第一回入学生と 敢えて呼ぶことも出来ないのです。

 更に、しかも、この4月、県立高校の多くは、若干名の生徒募集をします。
桐高の場合、高校一年生と三年生若干名を募集します。
その結果、4月末に試験を実施し5月初めに「入学式」を実施していますが桐高の場合は、ご存じのように昭和39年の学校炎上により公的文書が焼失してしまい、はっきりと分からないのであります。
 恐らく、三年生に若干名が入学したことは間違いありません。
     一年生にはどうか、まだ確証がありません。
そして、5月はじめに、「あるいは、第一回入学式らしきこと」が行われたかも知れません。
 しかし、まさか、この5月に入学した若干の生徒だけを「桐高第一期生」と呼ぶことも出来ないと思われます。

***以上、概略説明させていただきました。
 桐生高校はもちろん戦前の中等学校から継続してきた
 県立諸学校では、「何期生」という呼称ほとんど使用されていないと思います。
 個人的には「何期生」という呼称は「なじまない」と思います。**
posted by 100年史編集者 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 卒業生・進学