2010年07月25日

其の三十 進学A

 1940(昭和15)年3月卒までは、前回の外史で触れたが、16年3月卒からの基本データはない。これは、桐高火災による特殊事情もあるが、多くの学校また専門学校においても無い。同窓会名簿等から推定すると、と言っても極めて不正確であるが
 昭和16年  高校進学 6人位  四修 1人
   17年       6人   四修 1人
   18年       3人   
   19年       7人
   20年       3人+5人

 戦争末期の進学
 学徒勤労動員が始まり、授業もろくろく無い事態の中でも、上級学校の入学試験はあった。どのように勉強し、どのような手続きして受験に辿りついたのかは、まだはっきりとはしない。なにせ勤労動員に明け暮れていた思い出が余りにも強いからである。

 昭和19年3月17日〜19日 桐生工専の入試実施
「急迫した戦時世相が反映したのと、文科系志望者らのなだれ現象があって、志願者総数は3600余名となった」(群大工学部75年史)。倍率は凡そ9倍であり550余名が入学した(前年度の志願は2084人)。しかし、工専に入学したからといって兵役、その他を免れたわけではない。入学式当日、学長は「…本校の教育方針は立身出世主義を飽くまで排除し、醜の御楯たる学徒を養成するものであり、意志薄弱の力なきものは、今日学校を去れ」と宣したのである。
 昭和20年2月21日〜24日 桐生工専の入試実施。すでに県内では太田地方を中心に空爆を受けていた時期である。3月17日硫黄島玉砕、4月1日
米軍沖縄本島上陸という事態の中、4月2日970人が入学した。
桐中からの桐生高等工業(桐生工専)への進学者は、20%前後と推定する。
19年卒からは定員150人であるから、30人前後であろう。

 ・東京高等師範は 20年2月 東京の大塚校舎で入試実施
  合格通知は3月上旬交付、各自動員先で待機。入学式は 7月23日
  日光高等女学校で実施
 ・浦和高校  20年1月頃、入試を実施。
  後に浦高の本館・講堂は空襲により廃墟と化していたと(20年卒藤掛)。
 ・千葉医科大学専門部の入学は、6月長野県飯田の阿南病院であった。(20年卒、山口) 
 ・群馬師範学校本科に入学した生徒は、33人であったが、在学していた
  中学校の動員先に通勤し、師範学校に入ったのは、20年9月であった。(桐中からの進学者は、若干名か?)

戦後、最後の「高等学校入試」は、昭和23年冬であった。
 昭和23年3月桐中卒は、11人が「高校」に合格した。恐らく桐中始まって以来であろう(浪人1人含む)。
 しかし、この先輩たちを待っていたのは「学制改革」であった。
その年の旧制高校の2・3年生は、24年・25年とすでに「帝国」の名前を削除した旧帝国「大学」への受験の機会は与えられたが、23年に入学した旧制高校生1年生は、24年春の「新制大学」への受験しか道はなかったのである。旧制高校に入ったのにも拘わらず、旧制高校から放り出されたといっても良いかもしれない。世に言う「白線浪人」溢れる。
しかし、桐中卒の「旧制高校生」からは、7人の東京大学合格者を出したと語り継がれている。

戦後、新制大学への受験のターニング・ポイントは?
1. 昭和31年度入試で、群馬大学が一期校から
  二期校に替わった時期
 (昭和24年発足した新制大学は、二つのグループに分かれ、当初群大は、旧帝大系の大学と同じ一期校のグループであり、旧帝大系をねらうには、浪人覚悟をしなければならなかった)。そして、ほとんど「大学の定員」  が増えなかった時期=「四当五落」「受験地獄」「灰色の青春」と言われた。

2. 団塊の世代が受験する昭和40年前後と
 高校紛争・大学紛争による東大・教育大の入試中止の時期

3. 昭和54年3月に始まった「共通一次試験」への対応、
 そして昭和末期のセンター試験の導入への対応

4. そしてバブル崩壊という社会的・経済的な大変動、
 「失われた10年」という平成初期の大学受験の変動

5. 平成13年3月、理数科の卒業生を出してからのこの十年。

 こうした長い眺望の基で「進学」も見てみたいのであるが、今、平成22年とすると、30年前の昭和末期頃からのことについては、まだまだ何かと差し障りのある事柄がありそうで、外史としても取り扱いにくいというのが正直なところであるが、また後の機会に触れよう。

 猛暑・酷暑が続き、「外史」担当者も熱中症寸前、少しの間「夏休み」としたい。同窓生諸氏のご健勝を祈る!  
 2010.7.23 am8:00 我が陋屋、30℃越える。
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其の二十九 進学@

 <「大学」「上級学校」への進学は、旧制中学校時代にはどうであったのかということを説明するのはかなり難しい。複雑な教育制度のため、一冊の本が出来てしまうであろう。3〜4枚のレポートでは無理であるが、極めて簡略に基本・原則を触れる。しかし、桐中が第一回卒業生を送り出す1921(大正10)年以前の流れについては、ほぼ省略。また正式名称も多くの場合簡略化させてもらう。また外地の学校については省略する。
また戦時中の昭和18年〜名称その他変更があるが、ここでは基本的には触れない。
 
 「大学」は、「帝国大学」と「官立大学」「私立大学」である。
しかし、中学校卒業では、「大学」受験は出来ない。

 「帝国大学」←旧制高校から進学が基本で、3年制
         (医学部は4年制)

 東大・京大・東北・九大、大正7年に北大。全専門学部が有るのは、東大・京大のみ。(北大には「北大予科」にまず進学)
 阪大は昭和6年、名大は、昭和14年創立である。
 *専門学校からも受験の機会はあった。

「官立大学」
 大正7年の大学令により、「専門学校」の一部が「官立大学」に昇格した。
  東京高等商業が東京商科大に=大正9年
  新潟・岡山・千葉・金沢・長崎医科大学(大正11〜12年)
  東京高等工業が東京工業大学に=昭和4年
  東京・広島文理大、神戸商業大学=昭和4年
 これら官立大学へは、高等学校から受験、また医大を除き高等工業や高等商業学校=専門学校からも受験
 医科大学には、昭和14年附属専門部が設置され中学4年卒からの受験の機会もあった。医専―医学部へのコース。
 「公立大学」は、京都府立医科や大阪市立商科
  
「私立大学」
 大正7年の大学令により、それまで「専門学校」扱いであった私立も正式に大学に昇格した。9年の慶大・早大から大正15年までに22校、昭和18年までに6校である。
 私立大学へは、その大学の「予科」に入学し、大学に進む。あるいは「専門部」、早大の場合「高等学院」に入り、大学に進む。もちろん、高等学校や専門学校から受験することも出来た。
    
トップエリートへの道
 国立の「旧制高等学校」3年制への進学
 「一高〜八高」までの「ナンバースクール」と
 大正8年の新潟から始まり17校の旧制高校
 水戸・浦和・静岡など「ネームスクール」がある。
*この「旧制高校」が、国家の一握りの「トップエリート」養成学校と
 言ってよい。この「高校受験」が教育制度のなかでは、最難関で
 あったと言える(軍諸学校は除く)。
 高校の定員と「帝国大学」の定員はほぼ同じで、学部選択さえかまわなければ、帝大に入学出来た。逆に希望の多い大学・学部によっては、入試が課せられた。
将来のトップエリートを約束された高校生は「弊衣破帽」「バンカラ」風にして「栄華の巷 低くみて」、自由闊達な3年間を送ったのである。
旧制中学生は、たかだかそのマネをした「田舎エリート」の段階であった。
*もう一つの「旧制高校」は、七年制高校である。官立東京高校、
 私立では、成城・成蹊・武蔵に代表される。
 ここには、小学校卒で受験した。
*高校受験は、年代により全国統一試験と高校別の試験の時期がある。
 大正15年から高校を二班に分け、二回の受験機会を与えた。

専門学校
 現在でいう「専門学校」ではない。現在では「大学」である。

大学に準じた「高等の学術技芸を教授する学校」で、中学卒以上の入学資格 で修業年限は3年以上と規定された。一部の専門学校は先述のように「大学 」に昇格したが、薬・医・歯・水産・商船・外事・音楽・美術・体育・法学 ・経済等、多くは、「専門学校」として存続し、また農・工・商などは、「 実業専門学校」と呼ばれた。
 多くの専門学校は、戦後新制大学発足時の母胎の一つとなった。
 桐中にとって最も関係深い「官立」の「専門学校」は
大正5年の桐生高等染織学校で、9年に「桐生高等工業学校」となった。
昭和19年4月法令改正により、桐生工業専門学校(地元では、「工専」) となった。

「高校」進学状況
 1921(大正10)年から1940(昭和15)年までの20年間に
県立中学校から「高等学校」への進学者は、462人=年平均23人
 桐中は、34人=年平均1.7人
中心は、やはり前中で 164人=年平均8.2人
       高中は  88人=年平均4.4人
前中・高中で60%弱を占めていたことになる。

 この統計は、県学事統計であり、現役と一浪の統計数字のように思われる。
そのため、「四修」で高校へ進学した生徒数は加えられていないようである。
前中の同窓会名簿では、四修は準卒業者として記載されており毎年数人の高校合格者を出しているようである。
 桐中の場合、四修で高校に進み、東京帝大に進学した生徒四人確認しているが、34人中では、東京帝大に19人、その他は京都帝大・東北帝大である。

 桐中で最初の高校入学者は、大正10年3卒の「柳田 保」である。
太中から桐中に転入し、一高から東京帝大農学部に進み、医学部に入り、昭和10年代末、桐生市6丁目で柳田産婦人科を開院した(後に閉院)
 もう一人は、平山坦であるが、新潟高校から帝大の医学部に進んだと思われるが、不明である。
 東京外国語学校(現、東外大)には、相馬一正(大10年卒)
 東京美術学校(現、東京芸術大学)には、藤生宗三郎(大12年卒)
 「四修」で浦高→東大の最初は、野中義夫(大12年卒)

桐中の進路概況(県学事統計による→統計処理にやや疑問点があるが)
 大正10年3卒〜昭和15年3卒までの20年間
 卒業生数         1458人
 実業(就職・家業後継)  657人(45.1%)
 高等学校          34人( 2.3%)
 大学予科          36人
 専門学校         385人(26.4%)
 その他 兵役・浪人・師範学校、学校職員、官吏等で、
 40%程度が上級学校に進学したとして良いだろう。

*町立桐生中学校創立の際、実業と進学の両面を掲げながら、
「普通中学校」の開設となったが、結果的には、実業と進学の学校となったようである。



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2010年07月22日

其の二十八 夏休みA

夏休みが消える?!

 1938(昭和13)年 7月24日〜8月31日
 1939(昭和14)年 7月25日〜8月31日 新校舎へ移転
 1940(昭和15)年 7月25日〜8月31日 
                   8月21日から作業・授業
 1941(昭和16)年 8月 1日〜8月25日 
 1942(昭和17)年 8月 1日〜8月20日 
 1943(昭和18)年 8月 1日〜8月22日 

 昭和13年度から夏休みに入る前の7月14日前後から
「夏期特別指導期間」が設定され 集団作業・清掃・夜営・演習夜行軍、運動・授業等が集中して実施。後半も後期指導期間として実質的に休みは短縮されたと思える。14・15年度の8月下旬には、四年生は「赤城山開墾作業二泊三日」
18年度の夏休みはには、五年生は高崎操作場作り5日間、千葉県保田海岸にて「海洋訓練」6日間と、五年生は休み無し状態。
それでも、この年1〜2年の希望者は、二泊三日の尾瀬登山を実施していた。
 そして
 1944(昭和19)年度
農家への勤労奉仕、作業が中心となり、授業はその合間に行われた。
学校によっては、「月月火水木金金」の「艦隊勤務」並みとなったところもある。
 遂に、夏休みを前にして
 7月15日〜四・五年生は、中島飛行機尾島工場へ動員
 泊まり込み
       三年生は、市内工場へ通勤にて動員
       一・二年生、援農奉仕・作業・授業
 遂に、「夏休み」は無くなった。いや
「休みが消えた」だけでなく、「学校生活そのものが消えた」のである。
 もちろんこの間、軍隊へ志願し入隊する生徒も続々と出てきた。
 18年度の海軍甲種飛行予科練生は、県下中等学校から142人合格。
桐中は16人である。10月1日以降入隊が始まった。
 19年4月 「90年史」年表には、5年生は、50人強が軍部関係に行ったと書かれてある。
 一般に3修で志願する生徒が大部分であるが、2修(中学2年修了予定)で、甲飛や特幹へ行った者、予定の生徒もいた。実際に何人行き、何人学校に戻ってきて、卒業していったのかは、不明である。
   
 1945(昭和20)年
  五・四年生が卒業し、新四・三年生は市内の工場へ動員
 6月23日〜7月17日 一・二年生 宿泊農作業
 8月 1日〜8月 5日 一・二年生 作業等
     7日〜11日  一・二年生 休み
     12日    考査
     13日〜14日  空襲のため休み
     15日   二年生 吾妻への開拓のため桐生駅集合
        三年生、査閲予行のため久しぶりに学校へ
  正午「玉音放送」
  18日〜31日 「短い夏休みが始まった。しかし戦争中の重い気分からは解放されなかった。暑い、暑い夏であった」
   
 1946(昭和21)年、7月13日〜8月31日
「なが〜い 夏休みであった」


 徐々に、夏季休業日が減少し、その前後にも行事が組まれていくが、もちろん、年間を通して授業が欠け、演習・教練・勤労奉仕等が増加していく中で、遂に夏季休業日も減らされていった。
昭和18年、五年生の夏は、次には夏休みどころか、授業も何も無くなるぞという事態の到来を示す序曲であり、昭和19年「ど〜ん」と一気に学校教育崩壊に至ったのであった。
 この時期3〜5年生の動向は、少しは分かるのであるが、1〜2年生の動きがあまり記録に残されていないのが残念である。
18年入学〜23年・24年卒、19年入学〜25年卒の同窓生から、下級生であった時期の聞き書きも必要である。

 この昭和10年代のことは、生徒の置かれた状況から見ると
「太平洋戦争中の学校生活」として、学徒工場動員、農家への勤労奉仕、開墾・道路・排水溝作り、教練・合同演習等々としてひとまとめすることもできるのであるが、入学した年により中学校生活の体験には、異なることも多い。
 そのため、当時の記録以外で、思い出話・回想記となると、どうしても強烈な体験が中心となり、それ以外の日常的なことは捨象されてしまうことも有るし、同時期でも他の学年のことは分からない場合が多い。
 「○○年入学の5年間そしてその後の運命」として、入学年度ごとの生徒の軌跡を年表にする必要に迫られている。
 ただ、外史担当者には、今纏める余力はない。

*それにしても、今年(2010年)は、一気に猛暑・酷暑になった。
学校も大変だ!と思ったが、何と!「エアコン」が有るのだ
2007(平成19)年度に設置されたと聞く。。
posted by 100年史編集者 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活

2010年07月15日

其の二十七 夏休み@

 昭和9年夏
7月24日 柔道部7人、終業式後、東京講道館に向け出発。
  25日〜31日まで 午前8時半〜午後3時半まで 講義・練習
  28日には、三船八段の試合方法説明あり。
 「…宿舎への帰り道は疲れ切って自分の身体の様な気がしない。…兵量は
  一食15銭、足らないけど、費用は父兄の血と汗の固まりだと思い我慢する」

7月26日 野球 夏の甲子園県予選始まる。→北関東へ
  28日〜30 神宮での摂政杯予選〜  →神宮へ
8月 2日〜4日 北関東大会       →甲子園へ
  13日〜17日 甲子園、2回戦敗退
  21日〜26日 摂政杯争奪 神宮大会 →優勝
 「…正しき修練と純真なる努力とは、何よりも強き事を必々と知る」
 
 昭和10年夏
7月24日 剣道部6人、終業式後、国士舘専門学校講習に出発
  25日〜29日まで 午前5時半〜午後5時半まで 講義・練習
 「初めは、朝は腹がへり非常に目が回り苦しかった。午前は日本の名士のみならず印度人やラマ教徒等から講演もあった」
各運動部は公式戦並びに合宿の真っ最中である。

夏季休業日は、町立時代から県の規則に基づいていた。
1917(大正6)〜1918年度は、7月21日〜8月31日
1919(大正8)年度〜      7月25日〜8月31日
  *県 明治33年以来      7月26日〜9月5日 
     大正初期に変更か?    7月21日〜8月31日 
 詳細な教務日誌が残されていないため、一部を紹介しよう。

1.武道土用稽古 
 休みに入ると直ぐに1週間〜10日間にわたり武道稽古を実施!
 創設期の「質実剛健」の気風の育成を示すものであろう。
 「…忍耐力の養成、それ以上大切な事は礼儀である。…物事を細かに少しの隙間もなく観察する精神を作りあげていく」(昭3年卒小林清平)
 昭和初期まで実施されたらしい。

2.休業中の登校は、1〜2日有り、朝礼・清掃・作業であった。
 (記録としては昭和10年度以降である。)
 家庭にあっては、多くは5時〜6時には起床、ラジオ体操に行ったり、野菜の取り入れ、草むしり、上級生になると午前勉強、午後友達と庭球したり、桐生川に水泳に行く「胸の当たりまで水があり気持ち良かった」と。
 家にはもちろんエアコンなど無く「今日は発狂しそうな暑さだった(屋内33.8℃)」猛暑・酷暑と日記に記す

3.4年生で上級学校への進学を目指す生徒には、厳しい夏休みであった。
 学校からは、かなりの量の宿題が出され、宿題と個人的勉強が主な学習であった。また数日間学校での講習会もあったらしい。また先輩との懇談会もあった。「僕は持久性に乏しい、勉強しよう勉強しようとは常に思う。しかし意志が薄弱のため断行できない。そのうちにコオロギが鳴き出し秋風が吹き渡る」約一ヶ月の予備校通いの生徒もいる。
「和文英訳の時間は難しくてエスケープしようかと思ったこともあったが、聞かなければ尚分からなくなると思い返して頑張り通した。」

4.旅行など、家族・友人・一人旅も盛んであった。
 登山は、富士山、尾瀬沼、木曽御岳など海水浴は、千葉や茨城が多く、親戚の家を利用している。
北海道旅行、松島見物、須磨明石、近場では、赤城山、足利花火見物

5.登山、昭和3年度頃から休みと同時に
 校友会遠足部の主催による登山開始。
 それぞれ なからの強行軍である。現在で言えば、中学1年から高校1年が中心である。現在の生徒では、果たして踏破出来るであろうか。

 1928(昭3)年7月25日〜 教師2人・生徒16人
  水沼―徒歩―老神温泉の手前の穴原温泉泊 約30キロ
  老神―徒歩−菅沼・丸沼―金精峠―湯本温泉泊
  湯本〜バス〜中禅寺湖・日光〜

 1929(昭4)年7月25日〜 教師4人・生徒25人
  上越線後閑駅―徒歩―法師温泉泊 約28キロ
  法師―徒歩―三国峠越えー湯沢温泉泊 約30キロ
  湯沢―汽車―新津・会津若松泊
 1930(昭5)年 草津白根・志賀高原 教師2人・生徒10人
  中之条から川原湯温泉まで約24キロ
  草津香草温泉から草津白根山越えで渋温泉まで約28キロ

 1932(昭7)年 教師4人・生徒25人 尾瀬へ
  水沼の一の鳥居から―徒歩―根利南郷―穴原温泉泊
  約30キロ
  老神―バスー鎌田―徒歩で三平峠越えー尾瀬沼泊
  約24キロ
  尾瀬沼―尾瀬ヶ原―富士見峠―鎌田まで
  徒歩30キロ

 1933(昭8)年 教師2人・生徒40人 富士登山
  多摩御陵参拝後、富士吉田にて休憩
  午後6時半 登山開始―
  「八合目以上は雨にて眺望きかず困難を極む」
  翌日、川崎大師・泉岳寺・宮城・靖国神社参拝し帰桐

 1935(昭10)年 教師?人 生徒38人 尾瀬日光
  トラックで利平茶屋―赤城越えー老神温泉泊 徒歩24キロ
  鎌田の先から徒歩―富士見峠越えー尾瀬ヶ原―尾瀬沼へ 
  「泥土の路に丸太を二つ割りにして横に並べたるを
  渡りて進む。踏み外せば膝を没する泥土なり」
  徒歩26キロ
  「高山植物今を盛りと咲き乱れ、美観筆舌に尽くし難し」
  尾瀬沼―三平峠―大清水・根羽沢を遡り峠越えー丸沼泊
  18キロ
  丸沼―菅沼―金精峠―日光湯元―バスで日光へ
  徒歩24キロ

 1936(昭11)年 教師6人 生徒34人 富士登山
  二日目 午後6時半 馬返しから登山
  ―五合目午後8時―
  八合目午前3時―頂上午前4時半。
  吉田着午後1時―大正天皇陵遙拝―桐生着午後10時

6.昭和13年度から夏休み前後の動きは、変化してくる。
 それについては、次回に記す。

7.昭和23年新制高校発足。
二学期制となり夏休みの基本的日程も変わり7月11日〜8月25日までの間に、学校ごとに設定された。
 桐高の場合(多くの普通科男子校の場合)7月16日〜8月24日までが原則的に夏季休業となった。
 さらに、二学期制のため、9月末に3〜4日間の休業日を設けた。

9.昭和42年度に二学期制から三学期制となり、
 夏季休業は7月21日〜8月31日を原則とした。

10.現在はどうなっているのか?
 県の管理規則が改定され、年間の休業日数の上限以内で、学校ごとに定められるようになった。
 桐高では、
  2005(平成17)年度 7月21日〜8月28日
  2006      年度 7月21日〜8月27日
  2007      年度 7月28日〜8月27日
  2008      年度 7月24日〜8月28日
  2009      年度 7月24日〜8月27日
  2010(平成22)年度 7月23日〜8月29日
                (なお、土・日の休日を含む)

 こうして、桐生市域内の高校にあっても、統一されてはいなので、
夏休みが終わり、生徒が一斉に通学し始めるかと思うと、まだそうではない
学校の生徒もおり、世間は戸惑うこともあるわけである。

 

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其の二十六 水泳

 7月3日同窓会総会・懇親会が無事終了した。
 今年も幹事学年の51年卒が頑張ってくれました。
懇親会では、51・52年卒が大変多かったようです。しかし、例年再会する大先輩・小先輩、そして後輩並びに恩師が少なかったようで、寂しい面もありました。また来年元気に再会を期しましょう。

 総会もすみ、学校では定期試験もすみ次は球技大会ですが、何年前からか球技大会は、秋一日になったようであります。そこで暑い夏を迎え、「水泳」について触れましょう。

 水泳(古い時代には 水浴びと言っていたが)
 明治、大正時代、個人や家庭でも水浴びに行ったり、海水浴に行っている。
桐生周辺では、もちろん渡良瀬川で、赤岩の岩場あたりは勇気がないと飛び込めない場所であった。大間々の高津戸付近も水浴びの場所であったし、桐生川も1メートル位の水かさがあった時もある。ふるちん、越中ふんどしの時代である。
 有力人士の家庭では、新潟の鯨波や茨城の阿字が浦などに海水浴に行ったであろうが、桐生は他府県からの転入者も多く、親戚が新潟や千葉・茨城・神奈川などに有る家の子どもは、夏休みに海辺で過ごした生徒も何人もいたようである。
 限られた資料であるが、水泳が記録されているのは、
1920(大正9)年
7月3日 「本日より10日間、第四・第五学年生徒
…梅田村附近の桐生川にて水泳をなす」
 
8日「朝礼の際、…水泳に関する講話あり」と、教務日誌にある。

 その後の記録は未発見のため分からないが、水泳も行われていたであろう。
新川運動場の西北隅に「新川プール」が竣工したのは、1932(昭和7)年7月であるが、どの程度利用したかは分からない。
 昭和8年夏、植木松太郎(後、広島県教育界で活躍)は、泳げない生徒がかなりいたので、校長の許可をとって、川に連れていって訓練をしたと語る(桐中第19回同窓生還暦記念誌=昭和58年刊、植木松太郎=72歳の「近況と思い出」より)。
「…最後の日に赤岩へ連れて行った。川からまっすぐに崖が切り立ち、下は深い淵となっている。私は先ず淵に潜って岩等危険物のないことを確かめ、
『さあ、飛び込むんだ。俺が模範を示すから続いて来い』とダイブした。」
手伝おうといって一緒に来てくれた配属将校の生駒少佐が「ためらう生徒を次々と掴まえて突き落として下さる」。そして最後に少佐は「頭を下に真っ逆さまにともかく飛び込みの形で水面に落ち深く潜られた。…」と。そして「顔が浮かんで来たら、いつもはピンと跳ね上がって威厳のあるヒゲが、ドジョウのように垂れ下がっていて、大笑いした」と語っている。

 1938(昭和13)年7月の記録では、夏期特別指導で「水泳」があり、
桐生川の「第一遊園地」とある。現在の本町3丁目から菱に向かい、幸橋の附近に遊園地(個人が作ったもの)があり、ボートも浮かび水泳場もあり賑わったそうである。ただ小生の記憶にはない。
 学校では、新川プールも遊園地のプールも使用したと思える。
 1943(昭和18)年の8月31日には「校内水泳大会」を新川プールで開催。分団対抗、一般対抗あり、水球もあった記録が残されているが、その前後に水泳の記録の文献資料は未発見。運動会もなくなり修学旅行もなくなり、なんで「水泳大会」なのか分かりませんが、先生方も苦労して考えたのでしょう。
 なお、昭和18年度から「海洋訓練」と称して海での訓練が始まったが、それは学校行事ではなく、軍の要請で5年生が千葉まで出かけた。80年史には、田村輝夫(19年卒、母校在職25.9〜54.3)詳細な記録が記載されている。19〜20年は、希望者であろうか榛名湖で実施された。
「新川プール」は、22年9月カスリン台風で崩壊した。
 昭和30年前後に「水泳部」が活躍しているが、他市や近隣学校のプールを利用しているが、普段は「阿左美沼」であり、「冷たく、汚かったが、そこしか無かった」と!

 また、桐高にプールが完成し、その後取り壊されたのは、
1967(昭和47)年12月竣工〜2000(平成12)年3月取り壊し。
実質31年間ということになる。この間以外は、戦後「水泳」の授業は無かったと思える。水泳の授業をサボり秋になって、一面あおみどろに覆われたプールで泳がされた生徒もいたようである。
 夏休み中、部活動の合宿中に原則的には禁止されているが、夜に部員がプールで騒いでいたものである。
 また、プールを利用し、校内球技大会の一種目として「水球」が実施されたが、多分昭和40年代末からであろう。バスケットやハンドボールでの接触プレー、肉弾戦が少しは避けられるかもしれないという教員の親心であったが、悪ガキたちは水の中でもじゃれあい、陸に上がってからも角付き合わせていたものである。少なくともエネルギーだけはあの当時の若者は持っていた。

posted by 100年史編集者 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 行事・生活